中村雄二郎著『西田哲学の脱構築』 の新編集版が 『西田幾多郎 Ⅱ』 となるのですが、
新編集版においては、「第Ⅰ章」がはずされて、「第Ⅱ章」が「第 1 章」となっております。
(なお「序章」はそのまま「序章」でした。
また、新しく追加された稿もあり、さらに「総索引」は『Ⅰ&Ⅱ』をまたぐものとなっています。)
この本で繰り返されるテーマ(主題)のひとつが、〝三木清による新しい日本の哲学への遺言〟とでもいうべき、彼の昭和二十年一月二十日付の〈最後の書簡〉です。
中村雄二郎氏による文を参照しますと、
「友人の坂田徳男に宛てて、(全集に載っているものとしては)生前の最後の手紙を書いているのです。」
と、いうことになります。氏の、そのあとの文を引用させていただきます。
そのなかでこんなことが書かれている。《今年はできるだけ仕事をしたいと思ひます。まづ西田哲学を根本的に理解し直し、これを超えてゆく基礎を作らねばならぬと考へ、取掛つてをります。西田哲学は東洋的現実主義の完成ともいふべきものでせうが、この東洋的現実主義には大きな長所と共に何か重大な欠点があるのではないでせうか。……ともかく西田哲学と根本的に対質するのでなければ将来の日本の新しい哲学は生れてくることができないやうに思はれます。これは困難な課題であるだけ重要な課題です。云々。》
この三木清のことばは、第二次大戦後の日本の哲学界に対するたいへん重要な遺言になっていると私は思うのですが、振りかえってみると、今日に至るまで日本の哲学界はどれだけ、ここに含まれる課題に対し答えてきたと言えるでしょうか。折角の、またさすがに三木らしい、このような問いかけが十分生かされなかったのは、残念の極みです。
〔岩波現代文庫『西田幾多郎 Ⅱ』 (pp.4-5) 〕
――
三木清の獄中の死が、朝日新聞の朝刊二面で報じられたのは、第二次世界大戦が終わったその年。
彼の 9 月 26 日の死から数日が経過した、昭和 20 (1945) 年 9 月 30 日のことでした。
いまだに、治安維持法下の体制が存続している状態だったのです。そして――。
8 月 15 日の終戦から、二ヵ月たらずの 10 月 10 日に、政治犯は釈放されたのですが……、
それは、三木清の死亡記事(事件)を知った GHQ の圧力によるものだったということです。
西田幾多郎と三木清
http://theendoftakechan.web.fc2.com/atDawn/NishidaKitarou.html
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