2018年4月26日木曜日

スティグマ:聖なる〈烙印〉

 前回、フレイザーによる〈王殺し〉のテーマを金枝篇』初版の「第 2 章 第 1 節」の記述にみた。
 それによると超自然的な力をもつと考えられた王や祭司は、
その結果、自然の移り行きは多かれ少なかれ王や祭司の支配下にあるとみなされ、そのため王や祭司は、悪天候や穀物の不作やその他同類の惨禍の責任を負わされる。
それゆえ、旱魃や凶作や疫病や嵐が起これば、人々はこの災いを、彼らの王の怠慢もしくは罪であるとし、王にしかるべき罰を下す。鞭打ちや縛めという罰の場合もあれば、改悛の兆しが見られないと、廃位や死の罰が下される場合もある。
と、いう次第となる。
―― その、少しあとの「第 2 章 第 3 節」には、異邦人にかかわる危険を回避するための儀式が詳述されている。

 王のタブーの目的は王をあらゆる危険の源から隔離することであるから、その結果は概して、王に隠遁生活 ―― その隠遁の度合いは、王の守るべきタブーの数と厳重さ次第だが ―― を強いることになる。さて、あらゆる危険の源のうち、蛮人がもっとも恐れるのは呪術と妖術であり、蛮人はいかなる異邦人に対しても、この邪悪な魔法を行うのではないかと疑いの目を向ける。…… このため、ある地域に入ることを異邦人に許可する前に、あるいは少なくとも、その地域の住民と自由に交流することを許可する前に、しばしば土地の原住民は、ある種の儀式を執り行って、異邦人から呪術の能力を取り上げようとする。異邦人から発するものと信じられている破壊的な霊気を妨げようとし、原住民たちが取り囲まれることになる汚染された外気を、いわば消毒しようとするのである。
…………
 こうした異国からの訪問者に対して抱かれる恐怖は、しばしば相互に作用するものである。見知らぬ土地に入った蛮人は、自分が魔の土地に踏み込んだように感じる。そこで、その地に取りつく悪霊たちと住民の執り行う呪術に対し、警戒姿勢を取る。たとえばマオリ族〔ニュージーランドのポリネシア系先住民〕は、見知らぬ土地に入ると、そこが以前から「神聖」(tapu) な地であるといけないので、これを「普通」(noa) のものにするために、いくつかの儀式を執り行った。
〔 J・G・フレイザー/著『初版 金枝篇』(上) 吉川信/訳 2003年 ちくま学芸文庫 (pp.217-218, pp.222-223)

 タブー (taboo) とは、聖なる禁忌であり、ポリネシア語の「聖なる」を意味する語 (tabu, tapu) に由来する。そのものに触れたりその名を口に出したりしてはならないとされる存在・事柄のことだ。
 畏怖すべき対象については、だから本当のことは、決して口にしてはならないのだ。
 そんな、真実を語るべからざるは、聖別されたものに限らない。畏怖さえあれば、あらゆる権威に〈タブー〉が発生するようになる。そして、その〈タブー〉を冒すものは、冒涜者(ぼうとくしゃ)のレッテルを貼られる。
 レッテルは、オランダ語の letter からきたカタカナ語で、「レッテルを貼る」とは「札(ふだ)を付ける」行為にほかならない。英語では a label だ。「レッテルを貼られた」で be labeled となる。
 こうして「札付きの悪党」が誕生する。彼らは世間からマークされた状態となる。
 もっと強力に俗世間から〈排除〉もしくは〈聖別〉するために、つけられる特殊なラベルを「スティグマ (stigma) 」ということがある。
 これはギリシャ語の「スティグマ」に由来する語で、新約聖書「ガラテヤの信徒への手紙」の記述にも刻まれている。

わたしは、イエスの焼き印を身に受けているのです。
〔『聖書』新共同訳「ガラテヤの信徒への手紙」 6. 17 より〕

 この「焼き印」の語句は、聖書ギリシャ語原典で「スティグマタ」となっている。
 宗教的な言葉として、英語の stigmata は『新カトリック大事典』で〈聖痕(せいこん)〉の項目に該当の記述がある。
 英語では stigmatastigma の複数形だけどその複数形の形で「聖痕」を意味する。
 ちなみに、図書館にあった英語訳聖書の一冊でこの「ガラテヤの信徒への手紙」を確認すると、
イエスの焼き印」の個所は the marks of Jesus
と、英訳されていた。
 日本語で「スティグマ」といえば〈烙印〉のイメージが強いけれど、本来的には「焼き印」で、英語では the marks となるのだろう。

 かくしてそれ以降、「スティグマ」は「聖別された存在」にも顕われるとされるのだけれども、上にも書いたように俗世間では、〈聖別〉と〈排除〉は同じ操作を民衆に要求する。
 すなわち「烙印づけによる排除」と「聖痕による聖化」とは、同じ効果をもたらす、といわれる。つまりはいずれもともに、日常において〝触れてはならないもの〟としての〈禁忌〉の対象となるのだ。
―― このあたりの事情を歴史的な例を交えて解説してある文献から、引用する。

 ところで、ある人物の肉体に生じた、あるいは作られた宗教的意味を含むしるし(マーク)は一般に聖痕[せいこん]と呼ばれる。この語は、ラテン語やギリシア語のスティグマ (stigma) の訳語として用いられているが、本来は奴隷[どれい]や罪人の肉体に押した烙印[らくいん]・刻印を意味した。スティグマが聖痕の意味に用いられる代表的な例としては、アッシジの聖フランシスに現われたとされるイエス・キリストの傷痕がある。一二二四年の秋、聖フランシスは数人の弟子と共に、アペニン山中の孤峰ヴェルナ山に籠り、瞑想[めいそう]にふけっていた。
 ある日、彼はイエスの受難の想いに満たされていたとき、幻想の中で六枚の翼をもった天使が彼の頭上に立ち、翼を拡げて十字架上に釘づけにされるのを見た。短時間ではあったが、彼を忘我の境にさまよわせたのちに幻想は消えた。しかし程なく聖痕が現れた。彼の両手、両足には釘のしるしが現れ、脇腹には槍でつけられたしるしができ、そこには血がにじんでいたという。
 聖痕とは、このように、人間の肉体にたいする超自然的なの作用の痕跡であり、その人物を聖別する徴証なのである。聖フランシスは聖痕の出現という信仰的事実によってその聖性を高め、いよいよ一般人とは区別された存在になってゆくからである。
 それにしてもスティグマの語が、カトリックの聖者の聖なるしるしを意味すると同時に、奴隷や罪人に印されたしるしをも表わしていることは、きわめて示唆的であるように思われる。それは人間にとって、最高に善き、望ましき領域を示す指標であり、また最高(低)に悪しき、望ましくなき枠を表わす基準でもあるといえよう。またそれは神性と共に悪魔性をも含意する両義的な語であるともいえよう。
〔佐々木宏幹/著『宗教人類学』1995年 講談社学術文庫 (pp.118-119)

―― 最後にもうひとつ、このマーク(徴)づけの意味合いを考察した文献を紹介したい。

「徴を持たない」項というのは、範疇全体かまたは、「徴つき」項が他を切り捨てて残ったものとしての部分を示す。両者の違いは「徴なし」の方が意識にのぼらないことである。だから「徴なし」の方は全体の一部を示すものではあるのだが、「徴つき」の項ではその出現が強調されるような一定の弁別的特徴の存否は、不問に付されるのである。「不良少年」という表現(徴つき)があっても、「善良少年」という表現はない。
…………
 そこで我々は「異人[ストレンジャー]」は、こうした記号論的分裂を常に促進する媒体(モディファイアーでありアクチュアライザー)であるということを知るのである。つまり「徴を加える」変形主体または生気づけの主体のすでに存在している記号に対する関係は、より細かい、より微細な、より弁別的な基準を、以前は渾然としていた範疇に持ち込む働きをし、記号の細分枝化、記号論的コードの増殖を可能にする途を提供することを知るのである。それゆえ、行為の「徴あり」、つまり弁別性のある下位パターンの出現は、より広汎な役割における新しい「徴あり」の、より限定されたサブ・カテゴリーの認知につながるはずである。
 このように、意味の単位は、特定の記号そのものに内在するのではなく、それが対をなす他の記号との関係に求められる。我々が既に考察したように、神概念もそうした関係構造の中で限定されている。「徴あり」と「徴なし」は、そうした関係の存在する二項の摘出のための極めて有効な手法であるといえる。
〔山口昌男/著『文化と両義性』2000年 岩波現代文庫 (pp.65-66, pp.67-68)

 上記の文献は、排除はなぜ起きるのか、という考察なのだと、思っている。
 そのヒントは、神話にあるようにも思われる。
 よくはわからないけど全体としては、差異があることを理由に、排除し、排除される、という話なのだ。
 現実問題として ――。
 このことは、容易に排除の理由としての差異を設けるにいたる。排除のための、差異を見つけ出すことに、つながるのだ。
 理由は、なんでもいい。俗世間の日常では、もっともらしい理由があれば、すべては正当化が可能となる。
 かくして俗に、「つじつま合わせ」の思想がもてはやされる。


周縁 / 多義性
http://theendoftakechan.web.fc2.com/ess/emergence/marginal.html

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