2018年8月6日月曜日

橿原の日知りの宮

 前回、神武天皇(神日本磐余彦天皇)が、菟田の「高倉山」で磐余を遠望した伝承について見た。
 菟田の周辺の地名に関して、大系本 日本書紀 上(p.199) の頭注には、次のように解説されている。

高倉山 奈良県宇陀郡大宇陀町守道にある山。大宇陀町松山の東南方にあり、標高約四四〇メートル、展望がよい。近世の検地帳に、この山の東西山麓に高倉の地名のあることを伝えている。
国見丘 古来諸説があるが、確実に比定すべき地がない。字陀郡大宇陀町と桜井市との間にある経ヶ塚山は、高倉山の西にあたってよく見える所なので、地理にはあう。国見丘の名を伝えていないが、国見をする丘の意味の普通名詞ともとれる。

―― 以上の解説文を検証すると、現在、〝神武天皇聖蹟菟田高倉山顕彰碑〟の立つ宇陀市大宇陀守道の〈高角神社〉に近い山頂(南西側)には三角点があって、〝基準点名「大東」〟標高は約 428 m 地点であることが国土地理院の「基準点成果等閲覧サービス」で確認できる。
 この数字では上の解説と標高が合わないので、さらに調べてみると、その北に「城山」という名称が見え、城山の南側の山頂にも、三角点があった。そちらは〝基準点名「拾生」〟で標高は約 440 m 地点だった。
 計算してみると、「高倉山 伝承地付近の山頂」から「城山の南側の山頂」までは、水平距離で、約 1.4 ㎞ であった。
 ちなみに城山の住所は「宇陀市大宇陀春日」となっている。

―― もうひとつの〝国見丘〟の参考地「経ヶ塚山」は、「神武天皇聖蹟菟田高倉山顕彰碑」のほぼ真西(西北西約 6 度の方角)にあって、水平距離では約 4.8 ㎞ 離れている。
 ちなみに、「神武天皇聖蹟菟田高倉山顕彰碑」から「天香久山」へは約 11.6 ㎞ 離れていて、「畝傍山」は「天香久山」からさらに 3 ㎞ ほど西にある。

 ○ 神武天皇は畝傍山に「橿原宮」を造営して、そこで即位した。

 九月の壬午の朔乙巳(二十四日)に、媛蹈韛五十鈴媛命を納れて、正妃としたまふ。
 辛酉年の春正月の庚辰の朔に、天皇、橿原宮に即帝位す。是歳を天皇の元年とす。正妃を尊びて皇后としたまふ。
(ながづきのみづのえうまのついたちきのとのみのひに、ひめたたらいすずひめのみことをめしいれて、むかひめとしたまふ。
 かのとのとりのとしのはるむつきのかのえたつのついたちのひに、すめらみこと、かしはらのみやにあまつひつぎしろしめす。ことしをすめらみことのはじめのとしとす。むかひめをたふとびてきさきとしたまふ。)
〔『大系本 日本書紀 上』「神武天皇 即位前紀庚申年九月-元年正月」 (p. 213)

 ○ かくして、神武天皇が即位した「橿原宮」も畝傍山にあったと伝承され、万葉集に「橿原の日知の御世」と、歌われている。万葉の時代から「聖」は「日知り」のことであった。

じり[日知・聖](名)① 天皇のことをさす。
 「玉だすき畝傍[ウネビ]の山の橿原の日知[ひじり]の御世ゆ」(万二九)
【考】 ヒは日、シリは領知する意のシルの名詞形であろう。日を知る者の意で天皇をさす。「聖」の字に応ずる訓としても用いられた。
〔『時代別 国語大辞典 上代編』 (pp.610-611)

―― この歌についての解説を注釈本で参照してみたい。

玉たすき 畝傍の山の
橿原の 聖[ひじり]の御世ゆ〔或ハ云フ 宮ゆ〕
あれましし 神のことごと
栂[つが]の木の いやつぎつぎに
天の下 知らしめししを〔或ハ云フ めしける〕
 天[そら]にみつ 大和をおきて
…………
 【口譯】 畝傍の山の橿原の地にましました、英明な神武の御世より〔或ハ云フ、宮より〕 お生れになつた歴代の天皇方が、つぎつぎに天の下を治めてをられたのを、〔或ハ云フ、治めてをられた〕 大和の地をさしおいて、…………
 【訓釋】 …………
 橿原の聖の御世ゆ ―― 橿原は畝傍山の東南麓、今の橿原市畝傍町のあたり。神武紀に「觀夫畝傍山東南橿原地者、蓋國之奥最中墺[モナカ]區乎。可治之[ミヤコツクルベシ]」とある。古事記には「坐畝火之白檮原宮治天下也」とある。「ひじり」の語については考に「日知てふ言は、先月讀命は夜之食[オス]國を知しめせと有に對て、日之食國を知ますは大日[ヒル]女の命也、これよりして天つ日嗣しろしをす御孫の命を日知と申奉れり、」とあるが、全註釋には「ヒジリは、日知と書いてあるのが語義であつて、日を知る人の謂なるべく、古代、農耕の上に暦日を知る人を尊んで言つた語と考へられる。暦のことをヒヨミといふは、日を數へる義であり、月のことをツクヨミといふも、月數を數へる義であつて、共に農耕の生活から來た語であり、日知も同樣の造語であらう。しかしながら漢字の入り來るに及んで、その聖の字の訓として用ゐられ、聖の字の意味に習合した。」とあるに從ふべきであらう。……
〔『萬葉集注釋』卷第一 二九 (p.253, p.255) 〕


―― 最後に、次のことを再確認しておこう。
 今回の日本書紀からの引用文では省いたけれど、神武天皇の正妃は、「事代主神(ことしろぬしのかみ)」の子である。事代主神は、国譲りの神話に登場する、オホクニヌシ〔大己貴神(おほあなむちのかみ)〕の息子だ。
 いわゆる出雲神話によればオホクニヌシのサキミタマ・クシミタマ(幸魂・奇魂)は、オホモノヌシであって、つまり古事記に「御諸山(三輪山)の山の上に坐[ま]す神」と記述されている神に同じ、ということだ。
 三輪山の山頂に坐す神オホモノヌシは、オホクニヌシのミタマ、なのである。
 そして、第二代綏靖天皇の母は「媛蹈鞴五十鈴媛命」と、日本書紀に書かれている。つまりそれは、〈神に坐す(ミワニマス)〉オホクニヌシの神の子孫でもある、ということなのだ。

また、初代天皇〈神日本磐余彦天皇〉の神話で、その皇后の名は、
〈媛蹈鞴五十鈴媛命〉――〝たたらの姫〟とされている。
鉄と武力は、この神話でも最初から密接な関係として描かれた。


Google サイト で、本日、前回分と合わせ、地図を追加した内容のものを公開しました。

橿原神宮:畝傍山の日知りの宮
https://sites.google.com/view/geshi-lines/hijiri/kashihara

バックアップ・ページでは、もう少し詳しい情報など、書いてあります。

橿原神宮:畝傍山の日知りの宮 バックアップ・ページ
http://theendoftakechan.web.fc2.com/eII/hijiri/kashihara.html


座標間の水平距離と角度は、次のページの座標データに基づいて計算しています。

修正版 一覧表データの座標間の距離と角度を計算するページ
http://theendoftakechan.web.fc2.com/eII/hijiri/nCoord.html

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