2018年8月25日土曜日

大山の噴火と山陰への人類到来

〈火神岳〉もしくは〈大神岳〉 大山


 伯耆国の大山は、角盤山(大山寺)の山号をもつ。古来、ヒノカミダケ(火神岳)ともオホカミダケ(大神岳)ともいわれるのは、「出雲国風土記」の記述による。


 岩波文庫の『風土記』では、次のように書かれている。

「出雲國風土記」
持ち引ける綱は、夜見の島なり。固堅め立てし加志は、伯耆の國なる大神の岳なり。
(もちひけるつなは、よみのしまなり。かためたてしかしは、ははきのくになるおほかみのやまなり。)
〔岩波文庫『風土記』(p. 86)〕

 小学館の『風土記』では、次のように書かれている。

「出雲国風土記(意宇の郡)」[原文]
持引綱夜見嶋。固堅立加志者、有伯耆国火神岳、是也。
〔新編日本古典文学全集 5『風土記』 (p. 138) 〕


 岩波書店の日本古典文学大系 2『風土記』は、少し詳しく見てみよう。

「出雲國風土記」 意宇郡
[原文] 亦高志之都都乃三埼矣 國之餘有耶見者 國之餘有詔而 童女胸鉏所取而 大魚之支太衝別而 波多須々支穗振別而 三身之綱打挂而 霜黑葛闇々耶々爾 河船之毛々曾々呂々爾 國々來々引來縫國者 三穗之埼 持引綱夜見嶋 堅立加志者 有伯耆國火神岳是也
 (校訂注)
 ⇒ 底・諸本「桂」に誤る。
 ⇒ 底・諸本「聞」。解による。
三穗之埼(のあと) ⇒ 訂「也」がある。底・諸本により削る。
 ⇒ 底・諸本「接」。解の?による。
 ⇒ 紅葉山文庫本・訂「大」。底・諸本のまま。

[訓み下し文] 亦、「高志の都都の三埼を、國の餘ありやと見れば、國の餘あり」と詔りたまひて、童女の胸?取らして、大魚のきだ衝き別けて、はたすすき穗振り別けて、三身の綱うち挂けて、霜黑葛くるやくるやに、河船のもそろもそろに、國來々々と引き來縫へる國は、三穗の埼なり。持ち引ける綱は、夜見の嶋なり。堅め立てし加志は、伯耆の國なる火神岳、是なり。
(ふりがな文) また、「こしのつつのみさきを、くにのあまりありやとみれば、くにのあまりあり」とのりたまひて、をとめのむなすきとらして、おふをのきだつきわけて、はたすすきほふりわけて、みつみのつなうちかけて、しもつづらくるやくるやに、かはふねのもそろもそろに、くにこくにことひききぬへるくには、みほのさきなり。もちひけるつなは、よみのしまなり。かためたてしかしは、ははきのくになるひのかみだけ、これなり。
 (頭注)
高志 / 北陸地方(越前・越中・越後)の古称。
都都 / 所在不明。能登半島の北端珠洲(すず)岬に擬する説がある。
三穗の埼 / 島根半島の東端美保関町。その突端を地蔵崎という。下に美保埼と見える(一四一頁)。
夜見の嶋 / 夜見ガ浜(弓ガ浜)。下に伯耆の国郡内、夜見島と見える(一三九頁)。
火神岳 / 鳥取県の大山(だいせん)(一七一三米)。
〔日本古典文学大系 2『風土記』 (pp. 100-103) 〕


 ○ その伝承について鳥取県の『大山町誌』は、岩波版『日本古典文学大系』(『大系本 風土記』)の該当の個所を引用したうえで、次のように記述している。


『大山町誌』 「第三章 大山の開基と成立」
 今日、伝えられている『出雲風土記』は、その奥書からみて、中央に進達された公文書正文ではなく、編述責任者の出雲国造家に伝えられた副本を伝本祖としている。しかも、国造家本そのものは今日に伝わらず、国造家伝来本に後人の誤訂の手の加わった幾転写の一本を伝播祖としているため、従来「火神岳」か「大神岳」かは、にわかに定め難いものがあった。
 地方の大方の史家は、「大神岳」説に組しており、「おおかみのだけ」は山自体が神であるとともに、そこに大神が鎮まるとしている。『鳥取県史』はこの点にふれて、次のように記述している。
 伯耆大山は、『出雲国風土記』に「伯耆の国なる大神岳」とあり、「三穂の崎」や「夜見の嶋」と並記されているところから大山を指すことは明らかである。諸本に「火神岳」とあるのは、紅葉山文庫本(徳川氏の文庫、明治以後内閣文庫)が「大神岳」と訂正したものが正しいと思われる。したがって「大神」の読みはオオミワではなく、オオカミであるとも推定される。
 今日、幾つかの写本を比校して、原本の姿に復原することが可能となり、それによって、我が国の古典研究は一段と深まってきたのであるが、『出雲風土記』についても、伝本祖の姿を考えることができるようになった。上述の岩波版『日本古典文学大系』は、その成果の一つであり、したがって、紅葉山文庫の校訂には一考を要するものがあるように思う。
〔『大山町誌』 (pp. 142-143)

―― このあたりの詳しい資料の引用と考察は、ここでは省くけれど、Google サイト と、バックアップ・ページで行なっている。


 ここでの興味の中心として、大山火山の活動は、いつごろまであったのだろうか?

 ○ 次の文献で、確認してみよう。

『地質学雑誌』 90 巻 9 号 1984年09月15日 一般社団法人 日本地質学会/発行
津久井雅志「大山火山の地質」
( URL : https://www.jstage.jst.go.jp/article/geosoc1893/90/9/90_9_643/_pdf/-char/ja )
 (p. 644)
 大山火山は更新世中期以降に活動を開始し少なくとも 2 万年前以降までその活動を続けた。
…………
 (p. 655)
  草谷原軽石層 (KsP)・弥山火砕流堆積物 (MiF)
 三位・赤木 (1967)、赤木 (1973) は〝大山町上高田〟の〝火山砂礫層〟中の炭化木片から 17,200 ± 400 yBP (GaK383) という年代を報告している。これはおそらく本火砕流堆積物に相当すると思われるが試料採取地点、堆積物の詳細は不明である。
…………
 文 献
 赤木三郎、1973 : 大山火山の地質。日本自然保護協会調査報告、45, 9‐32.
 三位秀夫・赤木三郎、1967 : 5 万分の 1 土地分類基本調査「米子」表層地質各論。経済企画庁、1‐35.

―― ここでは、「三位・赤木 (1967)、赤木 (1973) 」「弥山火砕流」「堆積物に相当すると思われる」「〝大山町上高田〟の〝火山砂礫層〟中の炭化木片から 17,200 ± 400 yBP (GaK383) という年代を報告している。」という論述を見ることができる。
 いまのところ、この、測定された年代そのものを否定するような論稿は、ないようである。

◎ ただし、次に参照する論文の 3 ページでは、津久井雅志氏は「大山火山の地質」で「弥山溶岩ドーム起源の火砕流」を考察する際、
「三位・赤木 (1967) が北麓の扇状地から報告した放射性炭素年代 (17,200 ± 400 yBP) がこの火砕流の噴出年代を示すものと考えていた。」が、
「しかしながら、三位・赤木 (1967) の測年試料採取地周辺には弥山溶岩ドーム起源の火砕流は到達しておらず、なぜこの年代を噴火年代と判断したのか理由は不明である。」
と述べられ、「弥山溶岩ドーム起源の火砕流」を考察する対象にはその「木片」のデータは含めない立場であることが、明記されている。

 ○ 原子力規制庁「平成 27 年度原子力施設等防災対策等委託費(火山影響評価に係る技術的知見の整備)」の成果の一部として、2017 年に公開されたものである。


『地質調査研究報告』 第 68 巻 第 1 号
公開日: 2017/03/17
山元孝広「大山火山噴火履歴の再検討」 (p. 15)
( URL : https://www.jstage.jst.go.jp/article/bullgsj/68/1/68_1/_pdf/-char/ja )
8. まとめ
 2) 大山火山の最新期噴火を弥山溶岩ドームの形成とする津久井 (1984) と、三鈷峰溶岩ドームの形成とする福元・三宅 (1994) の異なる主張があったが、本研究の結果は後者を支持している。新たに実施した放射性炭素年代測定の結果、三鈷峰溶岩ドーム形成に伴う阿弥陀川火砕流堆積物からは 20.8 千年前、弥山溶岩ドーム形成に伴う桝水原火砕流堆積物からは 28.6 千年前の暦年代が得られた。
文 献
福元和孝・三宅康幸 (1994)
大山火山、弥山溶岩ドームよりも新期に形成された三鈷峰溶岩ドームと清水原火砕流。第四紀、no. 26, 45‐50.津久井雅志 (1984)
大山火山の地質。地質学雑誌、90, 643‐658.

 この論文の 13 ページの表(第 3 表)に、次のデータが記録されている。

  • 20,800 年前  三鈷峰(溶岩)
  • 28,600 年前  弥山(溶岩)
  • 29,300 年前  烏ヶ山(溶岩)


―― 最新の研究では、大山の〈弥山・三鈷峰・烏ヶ山の溶岩ドーム〉形成の順序は〝烏ヶ山-弥山-三鈷峰〟で、それは上の数値で示された。
 このデータによれば大規模な大山の火山活動は、20,800 年前に終わったといえよう。
 ただし、それ以外の〔大規模とはいえない〕火山活動については、現在のところ〈16,800 ~ 17,600 年前と測定された〉データが有効のようである。


 ◉ では、大山の噴火を目の当たりにした人類は、果たしていたのか、やはりいなかったのか?

 ○ 大山山麓へ人類が到来した痕跡について、2005 年に次の報告があった。大山町の〈孝霊山〉の麓(ふもと)に展開する〝妻木晩田遺跡(むきばんだいせき)〟周辺の「発掘調査報告書」の記録である。

『門前第2遺跡(菖蒲田地区)』「第 2 章 第 2 節 歴史的環境」
1 旧石器時代
  名和小谷遺跡では黒曜石製国府型ナイフ形石器が出土している。門前第 2 遺跡(西畝地区)では、AT 層より下層(約 2 万 5 千年以上前の地層)からナイフ形石器と黒曜石の破片を含む石器群が確認されている。
〔『門前第2遺跡(菖蒲田地区)』 (p. 4) 〕

 ◉ 大山の大規模な噴火を目の当たりにした人類は、おそらく、存在したのだと推察される。


日本海の朝日

〈迎日湾〉 東海への船出


都祈(トキ)・都祁(ツゲ)

 韓国 ―― 大韓民国 ―― 慶州市の東に面した海に「迎日湾(げいじつわん)」がある。

 ○ 都祁(つげ)の地名が「迎日(日の出)」の意味をもつことについて、『三国遺事』の邦訳書で注釈があり、そこで参照されている「迎日県」についての記事も『三国史記』の邦訳書で確認することができる。


『完訳 三国史記』「三国史記 巻第三十四 雑志 第三」

地理 一 [原文抜粋(義昌郡)] (p. 608)
臨汀縣、本斤烏支縣。景德王改名。今迎日縣。

地理 一 [邦訳文] (p. 602)
 義昌郡はもと退火郡で、景德王は(義昌と)改名し、今は興海郡で、領県は六つである。…… ④臨汀県はもと斤烏支県で、景德王は(臨汀と)改名し、今の迎日県である。
〔以上『完訳 三国史記』より〕

『完訳 三国遺事』「巻一 紀異第一」

延烏郎 細烏女 [原文抜粋(地名譚)] (p. 88)
祭天所名迎日縣。又都?野。

延烏郎 細烏女 [邦訳文] (pp. 86-87)
 第八代、阿逹羅王の即位四年丁酉(一五七年)に、東海のほとりで、*1 延烏郎と細烏女という二人の夫婦が住んでいた。ある日、延烏が海へ行って藻を採っていると、急に一つの岩が〔一匹の魚だともいう〕(彼をのせて)日本へ運んでいってしまった。そこの国の人びとが見て、これはただならぬ人物だとして、王にたてまつった〔『日本帝紀』を見ると、(この出来事の)前後に、新羅人で(日本の)王になったものはいないから、これはあるいは辺鄙な地方の小王になったことであって、ほんとうの王ではないらしい〕。
 細烏は、夫が帰ってこないのを変に思い、(海辺へ)行ってさがしてみると、夫が脱いでおいた履物が岩の上にあった。それで彼女もその岩の上にあがると、岩ががまた前と同じように動いて運んで行くのであった。そこの国の人たちが彼女を見て驚き、王に申しあげたので、(ようやく)夫婦が再会し、(彼女は)貴妃に定められた。
 このとき新羅では、太陽と月の光が消えてしまった。日官(気象を司る役人)は、「太陽と月の精が、わが国にあったのに、日本にいってしまったため、このような異変がおこったのです」と言上した。(そこで)王は使者を日本にやって、二人をさがしたところ、延烏が、「私がこの国にきたのは、天がそうさせたからである。だから(今さら)もどれようか。だが、私の妃が織った細?[さいしょう](上等のきぎぬ)がある。これをもっていって天に祭ればよかろう」といって、その絹をくれた。使者が帰ってきて申しあげ、その言葉どおり祭ると、いかにも太陽と月(の光)がもとにもどった。その絹を御庫にしまっておいて国宝とし、その倉庫を貴妃庫と呼び、祭天した場所を *2 迎日県、または *3 都祈[トキ]野と名づけた。

*1 延烏細烏=この烏(오)(o) は、新羅人の男女の名前によく添尾される語である。……
*2・3 迎日都祈=「迎日」は「돋이」(ᄒᆡ(해)도디)(tot-i, hʌj-to-ti)(日の出)。『三国史記』巻三十四、地理一に、「臨汀県、本斤烏支県 今迎日県」とあり、「斤烏支」は、「斧・斤」の訓「도ᄎᆡ(채)」(돗귀)(to-čhʌj, tos-kuj) の記写である。「都祈」は「도기」(to-ki) その音転は「도디・도치」(to-ti, to-čhi) で、ともに「日の出」(도디)の音訓借字。
〔以上『完訳 三国遺事』より〕

※ 引用文中の、〔〝ᄒᆡ(해)도디〟・〝도ᄎᆡ(채)〟と記述した個所で、〕〝(해)〟ないしは〝(채)〟と半角の括弧内に書いた文字は、直前の文字の一般的な組み合わせを引用者が想定して、引用に際し代替文字として追記したもので、原文にはありません。

 この「都祁」の名にかかわるであろう〈都介野岳〉は、大和の〈箸墓古墳〉から約 12 キロメートル、東北東約 25 度の位置にある。

 ◉ いにしえの、日本の文化は、渡来人によってもたらされたものに、まちがいなく大きく影響された。

朝日が昇る〈東海〉の向こうにある日本は、
渡来人が目指した土地でもあった。孝霊天皇の伝説だけじゃない、
〈東海〉の東の「日吉津(ひえづ)」付近は、渡来人の上陸地点のひとつだ。


Google サイト で、本日「伯耆大山 - 迎日湾」の地図を追加したものを公開しました。

日本海の朝日: 大山の噴火と山陰への人類到来
https://sites.google.com/view/emergence2/tsuge/toki

バックアップ・ページでは、大山の見える海上の範囲が、〝弧〟に描いてあります。

大山噴火:日本海の朝日 バックアップ・ページ
http://theendoftakechan.web.fc2.com/eII/tsurugi/toki.html

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