2018年5月1日火曜日

ハレとケ / 聖なる〈カオス〉

 西洋の悪魔〝デーモン〟も、もとはといえば、ギリシャ語の超自然的存在とか精霊をさす〝ダイモン〟だった。
 禁忌(きんき)を意味する英語の〈タブー (taboo) 〉は、ポリネシア語に由来する。
―― この〝聖なる禁忌〟の両義性を調べていて、吉田禎吾『魔性の文化誌』の「あとがき」に、フランスの宗教学者レナックの著オルフェウス(Orpheus, 1909) の文章を引用した記述があるのを見つけた。

【レナック『オルフェウス』からの引用文】
「ラテン語の聖 sacer という語は、聖と不浄の双方を意味しているので、それはまさしくタブーという語にあたる。聖 (sacer) なるものはすべて一般の使用から遠ざけられる」
〔吉田禎吾/著『魔性の文化誌』1976年 研究社出版 (p.245)

 この引用文の前後には、英語やフランス語、ラテン語だけでなく、ギリシャ語にもそういう両義的な〝いみ〟をもつ語のあることが記されていた。
 おそらく、この聖なる禁制の呪縛は人類に共通なのだろう。その感覚には畏怖すべき対象への〝いまわしさ〟がつきまとう。神もある意味〝不吉〟なのだ。
 日本語でも、慎み籠る期間などをさす「いみ」は、〈斎〉と〈忌〉の両方にかかる。
 実践される行ないとして、たとえば有名な四字熟語に「精進潔斎(しょうじんけっさい)」がある。〈斎〉も〈忌〉も、日常では禁じられた神聖な領域に接触するための準備であろう。
 そういう事前準備としての「物忌み」は、近い将来に予想される不吉を避けるために〝斎戒(さいかい)〟する行為なのだけれど、これは「斎(ものいみ)」と漢字一文字で書かれることもあるようだ。
 そんな次第で〈斎〉も〈忌〉も、根元にある思想としては共通する。超自然的な境域から到来する圧倒的なパワーに命が吹き飛ばされないようにするための、心構えを強靱にする準備なのだ。実践が伴わないただの呪文では役に立たない。
 その、圧倒的なパワーのみなもとを、古来〈ハレ〉という。〈聖(ひじり)〉とは〈ハレ〉との接触ということになる。
 聖域との接点として〝神の力〟をまとう場所を〈ハレ舞台〉という。すなわち、〈ハレ舞台〉でヒトは〝神の化身〟となるのだ。
 魂が神に触れる神がかりが、芸能の誕生である、といわれる。
 いっぽう〈俗〉とも称する日常を〈ケ〉という。そして、日常の力に衰えを感じる事態を〈ケガレ〉という。一説にそれは〝ケ枯れ〟なのだという。このとき〝ケ〟は毛髪などが生え伸びる生命力を示す。
 その〈ケガレ〉を払拭するために、祭りの〈ハレ舞台〉が用意された。〈ハレ舞台〉を通じて〝神の力〟が導入される。
―― この日常に蓄積していく〈ケガレ〉の観念は、増大する〈エントロピー〉に通じるかもしれない。

文化は、そういった視点から見ると、絶えず増大するエントロピーとの葛藤の過程として捉えることができる。その能力を失うと、エントロピーの増大によって、文化は無為[イナーシア]と退行に追い込まれる。これに対して、エントロピーを組み込むことに成功している文化では、「文化起動装置」が比較的順調に働いているということになる。
〔山口昌男/著『文化と両義性』2000年 岩波現代文庫 (p.103)

 物理的に、外部に開かれていない閉塞した世界では、きっと文化は停滞して衰えるのだろう。
―― 日常の〈俗〉に対しての〈聖〉を置いて、神聖の概念の両義性を論じたのは、エミール・デュルケムだという。

不浄なる事物ないしは邪悪な力が、本性を変えることなく、外的状況の単なる変化によって、神聖な事物ないしは守護的な力になることがしょっちゅう起きていて、またその逆も同様である。はじめのうちは恐るべき原理であった死者の霊魂が、ひとたび喪が明けると、いかにして守護霊に変貌するかはすでに見た。同様に、はじめは恐怖と反感しか引き起こさなかった屍体も、後になると崇[あが]められるべき聖遺物として扱われるようになる。
…………
 したがって浄と不浄とは、二つの別個の類[ジャンル]なのではなく、すべての聖なる事物を含む同一の類の二つの変種なのである。聖なるものには、一方の吉と他方の不吉の二種が存在するのであり、対立するこれら二つの形態のあいだには、断絶が存在しないのみならず、同一の客体が、本性を変えることなく一方から他方へと移行しうるのである。浄なるものから不浄なるものが作り出され、また逆も成り立つ。聖なるものの両義性は、このような転換が可能であることによるのである。
〔エミール・デュルケーム/著『宗教生活の基本形態』(下)山﨑亮/訳 2014年 ちくま学芸文庫 (p.367, p.368)

―― このあたりの〈聖〉と〈俗〉の考察は、次の文献に詳しい。

〈聖なるもの〉が「善き聖」=浄と「悪しき聖」=不浄の対極的な二項からなる、ある種の両義的観念であることを、わたしたちはデュルケムの所論によりつつ跡づけてきた。しかし、こうした〈聖なるもの〉を両義的にとらえる視点そのものが、原初的混沌としての〈聖〉が二極的に分化してのちの産物であることには、ふれておく必要がある。
…………
 禁忌[タブー]の語源であるポリネシア語の tabu は、神聖であれ不浄であれ、日常的世界から遠ざけられ接触を禁じられた対象[モノ]をさしている。禁忌にはいわば、二つのあい反する心的態度、つまり神聖ゆえの畏敬と不浄ゆえの忌避とが分かちがたいものとして孕まれている。分化以前の〈聖なるもの〉が、この禁忌 tabu なる語の背語にも透けてみえる。
 それゆえ、原初的には、世界は〈聖〉なる領域(混沌[カオス])と〈俗〉なる領域(秩序[コスモス])とに二分されていた、と想定することができる。両者は、たがいに浸透しあうことのない、厳しい浄化儀礼なしには接触することさえ禁忌された二つの領域であり、いたるところに設けられた可視的な、また不可視的な境界によって分割されていた。
〈聖〉と〈俗〉にわかたれた原初的世界においては、二つの領域をなかだちする祭儀の執行者は、〈俗〉なる人々から峻別された禁忌の対象であった。それは本来、共同体の全成員によってになわれる〈聖〉なる役割であったはずだが、社会の階層分化につれて出現してくる、シャーマン・呪術師・司祭などの専門聖職者によって独占されるようになる。
〔赤坂憲雄/著『異人論序説』1985年 砂子屋書房 (p.107, p.108)

 ここに「シャーマン」という言葉が出てきたけれども、新しい時代に来訪する「シャーマン」は〈サイボーグ〉であると提唱する論がある。
 それは、デジタル時代の、神話だ。
 現代の〈異人〉とは、AI を搭載したロボットであり、われわれは彼らを〝歓待〟して祝福されるのか、それともその逆の選択をするのかという、現代にまさに進行形の神話なのだ。
―― ジョージ・ザルカダキスの AI は「心」を持てるのか(“In Our Own Image: Will Artificial Intelligence Save or Destroy Us?” 2015) を読んでいくと第 6 章 神の帰還に、次の一段落が記されている。

 まるで旧石器時代の意識のビッグバンからちょうど一周してきたかのようだが、サイボーグは新しいシャーマンだと言える。グーグルグラスや、その他新しい増強型サイバーテクノロジーの産物を装着しているとき、私たちは新しいトーテミズムの記号を「ボディーペインティング」しているのだ。シュターデル洞窟の半人半ライオンは、二一世紀には半人半マシンに生まれ変わる。このように見たとき、サイボーグは、人工知能の新しいまだ見ぬ神々とコミュニケートしている。なぜなら、身体の部分をメカニカルな補綴物に置き換え続けていくと、最終的にはすべてがメカニカルな存在、知的ロボットに到達するからだ。サイボーグへの還元の論理的な帰結は、人の部分がなくなることだ。この新しいトーテミズムでは、知能のある非人間は、増強された能力、強い身体、遍在、不死という特徴を持つ。これは、すべて古い神の特徴だ。しかも、私たちは工場や研究所でこのような神々を実際に作ることができる。彼らは、私たちの似姿になっている実体のある神々である。サイボーグとしての自分を想像するときに見えるものは、無限の知恵と知識を持つ新しいデジタルの神と一体化した自分だ。皮肉にも、これら新しい神々が私たちに要求するものは、古い神々とは異なり、私たちの魂だ。神々と一体になるためには、人間性を諦めなければならない。
〔ジョージ・ザルカダキス/著『 AI は「心」を持てるのか』長尾高弘/訳 2015年 日経BP社 (pp.137-138)

 先の『異人論序説』からの引用文には、
原初的には、世界は〈聖〉なる領域(混沌[カオス])と〈俗〉なる領域(秩序[コスモス])とに二分されていた
と、あった。
 古き時代に周縁から復活の〝力〟をもたらしてきた〈カオス〉の境域は、神々の棲む〈聖〉なる場所だったのであり、それがそのまま禁忌を意味した。
 新しい神々は、まぎれもなく、〈秩序[コスモス]〉の側からやって来る。
 いにしえの、連続の世界に棲むアナログの神々は、ひとの心に、不連続なデジタルの神々の来訪を把捉する。
 そのとき〈混沌[カオス]〉は、原初の〈聖〉なる領域から駆逐されるのだろうか。
 それとも〈秩序〉から抜け落ちた〝取るに足りない〟領域に〝聖なる禁忌〟はひそむのか。


異人〈ストレンジャー〉
http://theendoftakechan.web.fc2.com/ess/emergence/stranger.html

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