そういう、阿吽一対 (いっつい) の像といえば、まずは東大寺南大門の仁王 (におう) さんと、神社境内 (けいだい) に鎮座ましまする狛犬 (こまいぬ) でありましょう。
仁王像は「金剛力士像 (こんごうりきしぞう)」ともいいまして、特に東大寺南大門にだけいらっしゃるわけではありませんが、阿吽の仁王像といえば、東大寺、という連想は、すでにもろびとパブロフの犬状態なわけでございます。
一方、歴史上の文学的「狛犬」といえば、『徒然草 (つれづれぐさ)』であっちむいてほい状態の「獅子・狛犬」を学んだ記憶がございます。
「丹波に出雲といふ所あり」ではじまる有名なお話です。
そういう一対の像なればこそ、仁王も狛犬も、通常、片方は口を大きく開け、片方は口を閉じて、そのように息を合わせて表現されるのでございます。
これが「阿」と「吽」です。
〔東大寺南大門の仁王さんは、通常のものとは阿吽像の位置が入れ替わっているようです。〕
ところで新約聖書の最後に配置された「ヨハネ黙示録」には、「イザヤ書」の引用であるとされております「わたしは初めであり、わたしは終りである。」と、そして新しく、
「わたしはアルファであり、オメガである。」
の句が、繰り返しあらわれます。これはまさしく「阿吽の思想」でありまして、そもそも、
「阿・吽」とは仏教用語で「初めと終りの文字」を示しているのです。
この字体の本来的な表現は、日本仏教文化にとけ込んだ梵字というもので麗々しく描かれるべきなのでしょうが、そのもともとの文字であるサンスクリットの表音文字、デーヴァナーガリーを用いますと、
〈अ〉(あ) ・〈हूं〉(うん)
のように、表記されます。
新約聖書はギリシャ語で書かれていますので、
「アルファ」はまちがいなく最初のギリシャ文字 〈α〉 であり、
「オメガ」はギリシャ語アルファベットの最後にある 〈ω〉 と、いうことで、
それで世界のすべてを包括するするという発想は、洋の東西を問わずに同じであるわけなのです。
ということを、比較しようとして、狛犬について調べておりますと、どうやら、
「伊勢神宮におみくじと狛犬はない」というキャッチフレーズのような定説と、
後朱雀天皇によって「金銀師子狛犬」が伊勢神宮に奉納されたという記事に行き当たってしまいました。
「師子」というのは「獅子」と同じでこの場合には「狛犬の阿吽の阿」のほうを指します。
この「金銀師子狛犬」の記事は『後朱雀天皇実録』にも採用されていて、
『後朱雀天皇実録』には続けて、「太神宮諸雜事記」というものが引用してあります。
種々神寶幣物、御馬銀師子 ハ 依託宣荒祭宮 ニ 令進給也
この「太神宮諸雜事記」は伊勢神宮関連の記事ですので、伊勢神宮で「銀師子」を扱ったことがあるのはどうやらこうやら明白と思われます。
ここでのキーワードは「荒祭宮」でしょうか。
ですが「太神宮諸雜事記」にはその前に、「臨時幣物、自今以後永應東寶殿奉納」とも記録されておりますので――、
「東寶殿」も「金銀師子狛犬」鎮座の候補地となりましょう。
そういう次第ですので、黙示録の話題は、最後にすっかり影を潜めます。
「ヨハネ黙示録」から思想の共通性を取り上げようとして――
阿吽の思想に転じて、あとは転、転、転、とばかりに……明らかになっていく事柄を追ってしまいました。
そもそも「アポカリプス」というギリシャ語は「明かになること」を意味するものですからして……
Α & Ω : Apocalypse II
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