鳥取県の東部「(旧)因幡国」には、2019 年(令和元年)に文化庁から日本遺産に認定された〈麒麟獅子舞〉の伝統行事があります。
その始まりは、江戸時代にあり、岡山から鳥取に国替えとなった池田光仲公が創始したとされます。
鳥取大学の教授であった当時に研究成果を発表されていた、野津龍(のつ・とおる)氏が一般向けに簡潔に述べた文献から、〈麒麟獅子舞〉発祥の経緯を、ここに適宜抜粋して紹介したく思います。
『獅子の文化と因幡の麒麟獅子舞』
第十七回国民文化祭・とっとり2002アジア獅子舞大会資料
野津龍/監修
第17回国民文化祭鳥取県・郡家町実行委員会/発行
「因幡の麒麟獅子舞」
(pp.11-13)
それでは、なぜ江戸時代の初期に、鳥取藩主池田光仲によって麒麟獅子舞が創始されたのであろうか。要約して述べると以下のようになる。
池田光仲は、寛永七年(一六三〇)六月十八日、岡山城主池田忠雄の嫡子として江戸に生まれた。ところが、寛永九年四月三日、父忠雄が病死し、光仲はわずか三歳で家を嗣いだが、徳川幕府は当時鳥取城主で十六年間藩政を執りしきっていた池田光政と交替転封を命じた。祖父輝政を同じくする光仲は、このとき備前岡山から因幡・伯耆の三十二万石への転封を余儀なくされるが、これがいわゆる岡山・鳥取のお国替えであった。
この交替転封が行われる前、光仲が幼少であったため、二十万石に減封されることが取り沙汰されたらしい。しかし、幕府は光仲に家督を許すとともに、備前岡山を転じて因・伯三十二万石を領することを命じた。減封されることなく光政と所領の交換だけという結論が出されたのは、光仲と徳川家との深い血縁関係によるものといわれている。したがって、この血縁関係は、光仲が因・伯を統治するにあたって、藩主権力を確立させるための格好の材料になった。
ところで、光仲が実際に鳥取に正式帰国するのは、慶安元年(一六四八)十九歳になってからである。そのとき、光仲が第一に心掛けたことは、お国替え以来十五年も続いた家老政治から、藩主親政への転換であった。そのためには、何よりも自らの出自を権威づける必要があった。光仲は外様大名ではあるが、祖母に家康の娘普宇姫(富姫とも督姫ともいう)を戴くので、これを利用しないはずはなかった。
そこで、鳥取に入国した光仲は、家康につながる自分の血統を内外に知らせるために、まず樗谿に鳥取東照宮を建てて、慶安三年(一六五〇)家康の御神霊を日光東照宮から勧請するのであった。このことは、同時に江戸時代の徳川幕府体制に忠節の誠を尽くす証にもなったのである。
さて、この鳥取東照宮、また別に東照大権現ともいわれた現在の樗谿神社の祭礼の「権現祭」を、光仲はこの上なく盛大に行おうとした。あまりにもその意気込みが激しかったので、御神霊は慶安三年に勧請したにもかかわらず、盛大な神幸行列を伴う「権現祭」が執行されたのは、勧請の年から二年遅れる承応元年(一六五二)であった。
そして、このときの神幸行列に、光仲は本邦初の麒麟獅子舞を考案して、参列させたのである。すなわち、従来の神幸行列では、神楽獅子があやし役の天狗によって誘導されるのが普通であったが、光仲はその神楽獅子の「頭」を一角の「麒麟」にすげかえ、あやし役に能の「猩々」を持ってきたのである。
どうして、光仲はこのようなことをしたのであろうか。それは「麒麟」という聖獣が、日光東照宮の彫刻・絵画でもわかるように、家康と親近関係にあったこと。その「麒麟」は中国古代から「王者至りて仁なれば則ち出づ」と、信仰されていたからである。
光仲は前者はもとより、後者の「麒麟」信仰のことを知っていたらしい。すなわち「すぐれた為政者がこの世に現れて、儒教の最高の徳目である『仁』によって政治を行うとき、麒麟はその為政者をあたかも祝福するかのように出現するし、そうした為政者が登場する前兆にも、この動物は出現する」という信仰である。
そこで、光仲は鳥取東照宮の「権現祭」に麒麟獅子舞を出してきて、一見、家康を讃えるかのように見せかけて、実はその王者は家康の血を引く自分でもあると、ひそかに誇示・宣伝したのである。
ここに麒麟獅子の「舞」が、因幡の国に起こってくる大きな原因があったが、その発生の根幹のところには、中国古代からの麒麟信仰が大きく存在していたことを忘れてはならない。
―― さてこの引用文中の「中国古代からの麒麟信仰」というのは、もともとは『春秋公羊伝』に語られている伝説で、紀元前 481 年(哀公十四年)に、聖なる獣《麒麟》が捕獲されて、乱世の最中に現れて死んでいくその聖獣を見て、孔子が「吾道窮矣(私の道は窮まった)」つまり「(なんてこった!)わしもこれまでなのだ」と嘆いた、という内容です。
聖人孔子の末路と聖獣麒麟の姿が、『春秋公羊伝』作者の目には、二重写しになっていたようで、感慨無量な物語なのです。
実は、かの『論語』に、これと似たような孔子の発言が残されています。貝塚茂樹氏の訳で、引用しておきましょう。
『世界の名著 3』 孔子 孟子
貝塚茂樹/責任編集
昭和41年03月19日 初版 中央公論社/発行
論語「第五巻」 第九 子罕篇 (9)
(p.196)
子曰わく、鳳鳥[ほうちょう]至らず、河[か]、図[と]を出[い]ださず。吾已[や]んぬるかな。
子曰、鳳鳥不至、河不出圖、吾已矣夫、
先生がいわれた。
「めでたい鳳凰[ほうおう]の鳥は舞い下りて来ない。黄河[こうが]からだれも神秘の図書を背負って出て来ない。わたしの運命もこれでおしまいだ」
麒麟も鳳凰も、中国では古き時代から、瑞祥の象徴とされてきました。
そんな「めでたい徴(しるし)」が現れても現れなくても、年を取ったので「わしもおしまいなのだ」ということのようです。
なにはともあれ、
「すぐれた為政者がこの世に現れて、儒教の最高の徳目である『仁』によって政治を行うとき、麒麟はその為政者をあたかも祝福するかのように出現するし、そうした為政者が登場する前兆にも、この動物は出現する」と、野津龍氏によって語られているように、やがて《麒麟》は平和を祈念する際の、象徴ともなったのです。
乱世の末期には、聖なる《麒麟》幻想が病んだ世を疾駆し、やがてトリックスター的な《麒麟》の申し子が、世界を変革していくのでしょう。
ちなみに国語辞典にも載っている言葉ですけれども、漢語で、ずば抜けて明知(明智・めいち)の秀でた少年を〈麒麟児(きりんじ)〉といいます。
かくのごとき《麒麟》に関する伝説は、漢の時代に確立したといわれています。漢の武帝は蓬莱山と不死の仙人を夢想する、秦の始皇帝以来の神仙思想最優先の皇帝でしたが、その挙げ句かどうか、紀元前 122 年(漢の武帝の元狩元年)には、またも《麒麟》が捕獲されてしまうのです。
このところ有名になったその物語は、司馬遷の『史記』に簡潔に語られています。
『史記』 縮刷版 二十四史 1 〔中華書局〕
「史記卷十二」 孝武本紀第十二
(p.120 [457-458])
其明年、郊雍、獲一角獸、若麃然。有司曰‥「陛下肅祗郊祀、上帝報享、錫一角獸、蓋麟云。」於是以薦五畤、畤加一牛以燎。賜諸侯白金、以風符應合于天地。
―― 各種資料を参照した詳しい内容のページを、以下のサイトで公開しています。
http://theendoftakechan.web.fc2.com/eII/hitsuge/kirin.html
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