2020年12月21日月曜日

幻獣《麒麟》は乱世に立つ

 鳥取県の東部「(旧)因幡国」には、2019 年(令和元年)に文化庁から日本遺産に認定された〈麒麟獅子舞〉の伝統行事があります。

 その始まりは、江戸時代にあり、岡山から鳥取に国替えとなった池田光仲公が創始したとされます。

 鳥取大学の教授であった当時に研究成果を発表されていた、野津龍(のつ・とおる)氏が一般向けに簡潔に述べた文献から、〈麒麟獅子舞〉発祥の経緯を、ここに適宜抜粋して紹介したく思います。


『獅子の文化と因幡の麒麟獅子舞』

第十七回国民文化祭・とっとり2002アジア獅子舞大会資料

野津龍/監修

第17回国民文化祭鳥取県・郡家町実行委員会/発行

「因幡の麒麟獅子舞」

 (pp.11-13)

 それでは、なぜ江戸時代の初期に、鳥取藩主池田光仲によって麒麟獅子舞が創始されたのであろうか。要約して述べると以下のようになる。

 池田光仲は、寛永七年(一六三〇)六月十八日、岡山城主池田忠雄の嫡子として江戸に生まれた。ところが、寛永九年四月三日、父忠雄が病死し、光仲はわずか三歳で家を嗣いだが、徳川幕府は当時鳥取城主で十六年間藩政を執りしきっていた池田光政と交替転封を命じた。祖父輝政を同じくする光仲は、このとき備前岡山から因幡・伯耆の三十二万石への転封を余儀なくされるが、これがいわゆる岡山・鳥取のお国替えであった。

 この交替転封が行われる前、光仲が幼少であったため、二十万石に減封されることが取り沙汰されたらしい。しかし、幕府は光仲に家督を許すとともに、備前岡山を転じて因・伯三十二万石を領することを命じた。減封されることなく光政と所領の交換だけという結論が出されたのは、光仲と徳川家との深い血縁関係によるものといわれている。したがって、この血縁関係は、光仲が因・伯を統治するにあたって、藩主権力を確立させるための格好の材料になった。

 ところで、光仲が実際に鳥取に正式帰国するのは、慶安元年(一六四八)十九歳になってからである。そのとき、光仲が第一に心掛けたことは、お国替え以来十五年も続いた家老政治から、藩主親政への転換であった。そのためには、何よりも自らの出自を権威づける必要があった。光仲は外様大名ではあるが、祖母に家康の娘普宇姫(富姫とも督姫ともいう)を戴くので、これを利用しないはずはなかった。

 そこで、鳥取に入国した光仲は、家康につながる自分の血統を内外に知らせるために、まず樗谿に鳥取東照宮を建てて、慶安三年(一六五〇)家康の御神霊を日光東照宮から勧請するのであった。このことは、同時に江戸時代の徳川幕府体制に忠節の誠を尽くす証にもなったのである。

 さて、この鳥取東照宮、また別に東照大権現ともいわれた現在の樗谿神社の祭礼の「権現祭」を、光仲はこの上なく盛大に行おうとした。あまりにもその意気込みが激しかったので、御神霊は慶安三年に勧請したにもかかわらず、盛大な神幸行列を伴う「権現祭」が執行されたのは、勧請の年から二年遅れる承応元年(一六五二)であった。

 そして、このときの神幸行列に、光仲は本邦初の麒麟獅子舞を考案して、参列させたのである。すなわち、従来の神幸行列では、神楽獅子があやし役の天狗によって誘導されるのが普通であったが、光仲はその神楽獅子の「頭」を一角の「麒麟」にすげかえ、あやし役に能の「猩々」を持ってきたのである。

 どうして、光仲はこのようなことをしたのであろうか。それは「麒麟」という聖獣が、日光東照宮の彫刻・絵画でもわかるように、家康と親近関係にあったこと。その「麒麟」は中国古代から「王者至りて仁なれば則ち出づ」と、信仰されていたからである。

 光仲は前者はもとより、後者の「麒麟」信仰のことを知っていたらしい。すなわち「すぐれた為政者がこの世に現れて、儒教の最高の徳目である『仁』によって政治を行うとき、麒麟はその為政者をあたかも祝福するかのように出現するし、そうした為政者が登場する前兆にも、この動物は出現する」という信仰である。

 そこで、光仲は鳥取東照宮の「権現祭」に麒麟獅子舞を出してきて、一見、家康を讃えるかのように見せかけて、実はその王者は家康の血を引く自分でもあると、ひそかに誇示・宣伝したのである。

 ここに麒麟獅子の「舞」が、因幡の国に起こってくる大きな原因があったが、その発生の根幹のところには、中国古代からの麒麟信仰が大きく存在していたことを忘れてはならない。


―― さてこの引用文中の中国古代からの麒麟信仰というのは、もともとは『春秋公羊伝』に語られている伝説で、紀元前 481 年(哀公十四年)に、聖なる獣《麒麟》が捕獲されて、乱世の最中に現れて死んでいくその聖獣を見て、孔子が「吾道窮矣(私の道は窮まった)」つまり「(なんてこった!)わしもこれまでなのだ」と嘆いた、という内容です。

 聖人孔子の末路と聖獣麒麟の姿が、『春秋公羊伝』作者の目には、二重写しになっていたようで、感慨無量な物語なのです。


 実は、かの『論語』に、これと似たような孔子の発言が残されています。貝塚茂樹氏の訳で、引用しておきましょう。


『世界の名著 3』 孔子 孟子

貝塚茂樹/責任編集

昭和41年03月19日 初版 中央公論社/発行

論語「第五巻」 第九 子罕篇 (9)

 (p.196)

 子曰わく、鳳鳥[ほうちょう]至らず、河[か]、図[と]を出[い]ださず。吾已[や]んぬるかな。

  子曰、鳳鳥不至、河不出圖、吾已矣夫、

 先生がいわれた。

「めでたい鳳凰[ほうおう]の鳥は舞い下りて来ない。黄河[こうが]からだれも神秘の図書を背負って出て来ない。わたしの運命もこれでおしまいだ」



 麒麟も鳳凰も、中国では古き時代から、瑞祥の象徴とされてきました。

 そんな「めでたい徴(しるし)」が現れても現れなくても、年を取ったので「わしもおしまいなのだ」ということのようです。


 なにはともあれ、

「すぐれた為政者がこの世に現れて、儒教の最高の徳目である『仁』によって政治を行うとき、麒麟はその為政者をあたかも祝福するかのように出現するし、そうした為政者が登場する前兆にも、この動物は出現する」と、野津龍氏によって語られているように、やがて《麒麟》は平和を祈念する際の、象徴ともなったのです。


 乱世の末期には、聖なる《麒麟》幻想が病んだ世を疾駆し、やがてトリックスター的な《麒麟》の申し子が、世界を変革していくのでしょう。

 ちなみに国語辞典にも載っている言葉ですけれども、漢語で、ずば抜けて明知(明智・めいち)の秀でた少年を〈麒麟児(きりんじ)〉といいます。


 かくのごとき《麒麟》に関する伝説は、漢の時代に確立したといわれています。漢の武帝は蓬莱山と不死の仙人を夢想する、秦の始皇帝以来の神仙思想最優先の皇帝でしたが、その挙げ句かどうか、紀元前 122 年(漢の武帝の元狩元年)には、またも《麒麟》が捕獲されてしまうのです。

 このところ有名になったその物語は、司馬遷の『史記』に簡潔に語られています。


『史記』 縮刷版 二十四史 1 〔中華書局〕

「史記卷十二」 孝武本紀第十二

 (p.120 [457-458])

  其明年、郊雍、獲一角獸、若麃然。有司曰‥「陛下肅祗郊祀、上帝報享、錫一角獸、蓋麟云。」於是以薦五畤、畤加一牛以燎。賜諸侯白金、以風符應合于天地。



―― 各種資料を参照した詳しい内容のページを、以下のサイトで公開しています。


《麒麟》伝説 /『春秋公羊伝』と『史記』

http://theendoftakechan.web.fc2.com/eII/hitsuge/kirin.html


2020年11月21日土曜日

古代中国の《三分損益法》と《ピタゴラス音律》


♪ どの音を使うかという、音の高さを決める規則を「音律」といいます。

♫ そして、それらの音を、高さの順に並べたものを「音階」といいます。


♩ それでもって ――《ドレミファソラシド》の1オクターブを、

「ハ長調」では「ハ」の音から始めるので「ハ長調」といって、

それは日本語では、カタカナで《ハニホヘトイロハ》の音階になり、

もともとそれは英語のアルファベットでは、 《 C D E F G A B C 》で表現される、

と ―― 記憶しております。


 音の高さは周波数という数で表現することができます。つまり「音律」は、その数値を算出する規則だといえます。


 中国の歴史書『漢書』の「律暦志」に、「音律」の数学的な設定基準が記載されていて、その方法は《三分損益法》と呼ばれています。

 中国の方法は、管楽器を使って、その長さを変えることで、基準とする音程〔つまり周波数〕を調整するのですけれど、いっぽう西欧では、弦の長さと音の高さの関係性を用います。ようするにヨーロッパでは、基準の弦との長さの比率によって、音律を計算しました。

 基準の弦の長さを 1 として、そこから弦の長さの比率を 3 分の 2 にしていく、西欧の《ピタゴラス音律》は、中国の《三分損益法》と同じ考え方になっています。


 ピタゴラスは伝説的な人物で、バビロニアにも旅をして学んだといわれています。

 バビロニアで発祥したという、日時計などの技術と数学が、ナイルのエジプトを経てギリシャに伝わったように、チグリス・ユーフラテス流域(メソポタミア文明)の文化がインド(インダス河流域の文明)を通って、さらに遠く中国の黄河流域の文明ともつながっていたという可能性はあるわけです。


 興味深いことには、新しい音律として、西暦 1600 年頃に《十二平均律》という方法が開発されるのですけれども、ヨーロッパと中国とで、その方法が最初に記録された時期が、あまり違わないということらしいのです。

 かなり文化的な交流があったのではないかと、推察されています。


 ここで日本史を見ますれば、鉄砲伝来は 1543 年で、それからほどなく 1549 年には、イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが中国船に乗って日本にやってきます。

 また天正三年 (1575) の〈長篠合戦〉では、現在は疑問視されている伝説的な織田信長の「三段撃ち」が、実戦配備されたといいますが、ヨーロッパでも同じ時期に、マウリッツの〈背進(カウンター・マーチ)〉の訓練が開始されています。

 日本語で読めるカウンターマーチ戦法の内容を『戦争の世界史』という本から紹介しておきましょう。


『戦争の世界史』

ウィリアム・H・マクニール/著

高橋均/訳

2002 年 4 月5 日 刀水書房/発行

 (p.175)

最前列の兵が発射を終えると、全員が各自の後ろに続いている縦列と隣の縦列との間を後方へ走り抜け、最後尾について再装塡にとりかかる、その間に第二の横列の兵が自分の銃を発射する、というものであ


 ちなみに、『大日本史料』「第十二編之十五」(p.878) には、慶長十九年 (1614) の大坂の陣における「三段撃ち」の記録が記されています。


 さて 17 世紀になって、ヨハネス・ケプラーは、ティコ・ブラーエが天体を観測した詳細なデータを元にして、惑星の軌道が楕円であることを発見します。これがケプラーの第一法則です。第二法則も同時に発表されました。

 その数年後には「 2 惑星の公転周期の比は、正確に平均距離つまり軌道そのものの比の 2 分の 3 乗になる」という、ケプラーの第三法則が発表されます。

 そしてこれらのケプラーの発見に導かれて、アイザック・ニュートンは、万有引力を発見したといわれています。


 実際のところ、ケプラーは音楽で宇宙を語るピタゴラスの継承者であることを自認していて、その音律と音階の計算が、ケプラーの法則の発見につながったのです。

 それは世代を超えて、ニュートンが重力の法則を発見する契機となり、やがては、アインシュタインが予想した〈重力波〉も発表から 100 年後の 2016 年に発見されることになるわけです。

 天の科学は、音楽とともにあった、という歴史があるようです。


 実は今回調べていた、もともとのテーマは、古代の中国の時計と暦なのでした。

 で、〈暦(こよみ)〉は、天の運行を観測して作られるわけです。

 ヨーロッパで《十二平均律》を理論的に記録したマラン・メルセンヌは、デカルトとも交流があったフランスの哲学者にして音楽理論家で、数学や天文学などの各分野にも能力を発揮していました。

 そのメルセンヌは「振子の長さと振動数の関係」について、ガリレオ・ガリレイよりも先に気づいたと、書かれている本がありましたので、時計の話題に関連するその箇所を引用しておきましょう。


『近代科学の形成と音楽』

ピーター・ペジック/著

 竹田円/訳

2016 年 12 月 15 日 NTT出版/発行

 (pp.168-169)

 音楽の時間に関するこれらの問題は、メルセンヌの時計そのものの見直しや、時間をより正確に測る方法の見直しに関係している。これもまた「あらゆる種類の物体の運動」(振動する弦の問題もこれに頼っている)に関する著書[『宇宙の調和』]におさめられている。メルセンヌはここでガリレオから大きな影響を受けているが、彼の研究のほうがガリレオの先を行っている場合もある。一六三四年六月、メルセンヌは、振り子の振動数が、振り子の長さの平方根に反比例することに気づいた。ガリレオが気づいたのはそのまる一年後だ。メルセンヌは、この結果を記した表を『調和』に載せて、医者はこういった単純な振り子を使って、「患者の脈が異なる日や時間でどの程度速くなったり遅くなったりするか、怒りなどの強い感情がこれをどの程度速めたり遅くしたりするかをあきらかにできる」だろう、と言っている。また、このしくみを使えば、時計職人は、時計を狂いにくくすることができるだろうと言っている。振り子時計はその後重要な進歩を遂げ、航海やその他の厳格な用途に耐えられるほど正確になり、クリスティアーン・ホイヘンスが一六五六年にはじめて特許を獲得するが、メルセンヌの洞察は重要な一歩だった。


―― 各種資料を参照した詳しい内容のページを、以下のサイトで公開しています。


挈壺:『周礼』の漏刻(ろうこく)

http://theendoftakechan.web.fc2.com/eII/hitsuge/kekko.html


2020年10月24日土曜日

「周髀算経」のピタゴラスの定理

 ◎ 中国版の《三平方の定理》では、まず各辺の長さが 3 : 4 : 5 の比をもつ三角形が、直角三角形であることが前提となって、その後、


もし傾斜した太陽に至るまでの距離を求める場合なら、太陽の真下までの長さを勾とし、太陽の高さを股とし、勾と股をそれぞれ自乗して加え合わせ、その平方根を開くと(「開方して除す」)、この斜めざまに太陽に至るまでの距離が得られる。

若求邪至日者。以日下為勾。日高為股。句股各自乗并而開方除之。得邪至日。


『周髀算経』の本文中で、解説されています。


〔参考文献〕

科学の名著 2『中国天文学・数学集』(p. 304) 昭和55年11月15日 朝日出版社/発行

能田忠亮/著『東洋天文学史論叢』(p. 170) 平成元年11月15日 恒星社厚生閣/発行


―― 各種資料を参照した詳しい内容のページを、以下のサイトで公開しています。


周髀算経:中国版《三平方の定理》

http://theendoftakechan.web.fc2.com/eII/hitsuge/kouko.html


2020年9月25日金曜日

古代中国の土圭と表(ノーモン)

 太陽と時と方位の関係より「太陽位置図を作図する」(2019年7月13日土曜日)を掲載してから早や一年以上が経過して、ようやく、その続きの資料を調べつつまとめつつ紹介しつつ、その先へとじわじわ進む作業に取りかかったところです。


―― 古代の測量事情について、すでに昨年に紹介していた資料の内容を、まずは再度掲載いたしますと。


 ◯ 北の方位を定めるのに、棒の影を利用する方法は、古代の中国から渡来したものらしく、これまで歳差運動の話題などで参照した北條芳隆氏の『古墳の方位と太陽』でも、詳しく紹介されています。


『古墳の方位と太陽』 第 3 章 弥生・古墳時代への導入

 4. 正方位の割り出し法

 (1)「表」をもちいた観測法

 ではひきつづき正方位の割り出し法の問題に入る。回答の半分についてはすでに述べたとおりである。弥生・古墳時代の倭人が夜の星空を視準することによって真北を直接見定めた可能性は皆無に近い。となると残された可能性は日中の太陽の運行を利用する正方位割り出し法となる。そしてこちらの測定法については古代中国側に詳細な記述が残されており、その手法が日本列島でも再現された可能性は濃厚である。

 それはつぎのような手法である。まず観測地点を平坦にならし、そこに「表」とよばれる長さ八尺の棒を立て、棒を中心とする適度な径の同心円を地表面に描く。つぎに太陽の光が当たることによって「表」の反対側に伸びる影を追う。影は午前中には西に向けて長く伸びるが、その後短くなりながら表の北を巡って午後には東側へと移行し、再び長く伸ばすのであるが、さきの同心円に影が接する地点に目印を付ける。目印が付けられた地点は午前に 1 回、午後に 1 回となり、二つの目印を直線で結ぶと真東西が割り出せる。さらに直線の中間点を求め、そこから表に向けて直線を引く(半折)。そうすれば正南北が割り出せる。このような観測法である。

 古代中国では古く『周礼』にこの観測法の概要が記されており、以後『周髀算経』などでも繰り返し登場する。なお古代中国では円の中心に立てる棒のことを表と記すが、イスラーム世界ではノーモンとよばれた。日時計の原理もその基本は同様であり、世界の各地で採用された普遍的な方位観測法である。インデアン・サークル法ともよばれることがある。図 3-6 には奈良文化財研究所飛鳥資料館が示す同法のイラストを引用したのでわかりやすいかと思われる(奈良文化財研究所 2013)。

 このような太陽の影を利用した方位測定法が最も現実的かつ効果的であることはまちがいなく、原理自体は単純なので、日本列島の弥生・古墳時代にもこの方法が採用された可能性が高いと考えられる。さらに「表」に類した遺構としては、のちに具体的に検討することになるが、第 1 章で触れた吉野ヶ里遺跡北墳丘墓脇に立てられた大柱があり、平原遺跡で検出された 3 本の大柱がある。

〔北條芳隆/著『古墳の方位と太陽』 2017年05月30日 同成社/発行 (pp. 82-83) 〕


 ◯ そこで引用されたもとのイラストは、奈良文化財研究所の『飛鳥・藤原京への道』に掲載されています。


『飛鳥・藤原京への道』

平成25年10月18日 印刷発行

発行者

独立行政法人国立文化財機構

奈良文化財研究所 飛鳥資料館


コラム2 古代の測量

 (p. 44)

 方位を求めるには、磁石(方位磁針)、太陽、北極星などを用いることが思い付きますが、このなかで有力なのが太陽なのです。その方法は、


① 適当な大きさの杭(「表」)を打ち立て、これを中心に円を描く。

②「表」の日影先端が円と交わる点を、午前と午後で求める。

③ 午前と午後の交点を結ぶと東西線が得られる。

④ 東西線の中点と「表」を結ぶと南北線が得られる。


 藤原京は、正方形の都城の中央に宮を置き、その周囲に南北と東西の直線道路を碁盤の目に交差させるという、中国の経書である『周礼』に記述される都城の理想型に基づいて設計されたと考えられています。まさしくその『周礼』に、この「表」を用いた太陽による方位決定法が記されているのです。ですから、少なくとも藤原京を計画する頃(飛鳥時代)には、この太陽と「表」の測量方法を知っていたはずだと考えることができるのです。

(黒坂貴裕 都城発掘調査部)



―― 上の資料を昨年に紹介した際には、説明された内容を把握するために、該当のイラスト太陽と「表」による方位の測量(稲田登志子 画)〉も掲載しています。


 さて、原典『周礼(しゅらい)』の日本語訳を探していたところ、鳥取県立図書館の司書の方にまたも、多角的な視点から発見していただきました。


『朱子語類』訳注 巻八十四~八十六

〔『朱子語類』訳注刊行会/監修 平成26年12月11日 汲古書院/発行〕


の「『朱子語類』巻八十六 禮三 周禮」に、『周礼』本文部分の和訳も含まれていたという次第なのです。


『朱子語類』巻八十六 禮三 周禮

 (pp.253-254)

【4】

 或問周禮、「『以土圭之法測土深、正日景以求地中。日南則景短、多暑。日北則景長、多寒。日東則景夕、多風。日西則景朝、多陰』。鄭注云『日南、謂立表處太南、近日也。日北、謂立表處太北、遠日也。景夕、謂日昳景乃中、立表處太東、近日也。景朝、謂日未中而景已中、立表處太西、遠日也』」。

 曰「『景夕多風、景朝多陰』、此二句、鄭注不可曉、疑說倒了。看來景夕者、景晩也、謂日未中而景已中。蓋立表近南、則取日近、午前景短而午後景長也。景朝者、謂日已過午而景猶未中。蓋立表近北、則取日遠、午前長而午後短也」。


 (pp.255-256)

〔訳〕

 或る人が『周礼』について尋ねた。「土圭の法を以て土の深さを測り、日景を正して以て地の中を求む。日の南は則ち景[かげ]短く、暑多し。日の北は則ち景長く、寒多し。日の東は則ち景夕にして風多し。日の西は則ち景朝にして陰多し』とあり、鄭司農(鄭衆)の注に『日の南とは、表を立つるの処、太[はなは]だ南にして、日に近きを謂うなり。日の北とは、表を立つるの処、太だ北にして、日に遠きを謂うなり。景夕とは、日昳[かたむ]きて景乃ち中す、表を立つるの処、太だ東にして、日に近きを謂うなり。景朝とは、日未だ中せずして景中す、表を立つるの処、太だ西にして、日に遠きを謂うなり』とあります」。

 答え、「『周礼』の『景夕にして風多く、景朝にして陰多し』だが、この二句は鄭司農注ではよく理解できない。おそらくあべこべに言ってしまったのだろう。そもそも景夕とは影が夕方になっていることで、地の中心ではまだ南中していないのに、表の影がすでに南中していることをいう。おそらく表を立てた場所が南に近いと、太陽に接近するために午前中は影が短く、午後には影が長くなる。景朝とは、地の中心ではすでに正午を過ぎているのに、表の影がまだ南中していないことをいう。おそらく表を立てた場所が北に近いと、太陽から遠ざかるために午前中は影が長く、午後には影が短くなるのだ」。


 (pp.258-259)

〔注〕

(1) 以土圭之法測土深

 「土圭の法によってその土地の位置を測定し、日の影の長さにもとづいて天下の中心を定める。その地が中心よりも南に位置していれば影は短く、とても暑い。北に位置していれば影は長く、とても寒い。東に位置していれば地の中心が南中した時にはすでに夕刻になっており、風が強い。西に位置していれば地の中心が南中した時でもまだ朝であり、曇りがちである」。ここにいう「土圭」とは、表(ノーモン)の影の長短を測定するための玉器、すなわちノーモン影尺のことである。垣内景子ほか『朱子語類』訳注・巻二、九四頁注 (3) および二一七頁注 (5) を参照。「測土深」とは、『周礼』注に「鄭司農云、測土深、謂南北東西之深也」とあるように、地上に立てた表の影の長短によってその地が東西南北のどこに位置しているかを測量することである。



 また鳥取県立図書館の蔵書に、中国で出版された『周禮注疏』があり、原典そのままの内容を確認することもできました。

 かえすがえすも、図書館の威力に感服せざるを得ませんな。


 で、引用文中に、ここにいう「土圭」とは、表(ノーモン)の影の長短を測定するための玉器、すなわちノーモン影尺のことであると、解説してある《表(ノーモン)》と《土圭(ノーモン影尺)》という語句の出典について調べたところ、


『朱子語類』訳注 巻一~三

〔平成19年07月25日 汲古書院/発行〕

 (p.94)

〔注〕

(3) 南北表

 「表」は日影の長さを測るために地面に直立させた柱状の天文儀器、ノーモン。「南北表」といっているのは、日の影の長さを測定する「ノーモン影尺〔(土)圭〕」と組み合わせて構成された「圭表」という儀器をイメージしての発言かもしれない。ここでは単に観察する天の方向を固定するために使われている。ジョセフ・ニーダム『中国の科学と文明』第五巻「天の科学」(思索社、一九七六〔一九九一新版〕、一二七~一五二頁を参照。


ということが、書いてあったので、『中国の科学と文明』第五巻「天の科学」を参照したところ、次のように記述されていました。


『中国の科学と文明』第5巻 天の科学

〔ジョゼフ・ニーダム (Joseph Needham)/著 1991年09月20日 新版 思索社/発行〕


第 20 章 天文学 (g) 天文器具の発達

(1) ノーモンとノーモン影尺

 (p.129)

 『淮南子』は、10 尺の長さのノーモンが古代に使われたという伝承を伝えているが(これは、すでに述べた周時代の 10 進法度量衡の存在に対する強力な証拠となろう)、これは早期に、たぶんそれが直角三角形の辺に関する簡単な計算の助けには容易にならなかったために、棄てられた。+544 年の虞鄺の 9 尺のノーモンのようないくつかの例外はあるが、一般に、古代および中世の文献に記されているのは 8 尺の長さである。元の時代、精度を高めるためさらに大きな構造を持ったときでさえ、8 尺の倍数 40 尺が選ばれたのは、後に見るとおりである。完全に水平な台と完全に垂直な棒が必要であることは、漢以前によく理解されていた。なぜなら、『周禮』に水準器および錘を吊るすひもについての記述があるからである。漢の注釈者はこれを同じ長さのひもが、台のおのおのの隅に一つずつ固定されているという意味に取ったが、唐の賈公彦は、吊るすのに 4 つの測鉛線を使ったと推測した。もしそうだったとすると、この器具はローマ時代の測量官が用いていたグローマ (groma) と非常によく似たものであった。

 影の長さの最も初期の測定は、もちろん当時の物差しで行われた。しかしこれらは役人の指示と地方の習慣によって一定でないことがわかったので、標準の碑玉の板(土圭)で、ノーモン影尺 (gnomon shadow template) と呼べるようなものが、この目的のためのみにつくられた。それは『周禮』に記されており、実物は素焼きの土製で、+164 年のものが現存している。



⛞ ここまでに出てきた語句(表と土圭)の意味を、簡単にまとめておきましょう。


 ▣ 古代中国の日時計では、一般的に、八尺の棒である表(ひょう)を基準の長さとした。

 ▣ 表の影(かげ)の長さを測る装置=器具が、土圭(とけい)である。

 ▣ 表には、ジョゼフ・ニーダムの『中国の科学と文明』で「ノーモン (gnomon)」の語があてられた。

 ▣ 土圭は、同書で「ノーモン影尺 (gnomon shadow template)」と表記されている。

 ▣ 土圭と表を合わせて「圭表(けいひょう)」と呼ばれることがある。


また、


 ▣ 影は『周礼』で日景(ひかげ)と書かれ、『周髀算経』では晷(ひかげ)と記述されることが見える。

  〔『周髀算経』の内容は、あらためて確認する予定〕



―― 各種資料を参照した詳しい内容のページを、以下のサイトで公開しています。


古代中国の土圭 ―― とけい ――

http://theendoftakechan.web.fc2.com/eII/hitsuge/tokei.html


2020年8月27日木曜日

バビロニア・ギリシャの数学とグノーモン

 日時計の歴史は古く、その技術はバビロニアの時代からあったようです。実物としては、エジプトで発見された紀元前 15 世紀ころの器具があるということです。

 旧約聖書「列王紀 下」20 章 11 節には、〈アハズの日時計〉という語句が登場しています。


 日時計に用いられる L 字型の棒(日時計の針)を《グノーモン》といいます。

 ギリシャ語だと、γνώμων と書かれます。

 ギリシャ語を音写したラテン語では、gnōmōn です。

 カタカナで、グノーモーンと音写され、ここでは《グノーモン》と記述しておきます。


 その、ギリシャ語のもともとの意味を『ギリシャ語辞典』〔古川晴風/編〕で調べると、

 ① 識者、消息通、鑑定家 ; 為政者 ; 仲裁者、審判員 ; 管理人、監督者。

 ② 指標 ; 日時計の針 ; 大工の曲尺 ; pl. 馬の乳歯(それで年齢が分る)。

であることがわかります。


 この《グノーモン》は、数学的には「四角数」を作るときに、足していく数となります。

 四角数というのは、正方形の面積を計算するときの「平方数」で、自然数を 2 乗した数のことです。

 ユークリッドの『原論』(幾何学原論)第 2 巻にも《グノーモン》の定義が、記述されています。新しい研究によって、この巻は、バビロニアの数学に由来するものであると、解されるようです。

 幾何学の図形的には逆 L 字型で表現され、つまり鍵型の図形となります。

 この鍵型も、もとは直角だったようですが、ユークリッドの『原論』では、平行四辺形から切り取られた形に拡張されています。


 さて昨年のいまごろ、日時計について調べている最中に、どういう次第であったか、楕円の方程式とフェルマーの原理へと導かれ、その 1 年後には、そこから発展して、ガリレオが発見したとされている「振子の等時性」は、実は単純な円弧を描く振子ではなく、サイクロイドという図形によって実現される、という話になっていきます。

 簡単にいえば、日時計について考えていたら、なぜか振子時計の話になっていた、というわけです。


 で、サイクロイドにかかわる歴史的ないきさつは、現在まだ調べている途中ですが。


 おもしろいことには、ガリレオは「振子の等時性」を数学的に証明するのに必要な「落体の法則」( 2 乗の法則)を語るときに、「平方数(正方形)」からひとつ前の、つまりひとつ小さな「平方数(正方形)」を引いた(切り取った)際の、残りの奇数である《グノーモン》の値を用いています。

 つまりは、約 1 年が経過して、日時計の話題から振子時計の物語となり、どういうわけだか振子の等時性は、日時計の針に由来する数学の問題へと転じていくという、リアルな展開となっているのでした。


―― 各種資料を参照した詳しい内容のページを、以下のサイトで公開しています。

バビロニアの数学と日時計

http://theendoftakechan.web.fc2.com/eII/hitsuge/gnomon.html


2020年7月31日金曜日

〈フェルマーの原理〉の微分計算

光の最短経路は距離ではなく時間で定まる」ということが、
〈フェルマーの原理〉の意味するところです。

◎ 関数を微分した値は、接線の傾きとして用いられました。
光が媒質内で速さを変えても屈折しなければ、到達する時間が長くなるのは、少し計算すれば理解できますけれど、到達時間を最短にする、最適な屈折角は〈スネルの法則〉によることも、計算で確認できるのです。

 光の到達時間のグラフを描いて、その曲線の接線の傾きがゼロになる瞬間が、最短の時間になるわけで、まずは、その微分計算をクリアする手法が必要となります。

 この微分計算には、先に「双曲線と《光の入射角・反射角》」(2020年5月23日土曜日)で紹介した《合成関数の微分に関する定理》が用いられます。
 そして《分数乗の微分》の公式で、変数の平方根が含まれる関数を微分します。
 何はともあれ、《合成関数の微分に関する定理》の復習から、始めましょう。

 ⛞ 合成関数の微分に関する定理
● u  =  g (x) に関して、x の増分 Δx に対する u の増分を Δu とします。
● y  =  f (u) に関して、u の増分 Δu に対する y の増分を Δy とします。
● y  =  f (u)  =  f ( g (x) ) が成り立って、
 dy    =   d  f ( g (x) ) = f ´( g (x) ) g ´(x)
   
 dx   dx 
   = f ´(u) g ´(x) =    dy   ∙   du 
   
 du   dx 
  という結果が、導かれます。

 ⛞ 平方根は、2 分の 1 乗なので、分数乗の微分の公式を使います。
●  √ u  = u 1 ∕ 2
(√ u )´ =   1  (u - 1 ∕ 2 ) =   1  ∙  1   =   1
       
 2   2   u 1 ∕ 2    2 √ u  
◈ 光が屈折する水面座標を点 R (x, 0) とします。
◈ 光の速度は、空気中で V 、水中で v とします。
▸ 空気中の点 P から水面の点 R までの距離
●  PR = √ x 2h 2 
▸ 水面の点 R から水中の点 Q までの距離
●  RQ = √ (wx ) 2y 2 
▸ 空気中の点 P から水中の点 Q に到達するまでの時間
t =    √ x 2h 2    +   √ (wx ) 2y 2  
   
V v
● ここで、x について、t が最小となる条件は、
dtdx = 0
であることが、各種参考書に述べられているので、 x で微分します。

 ※ さきほど分数乗の微分で、次の式が成り立つことを確認しました。
(√ u )´ =   1
 
 2 √ u  

► まず、
f (u) =    √ u  
 
V
g (x) = u = x 2h 2
として、
f ´(u) g´(x) =   1  ∙  1  ∙ 2 x
   
 V   2 √ x 2h 2  
  =   x
 
 V √ x 2h 2  
► 次に、
f (u) =    √ u  
 
v
g (x) = u = (wx ) 2y 2
    = w 2 - 2 w xx 2y 2
として、
◍  g´(x) = u´ = 2 x - 2 w = 2 (xw)
      = - 2 (wx)
であるから、
f ´(u) g´(x) =   1  ∙  - 2 (wx)
   
 v   2 √ (wx ) 2y 2  
  =   - (wx)
 
 v (wx ) 2y 2  
► 以上より、
t ´ =   x  -  wx   = 0
   
 V √ x 2h 2    v (wx ) 2y 2  
∴    x   =   wx
   
 V √ x 2h 2    v (wx ) 2y 2  
  ここで真空中の光速を c とし、V = cn1 , v = cn2 とおくと、
1   =    n1    ,   1   =    n2 
       
 V  c  v  c
sinθ1 =   x
 
 √ x 2h 2  
sinθ2 =   (wx)
 
 √ (wx ) 2y 2  
であるから、
 n1   sinθ1 =    n2   sinθ2
   
c c
∴  n1 sinθ1 = n2 sinθ2
が成り立って、光が最短時間で到達する経路は〈スネルの法則〉に等しいことが確認できるわけです。
 ⛞ 屈折率と光の到達時間の計算 ⛞
(計算値の理解が簡単になるようにした非現実的な設定ですが)

 媒質 1 と媒質 2 の境界の光の通過点: R (150 km) + km
 ◎ 光が通過する距離と時間の計算 ◎
〔※ 単位の ms は、ミリ秒で 1 ∕ 1000 秒〕 
 媒質 1 250 km  ms 
 媒質 2 250 km  ms 
(媒質 1 と媒質 2 の合計) 500 km  ms 
◎ 下のグラフに、時間の微分 t´ を傾きとして示しました。
〔※ 理解のために便宜的に接線を描線したものの、強調された傾きの角度は正確なものではありません。〕
 1 ∙ sinθ0 = 
n1 ∙ sinθ1 = 
n2 ∙ sinθ2 = 
 水中から真空に光が入射するときには、入射角が約 48.6 度で、屈折角はほぼ水平となります。
 (参考) 真空への屈折角: θ0 =  °
 媒質 1 の入射角: θ1 =  °
 媒質 2 の屈折角: θ2 =  °
R +
n1 ∙ sinθ1 = 0.9705201
n2 ∙ sinθ2 = 0.9705201

 今回も同様に JavaScript によるプログラムを、このページ内に同梱しています。
―― また微分計算の方法についての参考書・その他の資料なども参照しつつ、JavaScript の見本をテキスト化して掲載したページを、以下のサイトで公開しています。

光の屈折・フェルマーの原理
http://theendoftakechan.web.fc2.com/eII/hitsuge/integral/Fermat.html

2020年7月24日金曜日

《光の屈折の法則》の三角関数計算

 西暦 1600 年代、17 世紀のヨーロッパは、数学による科学革命が進んだ時代でもありました。
 イタリアのガリレオ・ガリレイは 1605 年に〈落体運動の法則〉を発見し、1609 年には自ら改良した「屈折望遠鏡」で天体観測を行って、翌 1610 年に『星界の使者』を著しました。
―― 望遠鏡の発明による驚天動地の科学的成果はその後、屈折する光についての研究へと進展していきます。
 1620 年頃、オランダのスネルは《光の屈折》について、実験的に得た結果を、作図的な方法で確認したとされます。
 それを三角関数の法則の形で発表したのは、「解析幾何学」を構築したフランスのデカルトなので、屈折の法則はフランスでは〈デカルトの法則〉もしくは〈デカルト・スネルの法則〉という呼称で流布していると風聞します。
 日本では屈折の法則は〈スネルの法則〉と呼ばれています。
 オランダのホイヘンスは屈折の法則を 1690 年の著書で〈正弦の法則〉と書き残しました。
 その著書において、光の反射・屈折の仕組みを《光の波動説》をもとに解説したホイヘンスの研究成果は、現在も〈ホイヘンスの原理〉として学ばれています。

 ◯ 光の性質について、和訳されたホイヘンスの著作から抜粋しておきます。
科学の名著 第Ⅱ期10 『ホイヘンス』
原亨吉/編〔1989年03月30日 朝日出版社/発行〕
「光についての論考」
第一章 直進する光線について
 (pp.204-205)
〔光は音とほとんど同様に球状に拡がること〕
〔8〕音は、目に見えず手に触れることもできない物体である空気を介して、音源から四方に、空気中の一点から次の点へと継起的に進む運動によって拡がって行くことを我々は知っている。また、この運動はすべての方向に等しい速さで拡がるので、球面のような形をなすはずであり、この球面が膨張しつづけ、やがて我々の耳を打つに至ることも知っている。さて、光が発光体から我々の所まで到達するのもまた、この両者間に存在する物質に引き起こされた何らかの運動によってであることは疑う余地がない。というのは、すでに見たように、光の伝播は一方から他方へ物体が移動することによっては起こりえないからである。もしさらに、すぐ後で吟味するつもりだが、光がその進行に時間を要するとすれば、物質に引き起こされるこの運動は継起的であり、従ってそれは音の運動と同様に球面ないしは球状波面として拡がることになるであろう。私がそれを波面★14 と呼ぶのは、水の中に石を投げ入れたときに見られる円い継起的な拡がりを見せるあの波に似ているからである。ただし、水面の波は原因を異にしているし、平面的な運動に過ぎない。
 ★ 14 ―― 原語は onde 。「波」と訳すと水面の波のような山と谷の連続を想像するので「波面」と訳す。ホイヘンスによる光の諸現象の説明では常に運動の最先端としての波面が問題となる。
 (p.217)
〔光の拡がり方についての私独自の説〕
〔38〕 これらの波面の伝播については、まだ考えるべきことが残っている。すなわち、波面がその中を拡がって行く物質の各々の粒子は、その運動を、発光点から引かれた直線上にある隣接する粒子にだけ伝えるのではなく、必然的に、その粒子に接触しその粒子の運動を妨げる他のあらゆる粒子にも与えるのである。従って、必ず、各々の粒子の周囲にその粒子を中心とする波面が形成される。

※「粒子を中心とする波面」:「個別波面★39」の訳註 (p.219) で、次のように解説されています。
 ★ 39 ――「個別波面 onde particulière 」は、普通「素元波 elementary wave, Elementarwelle, onde élémentaire 」と呼ばれているものである。

 ◎ さて、ここで語られる「波面 (onde) 」というのは、たとえば、池で見られる〝波紋〟―― 輪のように広がる波の模様 ―― を考えた場合、その波の〝山同士〟ないしは〝谷同士〟を結んだ線のことになるわけです。ただし〝山〟とか〝谷〟とかに限らず〝波の位相〟が同じ場所をつないだ面が「波面」と呼ばれるのです。
 ▸ 光源が遠くに想定されていると〝球面状に広がっていく波の進行方向に対して垂直な面〟となります。
 また現在では〈ホイヘンスの原理〉と呼ばれるこの説を便宜的に二次元(平面)で表現する際も、「この波面の中心は極めて遠いと想定しているので、この部分は直線だとみなしてよい」(p.233) と説明されています。
 ▸ そういうわけで入射光波面は、座標平面では光の進行方向を表わす直線と、それに垂直に交わる直線を使って表現されます。
 ホイヘンスの原理で描く〝反射角〟と〝屈折角〟
 ⛞ ダイヤモンドの屈折率 : n = 2.42 として作図 ⛞
  時刻 t0 における、a b の距離を 10 分割した座標から、光がt の間に進んだ距離を描く。
(※ この距離は、いわゆる個別波面=素元波の到達距離で、簡便のために円の全体を描線します)
  時刻 t1 における、a b の距離を 10 分割した座標から、光がt の間に進む反射光を描く。
(※ この素元波は、入射角・反射角のラインを添えて、空気中への広がりを半円で描きます)
 ⇒ 反射角の傾きに直交して描かれるラインが、時刻 t2 における反射光の波面 s となります。
 ◈ この図では、素元波の先端に円の接線として描かれるラインが、波面となります。
 ◈ r は、時刻 t2 における屈折光の波面
  時刻 t1 における、a b の距離を 10 分割した座標から、t の間に進む屈折光を描く。
(※ 屈折光の素元波は、入射光のラインとともに、ダイヤモンド内部への広がりを半円で描きます)
 ⇒ 屈折光に直交して描かれる〔接線の〕ラインが、時刻 t2 における屈折光の波面 r となります。
 ▣ 記号説明
 a 入射光のラインその 1
 b 入射光のラインその 2
 c 空気中の光速
 c´ = cn ダイヤモンドの光速
 w0 時刻 t0 における波面
 w1 時刻 t1 の入射光の波面
 w2 時刻 t2 の入射光の波面
 s 時刻 t2 における反射光の波面
 t 微小時間(時間の幅)
 ▸ t0 + ⊿t = t1
 ▸ t1 + ⊿t = t2
 ◎ 下の図に、計算のための記号などを追加しました。

► 微小時間t を、光が 1 波長進む時間として考えます。
► 空気の屈折率を、1.000292 ≒ 1 とします。
► ダイヤモンドの屈折率を、n とします。
▸ ct = 空気中を光が 1 波長進む距離
▸ c´⊿t = ダイヤモンド中を光が 1 波長進む距離
▸ λ1 = 空気中の光の波長
▸ λn = ダイヤモンド中の光の波長
▸ 真空中の光の波長 = λ
▸ 空気中の光の波長 = λ  ∕ 1 = λ1 = ct
▸ ダイヤモンド中の光の波長 = λ n = λn = c´⊿t
► 反射光と屈折光の 1 波長の到達距離を、点 A を中心にした、半径 λ1 λn の半円で示しています。
∠PAB = θ1
AB sinθ1 = PB = ct = λ1
なので、
α = AB
として、
λ1 =    λ    = α sinθ1 
 
1
∴  α =   λ
 
 sinθ1 
また、
∠QAB = θ2
AB sinθ2 = AQ = c´⊿t = λn
なので、
λn =    λ    = α sinθ2 
 
 n 
∴  α =   λ
 
 n sinθ2 
 ⛞ 通常用いられる方程式では、上記の屈折率 1 n に対して
1 → n1
n → n2
という記号を用いて、
α =   λ   =   λ
   
 n1 sinθ1   n2 sinθ2 
∴  n1 sinθ1 = n2 sinθ2
と、記述されています。

 今回も同様に JavaScript によるプログラムを、このページ内に同梱しています。
―― また屈折する光についての各種資料を参照しつつ、JavaScript の見本をテキスト化して掲載したページを、以下のサイトで公開しています。

光の屈折・スネルの法則
http://theendoftakechan.web.fc2.com/eII/hitsuge/integral/Snell.html