2018年4月16日月曜日

まつろわぬ 国魂(くにたま)たちの末路

 風土記(ふどき)の時代の、各地方の土豪たちを示して、国魂(くにたま)と表現したつもりだ。
 歴史上の記録では、712 年「古事記」献上の翌年、713 年の元明天皇の詔によって、諸国に撰進させた地誌が「風土記」である。ちなみに「日本書紀」の完成は 720 年だ。
 日本書紀や、各地方の国風(くにぶり)を記した風土記には、天皇にまつろわぬ土豪を称して、土蜘蛛(つちぐも)・国栖(くず)などが、しばしば見られる。官軍すなわち正義にとって土蜘蛛や国栖は、悪い国魂なのだ。
 負けた側が賊軍となるのは歴史の常識といえるし、徹底抗戦した勢力が悪くにしか書かれないにしても、名称からして悪印象を与えるものになっている徹底ぶりだ。

 まつろう(まつろふ)は『広辞苑』をひもとけば「マツラフの転」であるとされ、まつらう(まつらふ)と同じ「服ふ・順ふ」という漢字があてられて、同様に「服従する。従いつく。」の意味があるとされている。このことから、敵対せず服従する従順さが理解できる。
 だからその反対の、まつろわない(まつらはぬ)、というのは、不服従を示す。
 その善悪の基準が、歴史の公文書に判然と遺されている。

 いっぽうで善い国魂とは、上(おかみ)に追従し服従を明らかにする地方の勢力のことだ。明らかにするとは、それぞれの国の魂を、支配者に差し出すのである。
 それが、そもそもの〈鎮魂〉の儀式だったのだ、ともいう。
―― 折口信夫大嘗祭の本義」(昭和三年)でこう述べられている。

 昔は、大嘗祭の時には、ゆき・すき二国からして、風俗歌が奉られた。……
 この風俗歌は、短歌の形式であって、国風[クニフリ]の歌をいうのである。この国ふりの歌は、その国の寿詞に等しい内容と見てよろしい。国ふりのふりは、たまふりのふりで、国ふりの歌を奉るということは、天子様にその国の魂を差し上げて、天寿を祝福し、合せて服従を誓う所以である。
〔折口信夫『古代研究Ⅱ』2003年 中公クラシックス/中央公論新社 (p.164)

 11 月の祭りの中で鎭魂は、新訂增補 國史大系 26延喜式」(p.42)オホムタマフリと訓読されている。
「中寅日」と日の指定があり、続く卯の日に〈新甞(ニヒナヘ)〉の記述がある。
 比較的身近な資料としてはまたもや『広辞苑』でも、
鎮魂祭(たましずめのまつり・ちんこんさい)・御霊振(みたまふり)は〝陰暦 11 月の中の寅の日(新嘗祭の前日)に〟おこなわれたと説明されている。
―― また折口信夫大嘗祭の本義には、
外来魂を身に附けるのが、古い意義の、日本伝来のみたまふりだと、書かれており、それに続けて、

 とにかく、鎮魂式というのは、群臣から天子様に、魂を差し上げることだ、とわかればよい。同時に、冬というても、時代によっては、十月のことでもあり、十一月のことでもあり、また十二月のことでもあった、ということを承知してかからねばならぬ。
〔『古代研究Ⅱ』 (p.143)

と、ある。これは、〈ふゆ〉を〝殖ゆ・触る〟と解釈した上での話だ。
―― すなわちそれ以前に書かれたらしい、折口信夫ほうとする話」(昭和二年六月頃草稿)には、次のように記されている。

先輩もふゆは「殖ゆ」だと言い、鎮魂すなわちみたまふりのふると同じ語だとして、御魂が殖えるのだとし、威霊の信頼すべき力をみたまのふゆと言うのだとしている。すなわち、威霊の増殖と解しているのである。触るか、殖ゆか、栄[ハ]ゆか。古い文献にも、すでに、知れなかったに違いない。
…………
霊の分裂を持つことは、後代の考え方では、本霊の持ち主の護りを受けることになる。それで、恩賚[おんらい]などいう字をみたまのふゆと読むようになり、加護からさらに、眷顧[けんこ]を意味することにもなった。給ふ・賜はる・みたまたまふなどいう語さえも、霊の分裂の信仰から生れた。みたまのふゆという語は、鎮魂の呪詞から出たものであろうが、その用途はしだいに分岐していったらしい。……
 家の祝言が、同時に、家あるじの生命・健康の祝福であり、同時にまた、家財増殖を願うことにも当る。時としては、新婚の夫婦の仲の遂げるよう、子の生み殖えるように、との希望を予祝する目的にも叶うのであった。このみたまのふゆの現れる鎮魂の期間が、ふゆまつりと考えられたのであろう。そして、ふゆだけが分離して、刈り上げの後から春までの間を言うようになり、刈り上げと鎮魂・大晦日との関係が、しだいに薄くなっていって、間隔ができたため、冬の観念の基礎が替っていった。そして暦の示す三か月の冬季を、あまり長過ぎるとも感じなくなったと見える。
〔折口信夫『古代研究Ⅰ』2002年 中公クラシックス (p.393, p.396)

 引用文の冒頭に先輩とあるけれど、それが誰のことなのか、その場に記述はない。
 しかしながらも、松村武雄日本神話の研究 第四巻』〔昭和33年 培風館 (p.266) 〕を読んでいくと、江戸末期の国学者「鈴木重胤」に同様の考説があることが知れた。

 さて日本書紀 巻第二十九 天武天皇下 十四年十一月」に記された、
爲天皇招魂之。」とある個所は、
天皇の為に招魂しき(すめらみことのおほみためにみたまふりしき)。」と訓まれている。
 さきほど確認したように本来は、鎮魂祭(たましずめのまつり・ちんこんさい)が、御霊振(みたまふり)といわれたのだろうけれども、日本書紀の訓読文に招魂みたまふり)」がある。
 いまいちど確認してみれば、招魂(しょうこん・たまよばい)は、「儀礼士喪礼」の注にある言葉だと『広辞苑』に書かれている。
 そのあたりを見ていくとこの〈招魂〉は〈復〉という語句に関しての注釈である。
 たとえば北京大學出版社による、十三經注疏 整理本 11『儀禮注疏』卷第三十五 (p.761)復者、有司招魂復魄也とある。
 また、十三經注疏 整理本 12『禮記正義』卷第九 (p.309)復謂招魂とある。
 かくして〈復〉は〝死者の魂魄をよびもどす儀礼〟であると、日本語の資料を見ても同様に書かれている。

 あらためて調べると鎭魂については、新訂增補 國史大系 22令義解(りょうのぎげ)」(p.29) に。
謂。鎭安也。人陽氣曰魂。魂運也。言招離遊之運魂。鎭身體之中府。故曰鎭魂。
と注されている。
「令義解」は「養老令」の注釈書で 834 年から施行され、そののちの「延喜式」は 967 年からの施行だという。

 鎮魂(おほみたまふり)の内容は、そもそもから、多義的に解釈されはじめているらしいことがわかってくる。
 前回、国家平定の宝剣〈フツノミタマ〉については、
〝新しい活力を得るための、生命力再生の祭り〈鎮魂(オホミタマフリ)〉の祭祀に用いられている〟と、その最後に書いたけれど、
〝生命力再生〟の中身は、〝まつろふ国魂の統合と再分与〟だったかもしれない。

 ひるがえって 1300 年前も、いつの世も、まつろはぬ国魂は、殲滅された。
 あるいは、異なるという理由だけで、排除されたのだ。


冬(殖ゆ)/ 風(振り)
http://theendoftakechan.web.fc2.com/ess/emergence/revival.html

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