教皇の友人でもあったニコラウス・クザーヌスは、旅先のあちこちで見かけた絵の手法を、彼の思想の手引きとして取り入れました。
それは、絵に描かれた人物がその鑑賞者を見つめ続けるというものです。
幾人もの鑑賞者の動きをその肖像は追いかけます。絵からの視線は、絵の前を右から左へ移動する鑑賞者と、左から右へと移動する鑑賞者を、同時に捕捉し続けます。
なるほど。
コンサート会場で「あこがれの芸能人と視線が合った!」という程度のレベルの話ではありません。
まさにその絵は、いつも自分だけを見つめ続けてくれるのです。
クザーヌスの思想と生涯を解説した本で、それは次のように語られています。
〔K・フラッシュ『ニコラウス・クザーヌスとその時代』 2014 年、知泉書館 (p.90) / (p.91)〕
もし神が隠れているとしたら、それは、われわれが神の眼差しに自らを開いていないからにすぎない。われわれは思考する本質として、常にすでに、神によって見つめられている。
各人は、神が自分だけを見つめていると考えるが、それは、各々のムスリム、各々のユダヤ人が、彼らの儀礼と信仰箇条が直接神に由来する、と考えているのと同じである。
この引用文にでてきた「神が隠れている」という考えは、有名な宗教改革者ルターの神学と結びつけても、論じられています。
また、クザーヌスの〈反対対立の合致〉という考え方は、日本の哲学者西田幾多郎にも影響を与えました。
西田哲学では、そのようなことを〈絶対矛盾的自己同一〉と九文字熟語で表現しています。
熟語というより用語なのですが、いずれにせよ少し長いので、途中の「的」を「の」に置き換えて、書き改めてみましょう。――さいわいというか、中国語を翻訳する際にも、「的→の」という変換手法は常套手段 (じょうとうしゅだん) です。
〈絶対矛盾の自己同一〉と少しだけ目にやさしくなりました。
単語を覚えるだけで、あら不思議。なんだかわかったような気にもなってきます。
クザーヌス Deus absconditus 〈隠れたる神〉
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ついでながらの記録として:
ここまでの作成ページの一覧表をまとめました
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