2018年8月4日土曜日

菟田・高倉山より 磐余邑へと

磐余邑・磐余山


 高天原より国家平定の霊剣フツノミタマの投下を受けてのち、吉野の山中を進軍した神武天皇(神日本磐余彦天皇・神倭伊波礼毗古命)は、菟田の地から磐余邑を遠望する。
―― 日本書紀から、その場面を引用する。

「神武天皇 即位前紀戊午年九月」
 九月の甲子の朔戊辰に、天皇、彼の菟田の高倉山の巓に陟りて、域の中を瞻望りたまふ。時に、國見丘の上に則ち八十梟帥〔梟帥、此をば多稽屡と云ふ。〕有り。又女坂に女軍を置き、男坂に男軍を置く。墨坂に焃炭を置けり。其の女坂・男坂・墨坂の號は、此に由りて起れり。復兄磯城の軍有りて、磐余邑に布き滿めり。〔磯、此をば志と云ふ。〕

(ながづきのきのえねのついたちつちのえたつのひに、すめらみこと、かのうだのたかくらやまのいただきにのぼりて、くにのうちをおせりたまふ。ときに、くにみのをかのうへにすなはちやそたける〔たける、これをばたけるといふ。〕あり。まためさかにめのいくさをおき、をさかにをのいくさをおく。すみさかにおこしずみをおけり。そのめさか・をさか・すみさかのなは、これによりておこれり。またえしきのいくさありて、いはれのむらにしきいはめり。〔し、これをばしといふ。〕)
〔『大系本 日本書紀 上』 (pp.198-199)
 
「補注 3 巻第三 神武天皇」
 神日本磐余彦天皇 神日本磐余彦天皇は、記に神倭伊波礼毗古命とある。神日本は美称。磐余は大和の地名。奈良県磯城郡桜井町・安倍村・香久山村付近(今、奈良県桜井市中部から橿原市東南部にかけての地)で、桜井町谷には磐余山がある。大和の平野部から宇陀の山地部に入る咽喉の位置にある。
〔同上 (p.576)

 上の引用文補注 3に、磐余は現在の奈良県桜井市中部から橿原市東南部にかけての地とある。また磐余山があるという。

 ○ その〝磐余山〟がある場所を調べてみた。桜井市谷に鎮座する〈石寸山口神社〉が、式内社の「石村山口神社」であるかもしれないと論じられたなかで、〝磐余山〟のことも言及されていた。その一部を引用する。

石村山口(イハレノヤマクチノ)神社
【所在】
〔A〕 石寸山口神社 櫻井市大字谷五〇二番地
〔B〕 山口神社 櫻井市高田、舊十市郡池上鄕
【論社考證】
ことにA社の方は用明天皇の磐餘雙槻宮の地と考へられてをり、その南の山はコモ山といふが、また磐餘山とも稱されてをり、A社を式内社と考へてよいやうにも考へられる。しかし、『磯城郡誌』『大和志料』はいづれも本社をA社とすることは否定してをり、A社を式内社と斷定することもできない。「イハレ」の地が櫻井市中部から橿原市東南部にわたる地域と考へられ、その地に續く山塊 ―― 多武峰山塊をも含むとすることは十分考へられるところであり、B社を式内社と考へる餘地も存するから今日ではいづれを式内社と斷ずることは困難といはざるを得ない。
〔(堀井純二)『式内社調査報告 3 』 (p.912, p.913)

―― 一説に、この場合の「寸」は「村」を省略した字体であるともいわれていることを、追記しておこう。
 さてここで、A社とB社のいずれが式内社であるか、という結論は保留されているけれど、〈石寸山口神社〉の南にある山が〝磐余山〟だということは、前段階(前提の段階)ですでに結論が出ている。
 それに従えば、〝磐余山〟は〈石寸山口神社〉の南の〝コモ山〟のことである。2 万 5 千分の 1 の地形図に山頂の記号(三角点)が記されている個所であると特定できる。その三角点のすぐ南に「桜井小学校」がある。
 調べてみたら、その基準点(三角点)の名称は、「桜井公園」で、標高は 126.42 m であった

畝傍山の天皇陵


 先日、神武天皇陵は畝傍山東北陵(うねびやまのうしとらのすみのみささぎ)といわれるように、畝傍山の北東部に位置するのだけれども、その場所が定まったのは、ペリー来航の 10 年後にあたる幕末期、文久三年( 1863 年)だったのだということを書いた。
 神武天皇陵の場所決定のいきさつは、各種文献に詳細があるけれども、ここで、その頃に整備された第四代までの天皇陵について、外池昇氏の『検証 天皇陵』を引用しつつ、その他のページも参考に簡単に紹介しておこう。

 ○ まずは「文久の修陵」に関する資料と「橿原神宮」の鎮座についての引用文から。

『文久山陵図ぶんきゅうさんりょうず
 文久二年(一八六二)閏[うるう]八月の宇都宮[うつのみや]藩主戸田忠恕[とだただゆき]による「山陵修補[さんりょうしゅうほ]の建白[けんぱく]」に端を発する文久の修陵における山陵の絵図。朝廷の御用絵師鶴澤探眞[つるさわたんしん]によって描かれた。
  文久の修陵は、今日の宮内庁による陵墓管理の原形を形作ったものと位置づけられるが、それに至るまでには各天皇陵に巨額の費用をかけての大掛かりな普請が繰り広げられた。『文久山陵図』はその大規模な普請以前の様子を「荒蕪[こうぶ]」図として、普請が完成した後の様子を「成功[せいこう]」図として両者を対比させているのが特徴的である。本書に掲げた『文久山陵図』のうち「荒蕪」図と「成功」図をともに載せた例を一覧すれば、文久の修陵における普請で何がなされたかが一目瞭然である。墳丘は整備され、鳥居をしつらえた拝所が新設され、陵全体が天皇による祭祀の対象、つまり侵すべからざる聖域とされたのである。
〔『検証 天皇陵』 (p.30)

明治二十三年(一八九〇)四月には、神武天皇陵の隣地に神武天皇・同皇后媛蹈鞴五十鈴媛命を祭神とする橿原神宮[かしはらじんぐう]が鎮座し、昭和十五年(一九四〇)の紀元二六〇〇年に至るまで神武天皇陵は拡張・整備が続けられた。
〔同上 (pp.34-36)

 文久の修陵では、文久三年 (1963) に、神武天皇陵が定められた。同じく文久の修陵で、第三代安寧天皇陵と、第四代懿徳天皇陵が修補されている。
 明治十一年 (1878) に、第二代綏靖天皇陵が定められた。
 いずれも〝畝傍山〟にある。それぞれの所在地をリスト形式で書けば、次の通り。
  1.  神武天皇陵 / 橿原市大久保町
  2.  綏靖天皇陵 / 橿原市四条町
  3.  安寧天皇陵 / 橿原市吉田町
  4.  懿徳天皇陵 / 橿原市西池尻町

 神武天皇が即位した「橿原宮」も畝傍山にあったと伝承される。古事記には畝火の白檮原宮(うねびのかしはらのみや)」〔『大系本 古事記』 (p. 161) とある。この白檮原について『大系本 日本書紀 上』の頭注 (p. 213) で解説があり、先年の発掘によって、この地に昔白檮の林のあったことが確認されたと記されている。

―― 万葉集(巻第一の二九)橿原の日知の御世と歌われているのは、神武天皇の「橿原宮」を意味する。

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