2018年4月21日土曜日

殺害される神、追放される神

 プロメテウスは、天上の火を人間に与えて、連日の責め苦を負わされた。
 なにやら責任を取らされた責任者の構図をうかがわせる神話だ。

 結局のところ責任者とは本来、緊急時に責任を取るための立場にある。
 占拠された土地の人民は、スケープゴートとして、その土地の王を侵略者に差し出す。王は、領地の責任者として、すべての人民になりかわり、犠牲となって死ぬのだ。
 その犠牲の儀式により、新しい支配者にあらがった人民の罪までもが、解消されるのかもしれない。
 王国のための犠牲者は聖なる資格を有する、最高責任者でなければ、人民の罪までもは贖えない。―― 贖う(あがなう)とは、ヘブライ語では、
「本来は世俗的な経済活動に伴う法的義務を表し、誰かが零落して自分の土地を売却したり、自分自身を(債務奴隷として)身売りしなければならなくなった場合、該当者の親族がそれを買い戻すことを意味した」
〔参照:旧約聖書 Ⅰ[机上版]『律法』の「補注 用語解説」旧約聖書翻訳委員会/訳 2004年 岩波書店〕
という。

 西洋の闘争神話には、こういう贖罪の図式が好まれるようでもある。
 けれど新旧の物語で王や神の化身が追放されたり、死ぬことで、人民の罪が消え去る手法は洋の東西を問わない。
 祭られる王や神の役割に多義性があることが論じられたのは、ジェイムズ・フレイザーの大著金枝篇(The Golden Bough: A Study in Comparative Religion, 1890) においてだった。金枝篇』初版の「第 3 章 第 15 節」に〈マムリウス・ウェトゥリウス (Mamurius Veturius) 〉を追放する古代ローマの祭りが紹介されている。
―― フレイザー金枝篇』第 3 版 (1911) では、「第六部」にその記述がある。

 人々の罪と悲しみをその身に引き受けて運び去るために、なぜ死にゆく神が選ばれなければならないのか。それは、神を身代わりに用いる慣習がかつてはまったく別個の独立した二つの慣習の合わさったものだからである。これまでみてきたように、一方には、神の命が老いて弱っていくのを救うために人間神や動物神を殺す慣習があった。また、他方では、やはりすでにみてきたように、毎年一度、災厄と罪の総祓いをする慣習もあった。ところで、人々がこの二つの慣習を合わせてしまおうと思いついたとしたら、きっと死にゆく神を身代わりにしようと考えるはずだ。死にゆく神が殺されたのは、本来は罪を取り除くためではなく、老いて衰えていく神の命を救うためであった。ところが、とにかく殺される運命にある死にゆく神なのだからと、自分たちの苦しみや罪を背負ってもらうのに、この機会を逃す手はないと人々が考えたとしても無理はない。人々は、死にゆく神に墓の向こうの未知の世界へ自分たちの苦しみや罪をもっていってもらおうと思ったにちがいない。
 ヨーロッパの「死の追放」という民間の慣習は、前にも述べたように、その意味がいまひとつ曖昧だが、神をいけにえにすると考えれば、よくわかる。この儀式のいわゆる「死」がもともとは植物の霊で、若さの活力をみなぎらせて復活するために、毎年、春に殺されたと信ずべき根拠は、すでに示した。
…………
 さて、いよいよ次は古代における人間をいけにえにする慣習に話をすすめよう。毎年三月十四日、革の衣をまとった一人の男が、長い白い棒で打ちすえられながら、通りから通りへと引きまわされたあげく、ローマから追放された。この男はマムリウス・ウェトゥリウス、すなわち「古きマルス」と呼ばれた。この儀式は、古ローマ暦年(三月一日に始まる)の最初の満月の前日に行われたので、この革の衣をまとった男は前年のマルスを表していたにちがいなく、新年のはじめに追放されたのである。ところで、マルスはもともとは戦いの神ではなく、植物の神だった。ローマの農夫が自分の穀物やブドウの豊作、果樹や林の繁茂を祈願したのが、ほかならぬこのマルスだったからだ。
〔 J・G・フレーザー/著『図説 金枝篇』(下) 吉岡晶子/訳 2011年 講談社学術文庫 (pp.145-146, p.148)

 日本の神話には、死んで地上に五穀(常食の穀物)をもたらすことになる、殺される豊穣神が登場する。
 古事記ではオホゲツヒメという神をスサノヲが殺し、日本書紀ではウケモチという神をツクヨミが殺す。
 この神話は、南洋でドイツの民族学者アドルフ・イエンゼンによって 1937 年から 38 年に記録された「ハイヌウェレ型神話」と呼ばれる神話の、日本版であるといわれている。
 ハイヌウェレの神話というのは、祭りのさなかに殺害されてその後ばらばらに土に埋められた精霊的少女の屍体から、主食となる各種の芋類が生えてくるというものだ。
―― 日本で、縄文時代の土偶が破かれ壊された形状で発見されるのは、この神話の影響ではないかという論もある。

ところで繩文中期以後の土偶の取り扱われ方には、記紀のオオゲツヒメ神話と共通する信仰が、明瞭に反映しているという指摘が、近年坪井清足[きよたる]氏や藤森栄一など、一部の有力な考古学者たちによってなされているのである。
 つまり繩文時代の中期以後に作られるようになる、典型的な大型の土偶には、土中から完全な形で発見されるものがなく、かならず胴体や手足などが、明らかに人為的と思われるしかたで、ばらばらにされ、離れたところから発見される。このような壊された土偶の破片は、住居趾からも出るが、時には焼畑にされるのに適している、住居から離れた山や丘でも発見されている。この出土状況から判断すれば、これらの土偶は、最初完全な形で作られたものを、後にわざわざばらばらに壊して、離れた場所にばらまくか埋めるかした、と結論せざるをえないという。
 …… つまり繩文土偶は、殺され、ばらばらにされることによって、身体から作物を生じさせるオオゲツヒメ的女神格をかたどったものであったというのが、この説の要旨なのである。
 この説には、現状においてはたしかに重大な難点がある。それは、破壊されたと目される問題の土偶が、住居趾などから大量に発見される繩文中期に、すでにわが国で農耕が行なわれていたかどうかが、疑わしいということである。わが国における農耕の起源を、繩文時代にまでさかのぼらせる見解は、こんにちのわが国の学界においては、なお異端的少数意見としか見なされていない。
〔吉田敦彦『日本神話の源流』1976年 講談社現代新書 (pp.67-69)

―― さて、神殺しに至るフレイザーによる〈王殺し〉のテーマは金枝篇』初版の「第 2 章 第 1 節」に記述がある。

 前章でわれわれが見てきたのは、初期の社会において、しばしば王や祭司が、超自然的な力を与えられている、もしくは神の化身である、と考えられたことである。その結果、自然の移り行きは多かれ少なかれ王や祭司の支配下にあるとみなされ、そのため王や祭司は、悪天候や穀物の不作やその他同類の惨禍の責任を負わされる。ここまでのところでは、王の自然に対する力は、臣民や奴隷たちに対する力と同じように、明確な意志によって行使される、と仮定されているように見える。それゆえ、旱魃や凶作や疫病や嵐が起これば、人々はこの災いを、彼らの王の怠慢もしくは罪であるとし、王にしかるべき罰を下す。鞭打ちや縛めという罰の場合もあれば、改悛の兆しが見られないと、廃位や死の罰が下される場合もある。
〔 J・G・フレーザー/著『初版 金枝篇』(上) 吉川信/訳 2003年 ちくま学芸文庫 (pp.163-164)

 ちなみに、日本では『金枝篇』の初版が出版された 1890 年というのは、明治 23 年である。ちょうどその前年に発布された〝大日本帝国憲法〟が施行された年にあたる。
 第 1 回帝国議会が開かれ、対外的には、不平等条約の改正に向けて苦心惨憺していた時期だ。当時は近代的な国家実現のために欧化政策が進んで〈鹿鳴館時代〉と呼ばれる。
 時を経て『金枝篇』第 3 版が出版された翌年の 1912 年に明治から大正となり、そして、大正 6 年の『東京日日新聞』に柳田国男一目小僧の話が連載された。
―― この連載論考は昭和 9 (1934) 年に刊行された一目小僧その他一目小僧のタイトルで収録されている。

大昔いつの代にか、神様の眷属[けんぞく]にするつもりで、神様の祭の日に人を殺す風習があった。おそらくは最初は逃げてもすぐつかまるように、その候補者の片目をつぶし足を一本折っておいた。そうして非常にその人を優遇しかつ尊敬した。犠牲者の方でも、死んだら神になるという確信がその心を高尚にし、よく神託予言を宣明することを得たので勢力を生じ、しかもたぶんは本能のしからしむるところ、殺すには及ばぬという託宣もしたかも知れぬ。
〔柳田国男/著『一目小僧その他』2013年 新版 角川学芸出版/角川ソフィア文庫 (p.60)

 隻眼(片目)の神は世界的にも類例があるというけれど、日本においてもなぜ一つ目の神や妖怪が想定されたのか。
 この考察は、谷川健一青銅の神の足跡』(1979) で異なった展開を見せる。精銅・製鉄の技術をもつものたちが、神格化されたのだという、新しい主張が発展していくこととなる。
 製錬とか精錬の技術は、火を使って、岩石から金属を鍛え上げる。―― これは、火により、カオスからコスモスを抽出する技法であるともいえよう。
 秩序(コスモス)は、全体から余分な要素を除去することで創世されると、いつしか人類は気づくことになるのだ。
 コスモスは、カオスの排除で、誕生する。
 これは、ケガレ(穢れ)とハラエ(祓)の思想に通じる。
 コスモス創世を語る思想は、コスモス維持のために不純物を排除する儀式を必然とした。
 年ごとに厄介払いされる神は、コスモスを維持するために必要な装置となる。

 人類に火をもたらしたプロメテウスは、新たなコスモス創世の圧倒的な力を伝授したのだ。
 その責任はたしかに重いといえるだろう。
 人類は、都合のいい部分だけを観察して、そこに秩序があると、いうようになった。
 彼らにとって観察の対象外のエリアは、まさに、存在すらしないも同然なのだ。
 そして、随時発生するゴミを除去することでクリーンな環境が維持されるのと同様に、発生した余計なものの除去でコスモスは維持可能であると、気づいた。
 不純物だと区分される、余計なものの、判断基準は排除する側にある。


連続 と 不連続
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