2018年1月18日木曜日

偶然と必然がせめぎ合う領域

偶然も必然も、決定論的な過程から導き出される、確率的な〝現実〟であるならば ――、
〈カオスの縁〉は偶然と必然がせめぎ合う領域なのかもしれない。
と、ちかごろ考えた。


 李天岩とジェームズ・ヨークの「周期 3 はカオスを意味する」という論文がアメリカの『マセマティックス・マンスリー』に掲載された同じ年、ベノア・マンデルブロがフランス語で数学エッセイ『フラクタルなオブジェ・形・偶然・次元』を出版したという。
 数学概念の〈カオス〉と〈フラクタル〉という造語は同じ 1975 年に、世間に発表されたのだった。

 〈フラクタル〉は〝自己相似性〟を意味する。
―― なんのことやら ―― 説明しよう。まず、正三角形をひとつ思い描くのだ。
 次に、その正三角形の 3 辺をそれぞれ三等分して、辺の真ん中の 3 分 1 の場所に、そこを底辺とする 1 辺がもとの三角形の 3 分 1 になる小さな正三角形を、外向きにひとつずつ描く。そうやって描かれたのは、「ダビデの星」と呼ばれる図形となる。
 完成したダビデの星の各辺に対して、それぞれの辺を三等分した真ん中の 3 分 1 の場所に、同じように 1 辺が 3 分 1 になったさらに小さい正三角形を乗っけていく。
 この作業を、無限に繰り返す、という、想定をする。
 それが〝フラクタル構造〟と呼ばれるものだ。

 どうやら、フラクタル幾何学は、カオスに深くかかわるものらしい。
 ジェイムズ・グリックのカオス(“CHAOS” 1987) という本にも、次のような記述がある。

 一九七〇年代の初頭、ロバート・メイやジェームズ・ヨークらが、秩序的なふるまいとカオス的ふるまいの間の、複雑な境界の中に発見したパターンには、大小の規模(スケール)の関係に基いてしか説明できないような、思いがけない規則性があった。そして非線形力学のなぞを解く鍵となった構造も、フラクタルであることがわかってきたのである。さらに最も直接的な実用面ではフラクタル幾何学は、物理学者や化学者、地震学者、冶金学者、確率論学者、生理学者などが利用しはじめた一つの研究手段ともなった。そしてこういった研究者たちはみな、マンデルブロの新しい幾何学こそ自然そのものを表す形だと信じ、ひとにもそれを認めさせようと努力していたのである。
〔『カオス』大貫昌子/訳 1991年 新潮文庫 (p.201)


 ところで、カオスや複雑系の本にしばしば「力学系」という言葉がでてくるけれど、これは数学で用いられる用語で、物理学の「力学」と同じではないという。
 たとえば、次のように説明される。

力学系 (dynamical system)
物理学における力学と関係がなくても、状態がある決定論的法則に従って時間的に変化していくような系一般を力学系と呼ぶ。
〔井庭崇・福原義久/著『複雑系入門』 1998年 NTT出版 (p.67)

 そういうわけだから、カオスの最大の特徴であるストレンジアトラクタも力学系の数学表現となる。
 カオスもフラクタルも、じつのところ新しい数学なのだった。
 1986 年に講談社から新書版で出版された、数学者山口昌哉の著作が筑摩書房で新しく文庫化されている。マンデルブロが 1975 年に『フラクタルなオブジェ・形・偶然・次元』という本を出版したことは、この本のはしがきに書いてあった。
 山口昌哉は故人(1998年没)となったが、この著作の最終章では数学が〝偶然と必然〟の問題と絡めて語られる。

 今まで、カオスとフラクタルに関して、数学者としての見方から、いろいろなことを述べてきた。このような研究は、今後どうなるのだろうか。1934 年、九鬼周造は『偶然性の問題』という本を書いている。この本では、必然とは「存在がそれ自身に根拠をもつ場合」であり、そうでない存在を偶然とよんでいる。そして数学の確率論も決して偶然そのものについて論じているわけでなく、量子力学も偶然そのものを扱っていない。他の学問は結局必然性のみを論じているが、ただ形而上学だけが「偶然」に学問的にせまることができると述べている。……
 このあたりからカオスやフラクタルとの関連がでてくるように思えてならない。つまり、カオスの研究は、決して偶然性そのものの研究といってはならないが、ある種の偶然性が必然性と近づく場面を、必然性の側から眺めているというべきではないだろうか。
〔山口昌哉/著『カオスとフラクタル』2010年 ちくま学芸文庫 (p.193)

 つまり、この世は〝決定論的〟なのか、それともカオス理論が語るように、この世の多くは〝たまたま〟なのか。
 上の引用文でも参照された九鬼周造の偶然性の問題では冒頭から、まさにその問題が語られている。

 偶然性とは必然性の否定である(1)。必然とは必ず然(し)か有ることを意味している。すなわち、存在が何らかの意味で自己のうちに根拠を有(も)っていることである。偶然とは偶々(たまたま)然か有るの意で、存在が自己のうちに十分の根拠を有っていないことである。
(1) ………… とくにその中の「否定」という言葉に注意したい。 ………… これらの「否定」という言葉の意味は「排除」あるいは「両立不能」という意味ではない。…… 表と裏、光と影、これらはそれぞれ相互否定を媒介にした存立関係にあって、それぞれ一方だけでは存在しえない。裏があるから表もありえ、その逆も言える。「否定」という言葉には、絶対的な分離・分裂と同時に絶対的な結合関係も含意されている。
〔九鬼周造/著『偶然性の問題』小浜善信/注解・解説 2012年 岩波文庫 (p.13)

 このあたりで、気づかされたのだった。
 われわれは、ものごとを〝偶然か必然か〟で、区分しようとする。しかし、そこには厳密な境界線などないのだ。
 つまり〝偶然か、必然か〟ではなく、〝どのていど偶然か、どのていど必然か〟なのだ。
 偶然も必然も、確率的な話でしかない。ならば ――、
〈カオスの縁〉は〝偶然と必然がせめぎ合う場所〟なのかもしれない、と。


自己相似図形/フラクタル
http://theendoftakechan.web.fc2.com/ess/systems/fractal.html

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