2016年1月19日火曜日

バビロンのメシア〈キュロス王〉

 キュロス(クロス)というのは「バビロン王」と刻まれた碑文も残っている、歴史上に、実在したペルシャ王らしいのですが、彼は『聖書』で、〈メシア〉と称されています。
 ヨハネの「黙示録」で最終的に斃(たお)されるべき悪魔の支配下にある都市、バビロンの王様が、メシアとして聖書に記録されているというのは、少し妙な気もしますが、これは「旧約聖書」のメシアと、「新約聖書」の〈キリスト・イエス(キリストなるイエス)〉が唯一のメシアであるという、信仰表明ための概念とが、言葉の上で混乱を起こすためでしょう。

 このように、旧約聖書と新約聖書では、メシアの観念が異なり、ギリシャ語聖書ではそれを、すべて小文字で書かれた〈キリスト〉と、頭文字(かしらもじ)大文字の〈キリスト〉とで、区別しているようでもあります。
 また、イエス・キリストという場合には、「キリスト」が人物名の一部と化していて、この場合の「キリスト」は無論〈メシア〉の意味なのですが、人物名なのでもはや「イエス・メシア」という翻訳は不可能です。
 その意味では、
〈キリスト・イエス〉の場合には、「キリストであるイエス」なので、
〈メシア・イエス〉つまり、「メシアであるイエス」と翻訳することが可能となります。

 こういうような混乱が、『新共同訳聖書』に対する批判のひとつとも、なっているようです。
 インターネット上でもよく意見が見られるように、『新共同訳聖書』では、原典であるギリシャ語聖書にある「キリスト」の多くが「メシア」という表記で記述されています。
 これは、「解釈」という名の改竄(かいざん)なのか、それともより正しくわかりやすい聖書を提供するための努力なのか――、
はてさて、それは世界的な潮流でもあるようなので、大人の事情でもあるのか、道を求めるひとに、未知の領域がそこには拡がっているようです。

 一方、ところでラテン語には、「メシア」という意味では「キリスト」しかないようなので、どうやら「キリスト」と書くしかなくて、この問題はいまのところ、回避されているのでしょうか。
 いやはやどうも。一見すると――、
頭文字小文字の「キリスト」も、頭文字大文字の「キリスト」に、なっているようでした。

 これまでに、幾多の事例を見てきたように、解釈には誤解がつきもので、多くの誤解はそこから独り立ちして、ついには「都市伝説」にまで成長を遂げていくものすらあります。


 おっと。そういえば、
バビロン王も『聖書』でメシア、という最初のお話しでしたっけ。


anointed : バビロンのメシア
http://theendoftakechan.web.fc2.com/atDawn/Messias/anointed.html

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