2016年3月4日金曜日

「最初の殺人」 — カインの物語 — と、都市文明

最初の人間ともされる「アダムとイブの物語」は有名だ。
余談ではあるが、「イブ」は日本語聖書では「エバ」ともっぱら表記されている。

そのアダムとエバの長男が、カインであり、次男がアベルだ。
「アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。」

当時は、エデンの東で暮らす、この四人家族が、全人類であったはずだ。
そして長男カインが、次男のアベルを殺す。
それを知った《神》は、エデンの東から、同じくエデンの東の地へと、カインを追放する。

――で。聖書には、次のような《神》に対するカインの供述があるのである。

あなたは、きょう、わたしを地のおもてから追放されました。わたしはあなたを離れて、地上の放浪者とならねばなりません。わたしを見付ける人はだれでもわたしを殺すでしょう
〔『聖書 口語訳』旧約聖書「創世記」第 4 14 節〕

カインが殺されることのないよう、《神》はカインに「しるし」をつけ、
そして、このあとで、カインは妻を得て、子をもうける。

これはもう、『聖書』の記述が、自身で、
《神》による人類創造が「創世記」だけの物語ではないことを、吐露しているのである。
すなわち「創世記」は『聖書』の記述以外の人類創世を示唆している、といえよう。

 この同じ地球上(と推定される場所)で〈植物〉と〈人類〉の登場する順番が異なる、二種類の「人類創造譚」が「創世記」で続けて語られていることで、『聖書』の《神》による「人類創造」が一度ではなかったとする解釈も一部に見えるが、同一の時間軸上に、一度しかなかったはずの「初めての登場シーン」が順番を変えて二度あったと考えることは不自然であり、これは同じ「人類創造譚」の〝別バージョン〟とするのが妥当と思われる。

(身近といえるかどうか、我々日本人にとってより親しみやすい身近な例では、日本神話の編集過程において『日本書紀』が採用した〔並列記載の〕手法と、はからずもこれは同じ編集手段を用いているといえよう。)

つまり、
「創世記」を真摯 [しんし] に読めば、それが〈人類創造〉の一部でしかないと、推定可能なのだ。

そうしてカインの物語の最後では、彼は都市文明の祖ともされる。
しかし、定住と都市文明は、《神》への挑戦として解釈され、
アダムの子孫の別系統であるノアの物語の直後に、「バベルの塔」の物語が記述されている。

《神》は、人類が思い上がらないようにと、人間同士の意思疎通を阻んだのだ。
――どうやら聖書の《介入する神》は、人類の「横のつながり」を嫌うらしい。


〈 Babylonia 〉定住と農耕
http://theendoftakechan.web.fc2.com/atDawn/Messias/culture.html

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