2018年8月11日土曜日

「帝室技芸員」宮本包則

〈印賀鋼〉最強伝説 / 伯耆・刀匠伝 Ⅱ


明治期の「帝室御刀鍛冶」能登守菅原包則


前回、「〈印賀鋼〉最強伝説 / 伯耆・刀匠伝 Ⅰ」で引用した『倉吉市史』に、安綱は「伯耆国大原」の刀匠であることが書かれていた。それに続けて「以後、伯耆の地には刀匠が輩出した」とあるけれど、伯耆の国には明治時代に活躍した宮本包則がいる。

 ○ 宮本包則(みやもとかねのり)の、郷土の資料にある記録から。

一、刀工宮本包則(竹田郷土誌より)
 宮本包則翁は我が郷土出身者中最も優れたる人にして、明治の正宗と称され恐れ多くも上は天皇の御守刀、伊勢の皇大神宮の御宝刀より、其の他全国名ある神社の御宝刀を鍛うる事其の数実に多し。校下大字大柿村の中央津山街道の横に翁の功を賞せし碑あり。
〔『宮本包則刀剣展』 (p.2)


刀匠 宮本包則伝
 彼の来歴の概略を知ることのできる書に「伯耆国刀工、元能登守菅原包則履歴」なる一冊子がある。それによって、郷土の刀鍛冶として名を知られた包則を知りたいと思う。
 この書の編者は河村郡西郷村の岩根則重であって、包則の弟子であると自記している。おそらく、最も信頼できる包則の研究書であろうと思う。その書によると、
 「吾が師、宮本包則は幼時は沢次郎、後に志賀彦と称す。姓菅原。元横木氏。後宮本氏に改む。父を惣右衛門といい代々醸家であった。母は石原氏(木地山村)で名は多加といった。師は其の第二子で、天保元年(一八三〇)八月二十五日(実は文政十三年)河村郡大柿村に生れた。
 其の隣接する大原の地は古昔、刀工の名手安綱・真守等の住せし処である。……
…………
 慶応二年(一八六六) 勅命によって、聖上(孝明天皇)の御太刀(長さ二尺三寸)を鍛えて奉る。
 同三年三月二十三日、能登守に任ぜられる。
 明治元年正月、官軍の東征に従い、大津の陣中にあって戦刀数口を造る。二月二十五日草津駅において大総督有栖川宮へ陣中鍛える太刀一口を献じた。
 同年夏、三条西卿(季知)より佩刀を作るべき旨を命ぜらる。卿に告げて曰く
 「洛東稲荷神社の後山、三か峰は名匠宗近が参籠して鍛冶せし遺跡である。包則も其の轍を踏み、閣下の刀を造らんと欲す。」
と、乃ち同神社の許可を得て仮居を構え、七月五日より沐浴斎戒して卿の刀を鍛うるに、同月十一日俄に勅命を蒙り、今上の御太刀(二尺三寸)及び御短刀(八寸五分)を鍛えて奉る。因って御賞として金四十三両を賜う。此の鍛錬中(八月十五日)卿自ら来りて見る。
 最後に刀一口を造りて神社に納参。…………
〔『続 三朝町誌』 (p.528, pp.529-530)


―― 伝記の詳細は各資料によられたいが、続 三朝町誌の 530 ページには、明治元年に伊勢皇太神宮の御造営につき、御太刀三十二口を鍛造して上納した。と続き、535 ページに大正十五年に他界した。と、記録されている。大正十五年( 1926 年)は 12 月 25 日に、昭和元年となった。


 江戸時代の末( 1830 年)に生まれた宮本包則が、「帝室技芸員」に任命されたのは、明治 39 (1906) 年のことであった。余談ではあるが。七十七歳の祝賀を喜寿という。

 同じ時代、明治 37 年に創業した米子製鋼所の鋼は、「少なくとも明治 41 年から大阪造幣局の貨幣極印用として買上げられてきた」ことが、先に〝〈印賀鋼〉最強伝説 〟(2018年7月10日火曜日付け)で確認できた。
 けれども、その原材料となったはずの砂鉄の採取地は、明確な記録が未だ確認できていない。資料を探していたおりのことだ。それには当時の事情が関係すると、教えられたことがある。おそらくは 21 世紀の現在と違い、門外不出の企業秘密としなければ、鉄製品の製法等は、すぐに盗まれ、あげくのはてにはブランド名を模した粗悪品の横行などが、当然の時代ではあったのだろう。

 ○ 日本刀の素材の砂鉄も、ならばいっそう原産地の明記されたものは皆無であろうと思われたなか、〝帝室御刀鍛冶〟宮本包則作の銘に「余川山ノ蹈鞴テ造ル」と刻まれた太刀があった。太刀の銘文と、その解説を参照しよう(次の資料には、太刀の銘文がはっきり読めるよう撮影された原寸大印影がある)。


石原孟明氏蔵
太刀 銘
於東京□□□竹田生明治三十五年十一月吉日
帝室御刀鍛冶能登守菅原包則七十三歳作
□□□祖石原荘次郎ガ寛延二年伯耆国河村郡竹田谷
余川山ノ蹈鞴テ造ル□鋼ヲ以テ其五代孫石原平八郎君為作之

解説
包則の母方、石原家への為打である。石原家は、大柿村と同じ河村郡竹田村の「木地山」である。この木地山は、岡山県に近い国道一七九号線沿いにあり、中国山脈の懐にある。この近くの余川山より蹈鞴[たたら]にて造る鋼にて、この刀を鍛えたとあり、木地山字今井谷たたら遺跡との関連もある。ここの鉄山墓地には「村下[むらげ]孫四郎」なる宝暦年間の墓もある。母方の地より東京迄玉鋼を運ばせ、鍛えた貴重な一振りである。但し、この鋼を後に使ったとの作刀は今のところ無い。―――― 銘文中、於東京[伯耆国]、裏は[包則母]かと思われる。
〔『帝室技芸員 宮本包則刀六十撰』 (p. 59)


 先に引用した宮本包則刀剣展の 32 ページにも、同じ太刀の解説付き印影がある。その解説に余川山とは、当時で云う所の河村郡穴鴨村の近くである。という一文がある。

 現在の地図で「三朝町穴鴨」は確認できる。「穴鴨」の東に「木地山」がある。西には「下西谷」が接していて、その付近で国道 179 号線に国道 482 号線が合流しており、合流地点の少し西、国道 482 号線の南側に〈竹田神社〉があることが確認できる。


Google サイト で、本日、前回分と合わせ、「伯耆国 大山付近」の地図を追加したものを公開しました。

〈印賀鋼〉最強伝説 / 伯耆・刀匠伝
https://sites.google.com/view/emergence-ii/home/kohouki

バックアップ・ページでも、同様の内容で、書いてあります。

〈印賀鋼〉最強伝説 / 伯耆・刀匠伝 バックアップ・ページ
http://theendoftakechan.web.fc2.com/eII/tsurugi/kohouki.html

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