2018年9月10日月曜日

〈天叢雲剣〉の出現 Ⅰ

『日本書紀』に描かれた 上空に雲気を凝集する〈天叢雲剣〉名称譚
そのモチーフは『史記』にあるという


『史記』楚漢篇 より

秦始皇帝常曰。東南有天子氣。於是因東游以厭之。高祖卽自疑。亡匿。隱於芒碭山澤巖石之間。呂后與人倶求。常得之。高祖怪問之。呂后曰。季所居。上常有雲氣。故從往。常得季。高祖心喜。沛中子弟或聞之。多欲附者矣。
秦[しん]の始皇帝[しこうてい]、常に曰く、「東南に天子の気あり」と。是[ここ]に於て東游するに因りて、以てこれを厭[しず]めんとす。高祖、即ち自[みずか]ら疑い、亡[のが]れ匿[かく]れて、芒碭[ぼうとう]の山沢巌石[さんたくがんせき]の間に隠る。呂后、人と倶[とも]に求め、常にこれを得。高祖、怪しみてこれを問う。呂后曰く、「季[き]の居る所、上[うえ]に常に雲気あり。故に従い往[ゆ]けば、常に季を得」と。高祖、心に喜ぶ。沛[はい]中の子弟、或るいはこれを聞き、附かんと欲する者多し。

 秦[しん]の始皇帝[しこうてい]はいつもいっていた、「東南の方角に天子の気がある。」そこで、東方を旅する機会に、この天子の気を発散するものをかたづけようとした。「天子の気」とは王者たるものが発散する一種の気体、むろん特定のものにしか見えない(本冊「項羽本紀」四六ページ参照)。
 高祖は、始皇帝がしんぱいする天子の気のぬしこそは、この自分だと思い、芒[ぼう]・碭[とう](江蘇省北西境にある二つの山)の山沢地帯の、岩石のあいだに身をひそめていた。人といっしょに探す呂后[りょこう]は、いつもかれの所在をつきとめた。ふしぎにおもった高祖がたずねると、呂后はいった、「季[あなた]がいらっしゃるところは、そのうえにいつも雲気がただよっています。だから、それをたよりに行きますと、いつも季[あなた]が見つかるのです。」
 高祖は心ひそかによろこんだ。沛[はい]の青年たちのなかにも、この話を聞き、高祖の部下になりたいという連中がたくさん出た。「子弟」は「父兄」に対する語、わかい世代をいう。
〔朝日選書『史記』中 楚漢篇「高祖本紀」(pp. 142-143) 〕


◎ 日本書紀「神代」の巻(上・下)では、本文に続いて異伝を「一書曰」として記録しているが、「神代上 第八段」本文中の割注に「一書云」として、〈天叢雲劒〉の名が登場する。
 訓み下し文では、次のように記述されている。

草薙劒、此をば倶娑那伎能都留伎と云ふ。一書に云はく、本の名は天叢雲劒。蓋し大蛇居る上に、常に雲氣有り。
〔『大系本 日本書紀 上』(p. 122) より〕

 思うにこれは、おそらく読者は『史記』の記述を知っているだろうと予想したうえで、ここに付加された伝承なのであろう。
 その伝承をさりげなく関連づけることによって、〈天叢雲劒〉に天子のまとうエネルギーが暗に印象づけられ、そうして〝蛇の尾から出てきた剣〟が〝三種の神器〟のひとつに数えられる資格を獲得するのだ。
 如何なる理由でか、スサノヲが船通山の山中 ――〝鳥髪(鳥上)の峰の付近〟で手に入れた剛剣が、神の剣として、天皇家の神宝(かむたから)と定められる必要があったのだ。

◎ おまけに、その剣が八岐大蛇を斬殺した剣よりも強靱であることは、すでに実証済みなのであった。

 『大系本 古事記』は八岐大蛇を斬った「この剣は最初からクサナギという名であった」とする。
 日本書紀の記録は多岐にわたり、複数の異伝で、スサノヲと朝鮮半島との関係性が語られる。
 古い時代から、渡来人は、山陰地方へ訪れていたようだ。

◎ 人類が伯耆大山の麓に残した痕跡には、2 万年以上前のものがあるけれど、古墳時代の、朝鮮半島の影響下にあると思われる発掘資料も多い。

―― スサノヲの神話と、『三国遺事』に記録された延烏郎・細烏女の物語を関連づけて、次のように述べている論稿もある。


金元龍「古代出雲と韓半島」

曽尸茂梨については、それが韓語のソモリ(手頭)であり、韓国中東部、春川地方の古名(『三国史記』牛首州、『日本書紀』牛頭州)と結びつけて考えられていたこともあったが、上記『日本書紀』の注で、九世紀の惟良宿禰が「今の蘇之保留[ソノボル]のところか」と解したことをあげ、新羅を指すものとしたのは正しい解釈と思われる。新羅発祥の地慶州は、初め徐那伐、徐羅伐 (sŏ‐na‐pŏl, sŏrapŏl) 、また金城とよばれたが、Sŏnapŏl は Soe(金属、鉄) ‐Pŏl(村、原)、即ち金城の意であり、慶州王族金氏の都邑地ということになる。因みに現在のソウルも、この Soepŏl の轉訛である。
 結局、素戔鳴尊の降りた「そしもり」は、慶州を指す「 Soe‐pŏl 」であり、「 Pŏl 」の代りに、村町を意味する「 Ma‐ul 」の転記として「もり」をつけたものであろう。
…………
 さて、素戔鳴尊の渡来神話と何か関係のありそうな説話が、『三国遺事』に出てくる。『三国遺事』は、高麗時代の一三世紀に、一然という仏僧によって編纂されたものであるが、それ以前の古文献や伝説に基づく伝承的、民族的故実を集めたもので、政府編纂の『三国史記』には見られない貴重な民間伝承を多く含んでいて重要である。この『三国遺事』によると、「新羅阿達羅王(第八代)四年(西紀一五七年)に、東海岸に住んでいた延鳥郎 (Yŏno‐rang) という男が海辺の岩で海藻をとっていたのに、岩がそのまま彼をのせて日本に渡ってしまった。すると、日本の住民達は、これは尋常の者(非常人)でないとし、国王に推戴した。その後、海辺で夫を探していた妻の細鳥女 (Se‐o‐nyŏ) もまた、岩に負われて日本に渡り、相会して王妃となった。ところが新羅では、突然日月が光を失ったので日宮に尋ねたところ、日月の精が日本に行って了ったためだと答えた。それで人を日本によこして、延鳥郎の帰国を請うたが、彼は天が我をこの国に送ったのであるから帰れない。身代りに、王妃の織った絹をくれるから、持ち帰り天を祭れという。それで、その絹を持ちかえった天を祭ったところ、日月の光がもとのようになった。その時の祭天場所が、迎日縣である」とある。
 即ち、延鳥郎夫婦は、新羅の日月神・天神であり、新羅から日本(迎日湾から恐らく出雲地方)に渡っているものである。これは新羅人の太陽崇拝と関わる説話かもしれないが、新羅人の日本移住を反映する新羅側の伝説である。
 以上、甚だ飛躍的な憶測をたくましくした感が深いが、主に東海を距てて相対する新羅と、古代出雲地方の緊密な関係が、神話・説話を通して明白に反映されており、それは恐らく、新羅からの多数の渡来集団の存在を背景としているものであろう。慶州の東南方、仏国寺、石窟庵のある吐含山に登ると、東側は、長い谷間となって、そのまま東海岸につづいて居り、そこから少し北に上ると、上述の迎日湾となる。この迎日湾から漕ぎ出すと、船は潮流によって自然と出雲につくが、洛東江河口の釜山あたりから船を出しても、それが河口の西側でないと、潮流のために船は対馬につけず、東海(日本海)の方に流されて、矢張り山陰の海岸につく。素戔鳴尊の「そしもり」神話や、延鳥郎の渡海説話は、そうした古代航路を通じた韓半島東南部住民の、出雲地方往来を背景としていることに違いない。
〔『山陰地域における日朝交流の歴史的展開』(p. 2, pp. 3-4) 〕


スサノヲが蛇を斬った剣の名称は〈韓鋤剣〉とも伝えられる

都合により、以下次回。

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