2019年7月13日土曜日

太陽位置図を作図する

―― 前回の終わりに今回の予定として書いたのですけれど。

◎ 以上の数字などは、あくまで参考のためのもので、正確な値は、国立天文台の『理科年表』を参照する必要がでてきます。
 というわけで、次回にはその『理科年表』のデータを使って、太陽の位置図なんぞを描いてみたいと思います。

―― ですけれど。都合により、『理科年表』のデータを使った作図は、この次にしたいと思います。というわけで、今回は《太陽位置図》の、単純計算バージョンを作成してみました。
〔 ※ 実は今回のは、『理科年表』のデータを使って作図したものから、地軸の傾き (23.45°) 以外のデータは不要(不用)という仕様に、わらわらと改変しました。〕

 太陽位置図: 地球の自転と公転による変化
※ 太陽高度 = 90 度 - 北緯(緯度)+ 日赤緯(赤道座標での太陽の緯度)
366 ∕ 366   北緯  N ° 図の拡大率  Z
   日 時 :   MD 日   H  時  M  分
  ◎ 日赤緯   D  °     ◎ 南中時の太陽高度   H  °
    太陽高度 (h) : sunH °
   太陽方位角 (A) : sunA °
      時角 (t)  : t °
  [ crimson ]   622 日(夏至)
  [ gold ]   321 日(春分)/ 9 23 日(秋分)
  [ midnightblue ]    12 22 日(冬至)
◎ 太陽位置図のラインを、色分けして描いてみました。
今回は《太陽位置図》簡易版として、毎日必ず正午に太陽が南中する前提で、単純計算したラインを描線します。
 次のように区分設定したうえで、年間の太陽の高度の変化は、それぞれの区分では一律として、計算しました。
 結果として、1 年が 366 日となっています。
冬至から春分の日までを、90 日間
   春分の日から夏至までを、93 日間
   夏至から秋分の日までを、93 日間
   秋分の日から冬至までを、90 日間

 1 年を通じて、太陽の位置が、夏至と冬至の間を往復することは、去年の『理科年表』でも確認してきた、北緯 34 度の〈夏至〉の日の出の方位角が 29.3 度で、〈冬至〉の日の出は -28.0 度であったことからも、簡単に理解できるでしょう。
(この角度の数字は、真東を 0 度として、北をプラス、南をマイナスとする表示となっています。)
こうした、季節ごとの変化は、公転軌道に対して自転軸が傾いているために起きるわけです。

計算式 [ 太陽高度 ( h )・太陽方位角 ( A )
[ これらの記号の意味は各種資料に解説があります ]
  sin h = sin φ sin δ + cos φ cos δ cos t
cos A =    sin h sin φ - sin δ 
cos h cos φ



―― さて次の一文は、水谷慶一氏の『知られざる古代』(p. 166) からの引用です。

 「もし、この『太陽の道』が存在したとするなら、地図をもたない古代人がどうして東西にまっすぐの線を引くことができたのでしょうね。あなた方なら、どうします? 磁石もなく、ただ有るといえば棒と繩きれぐらいで、どうして地上に二〇〇キロもの東西線を引きますか? 途中には、山も谷も、いや、海さえあるのですよ」

 ◯ 1980 年に出版されたその本に、国土地理院を舞台にした《古代の測量事情》を考察していく過程が描かれていて、とても興味深い内容なので、抜粋して紹介しておきたいと思います。
〔 ※ 引用文冒頭の O 氏とは〝奈良飛鳥園の小川光三氏〟であることが「第五章」で明かされています。〕


『知られざる古代』

 第一章 奇妙な暗号

 O 氏の話をかいつまんでいうと、こういうことになった。
 三輪山の麓に箸墓[はしはか]というのがある。四世紀初頭につくられた前期古墳で、ヤマトトトビモモソヒメ(倭迩迩日百襲姫)の墓ということになっている。近くには、崇神[すじん]天皇陵や景行[けいこう]天皇陵という、いずれも同じ時代の前方後円墳が並んでいて、いわゆる柳本[やなぎもと]古墳群を形づくっている。
 箸墓はその中でも、もっとも古いものであるが、その箸墓の前方部の中心をとおる東西の線上にはなぜか古い由緒をもつ神社や古代遺跡が多いというのである。だいたい三キロくらいの間隔で点々と連なっているという。そして、その直線を東へむかってどんどん進むと、奈良県と三重県の県境の山々をこえて伊勢の国に入り、伊勢湾へ出る直前で、斎宮跡[さいぐうあと]に突きあたる。斎宮跡とは、現在の伊勢神宮の内宮がもとあったところだといわれている場所である。
 それから今度は反対に箸墓を西へ進むとどうなるか。約一五キロの東西の幅をもつ大和盆地を横切るあいだに、すくなくとも四つの神社の上をすぎ、大和の西の国境いの大坂山をこえて河内平野に出る。ここでもまた、重要ないくつかの神社をとおったあと大阪湾をそのまま突き切って淡路島に達すると、そこにまた伊勢があるというのだ。
 箸墓から東の伊勢の斎宮跡までがおよそ七〇キロ、そして西の淡路の伊勢までが八〇キロ、ざっと箸墓を中心にして東西の直線上にふたつの伊勢が対称的に配置され、しかもその間を点々と神社や遺跡が埋めているのは、「こらいったい、どういうわけでっしゃろな」と O 氏は結んだ。


 第九章 不知火をもとめて

 「古代といっても、それは何世紀頃と考えるのですか?」
 と技官の一人が、煙草の火をつけながらきいた。
 「だいたい、四世紀を目安においていただいたらいいと思います。というのが、この東西軸の基点を、いちおう大和の箸墓においていますから。この古墳の築造年代がだいたい四世紀なんです。邪馬台国の所在を畿内におく学者が卑弥呼の墓だといっているものです。大和にある古墳ではもっとも古いものの一つで、考古学者の中には三世紀末まで遡らせる人もいます。『魏志倭人伝』によれば卑弥呼が死んだのは魏の正始[せいし]八年、つまり西暦二四七年以降ですから、三世紀末だとするとだいたい年代が合ってくるのです」
 卑弥呼の墓ときいて、一同の眼がにわかに輝きをましたように思われた。
 「四世紀か。すると、天文観測は行なわれていたと考えていいね。文献の上で、はっきり確かめられるのは、西暦五五四年に百済より医学、暦学、天文学の博士が来日したという記事なんだけど、すでに中国との往来はあったわけだし、北極星を見て方位をもとめたり自分の位置を決めたりすることを知っていた可能性は十分あるな」
 「すると、北極星で真北をもとめて南北軸をきめ、そこから東西軸を設定することはできたのでしょうか」
 「それは簡単です。直角を作ることができればいいわけだから。『周髀算経[しゅうひさんけい]』という古代中国の本によると、おそくとも前五世紀頃にはピタゴラスの定理は知られていたようですよ。こちらは四世紀なんだから、もちろん、ごく限られた一部の技術者だろうけれど、三辺を三・四・五の比率にすれば直角三角形ができることぐらいは承知していたでしょうね」
 ぼくが頭の中であれこれ図を描いているのを見て、その技官はつづけた。
 「もっともね、そんなことを知らなくても二等辺三角形の頂点と底辺の中点を結んだ線は底辺と直角に交わるというのを利用すればいいんですよ」
 なるほど、これなら棒と繩があればできるわけだ。
 「待てよ。北極星で南北軸をきめるなんて、そりや無理かも知れませんよ。だって、当時は、たしか北極星はいまの位置にないのですから」
 それまで黙っていた眼鏡の技官が突然、口をはさんだ。一同、顔を見合わせたことはいうまでもない。この技官はさる有名な国立大学で天文学を学んだ人である。神妙に彼の講説を聞くことになった。ぼくの理解したかぎりでは、それは次のようなことになる。
 普通、北極星の位置が動かないとされているのは、北極星が地球の自転軸の延長線上の位置にあるためだが、長いあいだには、その回転軸じたいがブレるのだそうである。ちょうど、独楽[こま]が回転を止める直前に芯棒をふるわせるような状態を考えればいいのだろう。だとすると、この地球もそろそろ回転を止めて宇宙のどこかにすっ飛んでゆきそうで不安でならないが、それはそれ、天文学的な長い時間のことだから気にするには及ばない。しかし、千数百年前には北極星が現在の位置より約八度ずれて見えていたはずだという話には正直まいった。
…………

 それには、さいわい助け舟が出た。南北軸を出すには太陽の影を利用すればよいというのである。すなわち、日中、地上に垂直に棒を一本立て、午前中の適当な時刻に棒の根もとを中心とし、棒の影の長さを半径とする円を描いておく。そして、午後、影の先がちょうどその円周上にきたとき、午前と午後の影のあいだの角を二等分する直線を引けば、それがすなわち、南北方向になるわけである。それから東西方向をきめるのは前に述べた方法を使えばよい。ぼくと同じ型の頭脳をお持ちの読者のためにあえて書けば、得られた南北方向、つまり子午線上に、棒の根もとから両側に等距離の二点をとり、それぞれの点を中心に同じ半径の円弧を描いて、その交点と棒の根もとを結べば、それが東西方向になるはずである。

 「いったい、伊勢の斎宮跡は箸墓の位置とどれだけズレているのです?」
 一同は例の地形図の斎宮跡の地点にいちように眼を走らせた。それは、赤く引いた問題の東西線から北へ約五ミリ離れていた。これでは、せいぜい一五〇メートルのズレということになる。ホーッという感嘆ともため息ともつかぬ声が一同の中に起こった。
 「とても考えられない精度だな。今の器械で測ったとしても、これだけ正確にはゆかないだろう」
…………
「これは、やっぱり、天体観測でやったのではないよ。もっと別の方法だな」
…………

 まず、箸墓の上に東西線を設定する。これは前に述べた棒の影を利用するやり方である。次に、その東西線上の五~一〇メートル離れたところにもう一本、第二の棒を立てる。そして、箸墓の上から東の方を眺めて見とおしのきく山の尾根に第三の棒を持った人間を居させておいて、これらの三本の棒が重なって見えるまで、第三の棒をあちこちへ動かす。第三の棒を持った人間には、箸墓の上からなんらかの合図をして右左に移動させるのである。もちろん、山の尾根からも箸墓の二本の棒は見える道理だから、自分の持っている棒とその二本が重なる場所を探すことは可能だ。両方から見て、三本の棒が一致すれば、第三の棒は箸墓上の東西線のまさしく延長上にあるという理くつだ。第三の棒の位置が定まったら、あとはこれまでの作業を繰り返せばよい。第三の棒の影を利用して、その地点での東西方向を割り出し、その線上にもう一本、棒を立てて、次なる見とおしのきく尾根の上に棒をもった人間を配置する。そして又もや三本の棒が一本に見える地点を探すのだ。こうして、東西軸は野を越え山を越え谷を越えて進む。最初に箸墓で測った東西軸をもしそのままに延長してゆけば、距離が大きくなるにしたがってはじめの誤差もしだいに拡大してゆく勘定だが、この方法だと、その地点、地点でいちいち東西軸を決めて継ぎ足してゆくのだから、手間はかかるが誤差が増幅されるという心配はなくなるわけだ。あるいは、こういう作業を何回となく繰り返すうちに、それぞれの測量の折に生じた誤差がたがいに相殺されることだって考えられる。すくなくとも一方的に誤差が累積してゆくという危険は免かれるだろう。
技師の一人がいった。
 「なるほど、そうすると、現在わかっている遺跡と遺跡とのあいだが三キロから四キロというのも頷[うなず]けますね。あまり遠すぎては見とおすことが難しくなるし、かといって一キロやそこらの近距離では能率があがりませんからね」
 おもしろいことに、現在、トランシットを使って肉眼で見とおす測量でも、三~四キロという場合が多いのだそうである。

〔水谷慶一/著『知られざる古代 ― 謎の北緯34度32分をゆく ―』昭和55年02月15日 日本放送出版協会/発行 (pp. 14-16, pp. 167-175)


 ◯ 北の方位を定めるのに、棒の影を利用する方法は、古代の中国から渡来したものらしく、これまで歳差運動の話題などで参照した北條芳隆氏の『古墳の方位と太陽』でも、詳しく紹介されています。


『古墳の方位と太陽』

第 3 章 弥生・古墳時代への導入

 4. 正方位の割り出し法

 (1)「表」をもちいた観測法
 ではひきつづき正方位の割り出し法の問題に入る。回答の半分についてはすでに述べたとおりである。弥生・古墳時代の倭人が夜の星空を視準することによって真北を直接見定めた可能性は皆無に近い。となると残された可能性は日中の太陽の運行を利用する正方位割り出し法となる。そしてこちらの測定法については古代中国側に詳細な記述が残されており、その手法が日本列島でも再現された可能性は濃厚である。
 それはつぎのような手法である。まず観測地点を平坦にならし、そこに「表」とよばれる長さ八尺の棒を立て、棒を中心とする適度な径の同心円を地表面に描く。つぎに太陽の光が当たることによって「表」の反対側に伸びる影を追う。影は午前中には西に向けて長く伸びるが、その後短くなりながら表の北を巡って午後には東側へと移行し、再び長く伸ばすのであるが、さきの同心円に影が接する地点に目印を付ける。目印が付けられた地点は午前に 1 回、午後に 1 回となり、二つの目印を直線で結ぶと真東西が割り出せる。さらに直線の中間点を求め、そこから表に向けて直線を引く(半折)。そうすれば正南北が割り出せる。このような観測法である。
 古代中国では古く『周礼』にこの観測法の概要が記されており、以後『周髀算経』などでも繰り返し登場する。なお古代中国では円の中心に立てる棒のことを表と記すが、イスラーム世界ではノーモンとよばれた。日時計の原理もその基本は同様であり、世界の各地で採用された普遍的な方位観測法である。インデアン・サークル法ともよばれることがある。図 3?6 には奈良文化財研究所飛鳥資料館が示す同法のイラストを引用したのでわかりやすいかと思われる(奈良文化財研究所 2013)。
 このような太陽の影を利用した方位測定法が最も現実的かつ効果的であることはまちがいなく、原理自体は単純なので、日本列島の弥生・古墳時代にもこの方法が採用された可能性が高いと考えられる。さらに「表」に類した遺構としては、のちに具体的に検討することになるが、第 1 章で触れた吉野ヶ里遺跡北墳丘墓脇に立てられた大柱があり、平原遺跡で検出された 3 本の大柱がある。

〔北條芳隆/著『古墳の方位と太陽』 2017年05月30日 同成社/発行 (pp. 82-83)


 ◯ そこで引用されたもとのイラストは、奈良文化財研究所の『飛鳥・藤原京への道』に掲載されています。


『飛鳥・藤原京への道』

平成25年10月18日 印刷発行
発行者
独立行政法人国立文化財機構
奈良文化財研究所 飛鳥資料館


コラム2 古代の測量

 (p. 44)
 方位を求めるには、磁石(方位磁針)、太陽、北極星などを用いることが思い付きますが、このなかで有力なのが太陽なのです。その方法は、

① 適当な大きさの杭(「表」)を打ち立て、これを中心に円を描く。
②「表」の日影先端が円と交わる点を、午前と午後で求める。
③ 午前と午後の交点を結ぶと東西線が得られる。
④ 東西線の中点と「表」を結ぶと南北線が得られる。

 藤原京は、正方形の都城の中央に宮を置き、その周囲に南北と東西の直線道路を碁盤の目に交差させるという、中国の経書である『周礼』に記述される都城の理想型に基づいて設計されたと考えられています。まさしくその『周礼』に、この「表」を用いた太陽による方位決定法が記されているのです。ですから、少なくとも藤原京を計画する頃(飛鳥時代)には、この太陽と「表」の測量方法を知っていたはずだと考えることができるのです。
(黒坂貴裕 都城発掘調査部)

太陽と「表」による方位の測量(稲田登志子 画)
 


 と、いうわけで。これらの物語を読んで、古代の測量事情に興味をもった次第なのでした。
 それで《日時計》の作り方から始まって、最新のデジタル版《影の長さと方位》で、物語を終えようというわけなのです。
 次回はいよいよ、実際のデータを使った、《太陽位置図》に加え、《日影曲線》の作成と操作に移行する予定です。
 いまのところ《日影曲線》は、予定していた完全体に、まだ到達していないので、どうかうまくいきますように。

2019年7月9日火曜日

公転周期の近日点と遠日点

 日時計のもとになる太陽の回転(移動)は、地球の公転と自転によります。
 数日前、7 月 5 日は、地球が公転軌道の遠日点を通過した日でした。


 地球の公転運動: 近日点と遠日点の位置関係
 (天の北極点側から見た図)
 二至二分・近日点・遠日点のイメージ図
〔参考:「暦Wiki/近日点の移動 - 国立天文台暦計算室」
 (https://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/wiki/B6E1C6FCC5C0A4CEB0DCC6B0.html)

  2019 年の暦
1 月 3 日  ――  近日点通過
3 月 21 日  ――  春分の日
6 月 22 日  ――  夏至
7 月 5 日  ――  遠日点通過
9 月 23 日  ――  秋分の日
12月 22 日   ――  冬至
⛞ 二至二分というのは、《冬至・夏至(二至)》と、《春分・秋分(二分)》を合わせた呼び名です。
⛞ 近日点は地球がもっとも太陽に近づく位置をいい、遠日点は地球がもっとも太陽から遠ざかる位置です。

※ 2019 年の暦でそれぞれの日付は、
国立天文台の『理科年表』やウェブサイトで確認しました。
〔 詳しくは、国立天文台のウェブサイトを参照してください。〕
◎ 近日点「東京の星空・カレンダー・惑星(2019年1月)」
◎ 遠日点「東京の星空・カレンダー・惑星(2019年7月)」
 地球の公転運動: 冬至と夏至の位置関係
 (春分点側から見た図)
日本の冬至は、南回帰線の真上に太陽が来る時期のことです。
日本の夏至は、北回帰線の真上に太陽が来る時期のことです。

 ※ 地球の赤道の南北、緯度 23 27 分( 23.45 度)の緯度の線を
  それぞれ、回帰線(かいきせん)といいます。
 ※ 北緯 23 27 分が、北回帰線(夏至線)で、
  南緯 23 27 分が、南回帰線(冬至線)です。

 ※ この次に描かれた公転軌道の図は、さきほど国立天文台のページをもとに作成した図に、多少の数値の変更を加えたものなのですけれど、その図では〈春分点〉と〝太陽〟と〈秋分点〉を結ぶラインは、一直線上になく、太陽の位置で、少しだけ折れ曲がっています。軌道の日付を合わせようとすると、単純計算ではそうならざるを得なかった、というのは、参考に見た児童用の図書にも、数日間のずれがあると書いてあったので納得です。

小学館の図鑑 NEO 9『宇宙』
地球の公転 ―― 四季
地球の軌道は、正確には円で、軌道上の位置によって公転速度が変わります。このため、春分と秋分との間は、1 年の 2 分の 1 より数日間ずれています。
〔小学館の図鑑 NEO 9『宇宙』(p. 30)


  以上の考え方をもとに、ここからは単純計算で、それぞれの数値を出してみましょう。
⛞ 地軸の傾きについては、冬至から夏至への向きがプラス方向になるよう、表示しています。
 (太陽に対する自転軸の傾き: 冬至: -23.45 °、夏至: +23.45 °
⛞ 太陽の高度(その日その緯度の、太陽の南中する高さ)
⛞ 太陽の方角
 (太陽方位角 (A) は、南を基準に東がマイナスで、西がプラス表示)

『理科年表 2019』
天2 (78) - 天3 (79)
惑 星 表
太陽からの距離 (108 km)
最小 a ( 1 - e ) 長半径 a 最大 a ( 1 + e )
 地球 1.471   1.496   1.521  

 ⛞ 1471 / 20 ≒ 74 (px)
 ⛞ 1521 / 20 ≒ 76 (px)
〔◎ 先ほどの図でも中央からずれていた太陽は、今回は〈近日点〉と〈遠日点〉の数値の違いの程度により、拡大率 1 倍ではグラフの中心点から x 軸のプラス方向に 1 px 移動させています。拡大率を上げてみると、多少わかりやすくなります。〕


◎ 拡大率 1 倍のときに上の図は、
近日点の距離を 74 px 、遠日点の距離を 76 px とし、
x 軸の長径を 75 pxy 軸の短径を 74.5 px としました。
日 = 365 ∕ 365

太陽に対する自転軸の傾き :  °
太陽の南中高度 (h) :  °
北緯 :  °  |  太陽方位角 :  °


※ 南中の前後で、太陽高度 (h) と、太陽方位角 (A) が変化するイメージ図
※ 太陽高度 = 90 度-北緯(緯度) + 日赤緯(赤道座標での太陽の緯度)

◎ 以上の数字などは、あくまで参考のためのもので、正確な値は、国立天文台の『理科年表』を参照する必要がでてきます。
 というわけで、次回にはその『理科年表』のデータを使って、太陽の位置図なんぞを描いてみたいと思います。

2019年7月4日木曜日

棒と紐で北の方位を求める方法

 さて前回、先月の末に日時計の作成方法について述べたのですけれど、そこでは日時計の影を作る棒を〈天の北極〉に向ける必要がありました。

 その前段階としては、文字盤の正午を真下に向け、その棒に対して直角に組み合わせるという工程があったのですが、地面に対して垂直の方向というのは鉛直といいまして、【鉛直線】は辞書に「重力の方向、すなわち物体を吊り下げた糸の示す方向の直線。水平面と垂直をなす。」と説明されています。

 そういうわけで簡単な日時計の作り方〟に書いた、「太陽がちょうど真上に来た時には、太陽と棒と影の関係は、地面と垂直方向になるので、文字盤は正午の 12 時を、真下に向けて設置します。」というときの地面に対して垂直というのは、正しくは水平面に対して垂直であることがわかります。
 そしてその方向は、紐の先に錘(重り・おもり)をつけて、手に持ってぶら下げてみればすぐにわかるという仕掛けになっているのです。
 では次に「そのように作成した文字盤と、天の北極を指して設置する棒とを、きっちり組み合わせる必要があります。」という際の天の北極を指して設置する棒の向きは、どうすれば〝簡単〟にわかるというのでしょうか。

棒と紐と太陽があれば北がわかる


 そういうときのためにあらかじめ、手ごろな〝棒(ぼう)と紐(ひも)〟を、別に用意しておく必要があります。
 両手を拡げた長さほどの紐(太い糸や細い布など)の両端に、それぞれ短い木をくくりつけて、両方の木を持ち紐をピンと張ります。
 紐が長すぎてピンと張ることができないときには,ほかの誰かに手伝ってもらいましょう。

 土の地面のある水平面というのは、学校の校庭のようなイメージを思い浮かべてもらえばじゅうぶんです。
 そこに場所を定めたなら、とある晴れた日の早朝に出かけていき、片方の木を地面に突き刺し、紐の長さを半径にしてコンパスで描くように、もう片方の木を使って、地面に円を書きます。
 紐をピンと張ったままくるりと一周うまくできないときには,誰かほかのひとに手伝ってもらいましょう。

 それから紐の先を地面に垂らして、鉛直方向を求め、1~2メートルほどの長さの木を、その円の中心に垂直に突き刺します。
 突き刺す棒の長さは、もっと手ごろに、50センチ程度でも構いません。
 それから太陽が昇っていくにつれて、棒の影の先が地面に描いた円周(円の線)の上と同じになって重なった場所に、第一の〝印し〟をつけておきます。
 円の半径があまり大きいと、棒の影と円周とがクロス(こうさ・交差)しなくなるので、うまくいきません。
 用意する紐の長さは、自分の影よりも短いほうがよいのです。

 それから、午後の太陽が沈んでいくと、もう一度、棒の影の長さが円の半径(円周の上・円の線)と一致する時間がやってきますので、そこに第二の〝印し〟をつけてから、両方の印のあいだに紐をピンと張ります。
 それが、東西の方向になっています。なぜなら、太陽は東から昇っていくにしたがって南の方向へと移動して、真南でもっとも高く昇って、それから西の方向へ沈んでいくとき、太陽の道であるその軌跡(きせき・進む道・ルート)は、東西で対称になっているという、太陽の習性があるからなのです。
 ですから、棒の影の長さとその方向にもまた、東西で対称形になっているという性質があるわけなのです。
 そのとき〝印し〟の間にピンと張った紐がどれほどまで正しい東西の方向を示しているかというと、作業がどれだけ正しく行われたかによるという、結果次第なのです。
 そこには、棒を立てた、つまり影の描かれた地面がどんだけたいらで、かつ水平であったか、にも気をつける必要がでてくるのです。
 ですから簡単な日時計の作り方の作業内容は、あちこち気を配ったうえで、ある程度簡単なものにとどめておきましょう。






⍒ 下の図で、2 つの線 AO, BO に挟まれた ∠AOB を二等分する、角の二等分線を引く方法です。そのためには先に、∠AOB 二等辺三角形の頂角となるように半円(緑色の線)を描いてから、角を二等分することを考えます。
 二等辺三角形のそれぞれの角は、同じ角度になるふたつの角を底角といい、残りの角を頂角といいます(頂角は、同じ長さの辺を両側にもつ角のことになります)
半円(半円 (1) とします)の大きさは特に決まっていません。今回はとりあえず、点 P, Q を通る半円としました。
⟴ この点 P, Q は太陽が午前と午後に 1 回ずつ柱に作った、同じ長さの影ですので、点 P, Q を結んだ方向は、東西の向きと一致します。その東西線の垂直二等分線が角 ∠POQ の二等分線になっているのです。
⏀ 結果として同じ長さをもつ影同士の、角度の二等分線が、南北を指すことになるわけです。

 角の二等分線・デモ OFF / ON
 角の二等分線の作図方法〔 ※ 段落の最初に丸 ◯ に見えるのはデモ ON のボタンで、クリックすると ◉ になります。〕
 まずは、グラフの原点みたいな点 O を中心にして、半円を描きます。半円といっても線 AO, BO の両方と交差すればよいので実際は円の一部というような意味になります ―― 弧といいます ―― が、ここではとりあえず半円 (1) と表現しておきましょう。
 このとき点 P, Q は同じ円周上の点ですから点 O との距離は等しく、点 O, P, Q 二等辺三角形になります。
 次に、点 P を中心として、PQ の長さの半分より大きな半径をもつ半円 (2) を描きます。そして点 Q からも、半円 (2) と同じ半径の半円 (3) を描くと、その半円同士の交点が 2 つできます。
 その交点のうち、どちらでも ―― たいていは、点 O から遠いほうが選ばれますが ―― 点 C として、線 CO を引いたら、それが二等辺三角形 △OPQ頂角 ∠POQ を二等分する線になっているわけです。


 さてさて、そういうわけで。
 簡単な日時計の作り方の最終工程には、〈天の北極〉を指す棒のために、北極の方向を求める作業があって、それは、東西方向と直角な線を引けば出てくるというわけなのです。そしてそれは物理法則の習性を知れば、わかる仕掛けとなっているのです。

Japanese standard time

日本標準時(日本時間)は東経 135 度の子午線を太陽(平均太陽)が通過する時刻を 12 時とします。
太陽が、観測地の子午線上を通過するとき、太陽が〈南中〉するといいます。
これは太陽がもっとも真上に来た状態なのですが、太陽の高度はこの時最大となり、〈正午〉をさします。また南中の前後で、太陽の軌跡(位置)は対称的な図形を描きます。

2019年6月29日土曜日

簡単な日時計の作り方

 下の図は、北緯 35 度に設置する日時計を横からみた形です。
 日時計の影を作る棒は、天の北極を指しています。

 天体は、天の北極を中心にして、回転運動をしますから、太陽もまた同じく、天の北極を中心にした回転運動をします。
 地球の自転が 1 回転すると、1 日が経過します。
 360 度を 15 度ずつに分割して線を引くと、24 本の線ができます。
 そのように作成した文字盤と、天の北極を指して設置する棒とを、きっちり組み合わせる必要があります。
 文字盤の中心を、棒が直角に貫いて、日時計が完成します。

 ◉ 太陽がちょうど真上に来た時には、太陽と棒と影の関係は、地面と垂直方向になるので、文字盤は正午の 12 時を、真下に向けて設置します。

 日時計を水平の台に固定すると、水平の台と天の北極を指す棒との角度は、日時計を設置する場所の緯度と同じ角度になります。

 ◎ それぞれの角、∠AOC, ∠BOD は、直角です。
 ◎ ∠COD は北緯 35 度の対頂角(向かい合った角)ですので、35 度となります。
 ◎ すると、∠BOC は 55 度となり、したがって、∠AOB は 35 度となるわけなのです。



 ※ 上の図の中で、右上の参考図の地球イメージに描かれた赤い線は赤道です。
 ※ 地軸の傾きは、北回帰線・南回帰線の 23 度 27 分 ( 23.45° ) に設定しました。

2019年6月24日月曜日

ヒポクラテスの月

ヒポクラテスの月というのは、半円内部に描かれた〝直角三角形〟と〝半円(三日月)〟の面積に関する問題です。

 JavaScript を使って Canvas に図形を描く演習問題として、ヒポクラテスの月は、格好のテーマのひとつでしょう。これは、直角三角形の 3 辺のそれぞれを直径にした、3 個の半円を描けばよいのです。




 ◎ 上の図は、描きやすさを第一と考えて、複雑な計算のあまり必要のなさそうな、30° 60° の角をもつ直角三角形を使って、それぞれの辺に円を描いてみました。

 ⟲ それを反時計回りに 150° 回転させてから、半円にしたものに、
着色したのが、下の図 ☟ となります。




◉ ヒポクラテスの定理:


上の図で、黄色の三日月形を足した面積と、直角三角形の面積は等しい。
※ 図の、⊿ABC は、∠C を直角とする直角三角形で、AB を直径とする円に内接している。


◎ ヒポクラテスの三日月の詳しい説明:

 ▸ ∠C が直角である ⊿ABC の外側に、辺 BC を直径とする半円と、辺 CA を直径とする半円を描く。
 ▸ これらの半円から、⊿ABC の外接円に含まれる部分を除いて得られる月形の図形を、それぞれ moon1, moon2 とし、moon1, moon2 の面積の和と、⊿ABC の面積を比較する。


◈ それぞれの半円の面積の関係:

 各辺の記号を次の通りとする。BC = a, CA = b, AB = c
 a を直径とする半円の面積を α
 b を直径とする半円の面積を β
 c を直径とする半円の面積を γ とすると、
円の面積 πr2 であるから、これを仮に 直径 a で表せば、
円の面積 π × a2 ÷ 22 となり、したがってそれぞれの半円の面積は、

 α = πa2 / 8
 β = πb2 / 8
 γ = πc2 / 8

となって、ピタゴラスの定理より、

 ∴ αβ = π (a2b2) / 8 = πc2 / 8 = γ


◈ ヒポクラテスの定理の証明:


 上と同様に、それぞれの半円の面積を α, β, γ とし、

  moon1 の面積 = s1
  moon2 の面積 = s2
  ⊿ABC の面積 = s3

 とすると、AB⊿ABC の外接円の直径だから、

   s1 + s2 = (αβ) - (γ - s3)

 さらに、上記(それぞれの半円の面積の関係)より、

   αβ = γ

 ∴ s1 + s2 = s3


 ◉ ヒポクラテスの月:

月形 s1, s2 は、歴史上最初に作図された「直線に囲まれた図形」に面積が等しい「曲線に囲まれた図形」である、といわれている。
〔参考文献:大田春外『高校と大学をむすぶ幾何学』2010年09月15日 日本評論社/発行 (p. 7, p.180)


Google サイト で、本日、「歳差運動」と「暦」についてのページを公開しました。

古代の《暦》 ―― こよみ ――
https://sites.google.com/view/hitsuge/arcus/koyomi

―― その内容に、〈ヒポクラテスの定理〉についての説明を合わせたページを、以下のサイトで公開しています。

古代の《暦》 ―― こよみ ――
http://theendoftakechan.web.fc2.com/eII/hitsuge/koyomi.html

2019年6月15日土曜日

《北辰》を廻る星座

―― ほくしんをめぐるせいざ ――

歳差運動を試しに計算してみる


⌀ 歳差運動の計算に挑戦してみました。

 ◯ 北條芳隆氏の『古墳の方位と太陽』でも紹介されていた『孔子の見た星空』の内容が〈北辰〉とか、歳差運動のことにとても詳しく、かなり参考になりましたので、今後の記憶のためにも、ここで冒頭の解説などを引用しておきたいと思います。


『孔子の見た星空』

古典詩文の星を読む

序章 孔子の見た星空 ―― 歳差と古典の星空

 (pp. 1-2)
 『論語』の為政篇の巻頭に、次のようにある。

子曰[いわ]く、「政[まつりごと]を為[な]すに徳を以[もっ]てすれば、譬[たと]えば北辰[ほくしん]の其[そ]の所に居りて、衆星[しゅうせい]の之[これ]に共[むか]うが如[ごと]し」

孔子の言葉「徳を政治の指導原理とするならば、それはあたかも、〈北辰〉がその居場所に坐っていてあらゆる星がそれを中心に回転しているさまさながらに、政治も自然にうまく進んでゆく」

 この「北辰」とはどういうものか。いまのおおかたの『論語』の注釈では、「北極星」と訳されるが、果たしてそれでよいのだろうか。今からおよそ二五〇〇年前の孔子の時代の北天をコンピュータで再現してみると図1のようになる。今の北天図2と比較すると、その変化に驚く。北極点に星はないばかりか、その周辺を見てもおよそ顕著な星はない。今の北極星、こぐま座の α [アルファ]は、遙か彼方である。孔子の見た北天には、「北極星」と呼ぶような星はなかったのである。
 この変化は、地球の回転軸が星空の間を移動していくという天文現象により生じたもので、我々が日常経験している天球の日周運動、年周運動とは異なり、人間の一生の間では気がつかないほどのわずかな地軸の動きが、積もり積もって現れた結果であって、歳差運動といわれている。
 地球を、北極と南極を軸にした独楽にたとえ、その回転している独楽の芯棒が黄道面に対して首を振る状態を、歳差運動のたとえとすると、芯棒の先は二万六千年で天球上に半径二三・五度の円を描く(図3)。北極星とおおぐま座 α 星との距離が角度にして二九度であるから、おおよその見当はつくであろう。このようにスケールの大きいゆっくりとした運動に気がついたのは、人類の天文観測史上からいえば、比較的後代であって、西洋では、紀元前一五〇年頃ギリシア人のヒッパルカスによって、中国では、晋の虞喜[ぐき](三〇〇~三五〇年頃活躍)によって発見された。
 この運動の起きる原因や詳しい議論は、天文学や力学の本に譲るが、この歳差が星空に具体的にどのように現れるのか、長い歴史をもつ中国の詩文を読むときには、是非とも念頭に置かなければならないことである。特に、北天では、天球上の回転の中心点(北極)との関係において、歳差が重要視されることになる。図1図2を比較すると、今の〈北極星〉こぐま座の α は、北極点を一五度近くも離れているが、逆に、こぐま座の β [ベータ]は昔の方が接近していて七度に近い(現在では約一六度)。また、北斗七星の第一星、おおぐま座 α はかなり接近していて一八度弱(現代では二七度余)となっている。


一 北天の星

 (p. 14)
 ~~。時代を遡れば、紀元前二八〇〇年ころに〇・一度と、今の北極星より理想的な近さの星、りゅう座の α トゥバン、すなわち三・七等星の〈右枢〉があるが、これは、三皇五帝の時代であって(図12)、孔子の時代では図1のように北極から大分離れている。
 (pp. 15-16)
 ところで、最近、香西洋樹氏は、シェイクスピアの「ジュリアス・シーザー」で、シーザーが「俺は北極星のように不動だ」という場面を引き、シェイクスピアが歳差を知らなかったため、シーザーが言うはずもない台詞を書いたと述べておられる(9)。この劇は、一五九九年(明の万暦二十七年に当たる)に書かれたという。英語に北極星 (pole star) が現れて四〇年ばかり後ということになるが、このとき北極星は、まだ真北極から三度弱離れてはいたが、次第にその座に相応しい名を認められつつあったいわば過渡期であったろう。もし、シェイクスピアが『論語』のこの部分を何らかから知ってこの台詞を書いたとしたら甚だ面白いし、その可能性も全くないとは言えないだろう。
 現在の北極星の北極との距離は紀元二〇〇〇年で〇・七四度強、二一〇二年にもっとも北極点に近づき(〇・四六度)その後は次第に離れていく。
 (p. 19)
 現在の星座では、北斗の柄のすぐ北には目立った星がない。せいぜいりゅう座の α (13)κ [カッパ](14)が推定される(15)。しかし、この両星とも四等星で、目立つ星ではない。そこで、さらに北に視線を移せば、こぐま座の α β 星(いずれも二等星)がある。β は、『晋書』では帝王と呼び、また太乙(太一)の座といういわゆる〈帝星〉、α は〈勾陳〉、つまり現在の北極星である。

[注]
9 『科学朝日』(一九九六年三月号)、のちまとめられて『シェークスピア星物語』(講談社 一九九六年)
13 りゅう座 α は〈右枢〉と呼ばれ、淳祐天文図では、この星のやや西側の小さな星を〈天一〉とするが、『史記』天官書とは異なる。
14 りゅう座 κ について、『史記』天官書の〈天一〉とは、「北斗の口の先にある三星は、北に随て鋭[とが]って(三角形)おり、見えるが若く見えざるが若き(星で)陰徳といい、〈天一〉と云う」というので、りゅう座の κ  λ を含む三星で、κ が〈天一〉であろう。
15 この項は、近藤光男「唐宋詩と星宿」(『北海道大学外国語外国文学研究』Ⅶ号)を参照した。
〔福島久雄/著『孔子の見た星空』より〕

図1 孔子の時代の北天(紀元前 500 年)*経線 1h = 15°間隔、緯線 10°間隔、以下同様。
北極点に星はなく、北極点に最も近い明るい星はこぐま座 β 

図2 現代の北天(2000 年)
こぐま座 α が北極点のごく近くに位置している。

図3 北極移動曲線(赤緯・赤経は 2000 年のもの)
歳差によって、北極点は 26,000 年で天球上に半径 23.5°の円を描く。

図12 りゅう座トゥバンの北極点への最接近(紀元前 2800 年)
北極に 0.1° まで近づいた。

The End of Takechan


歳差運動のデモンストレーション図形


◉ 以上『孔子の見た星空』のこれらの文と図による解き明かしなどから、天の北極の景観は、たとえばコンパスが 2 本の針の半径を 23.5° に固定された状態で円を一周描く、軌跡のようなイメージで、25,800 年をかけて、変化していくということが理解できます。その軌跡が〈北辰〉の軌道にあたるわけです。
⌀ この 23.5° の傾斜角というのは、有名な地球の自転軸の傾き、つまり地球が太陽の周囲を巡る公転軌道に対しての、地軸の傾きです。

⌾ さらにあらためて図3を見ると、紀元前 2,800 年頃にはまさしく天の北極だった竜座の α トゥバンが、現在の天の北極 ――〈北辰〉の周囲を右に旋回して、離れていっている様子がうかがえます。

⟳ 地球から見て、景色が右に巡っていくということは、自身は左向きに回っているということになりますね。
⟲ そしてまたこれが重要なポイントにもなりますけれど、地球から見て、自身が反時計回りの左回転をしているということは、天球の外から見た場合には、歳差運動は、右回転であるということを意味します。
⦽ 誰から見て ―― いいかえると誰が見た話なのか ―― という、前提となる視点の問題は重要なのです。

〔 ※ 窓の外の誰かに向かって、腕を反時計回りにぐるぐる回して合図したら、窓の外から見ているひとには、腕を時計回りに回しているように見えるはずですね。〕

◈ 以上の条件で、簡単な作図を試みるわけなのですけれども、23.5° の傾斜角の逆円錐みたいな形というのは少々難しいので、頂角が 23.5° × 2 の角の二等辺三角形(見た目は尖った角が 23.5° の逆立ちした直角三角形がふたつ、背中合わせになっているこの下の真ん中の図)を考えてみましょう。天球代わりの円盤をくっつけておきます。この円盤の周囲を天の北極が移動していくことになるわけです。

 ✎ 絵(図柄)の細かい部分の仕上げは、各自で考えていただけるように、あとで JavaScript のコードを公開することにします(今回じゃありません)。JavaScript は、―― いまどきなパソコンさえあれば動作するという ―― ブラウザ(インターネット閲覧ソフト=インターネットを見るための道具)を(ゲーム感覚で?)操作するための、無料のプログラミング言語です(いわゆるフリーソフトというしろもので、ブラウザに標準装備されています)。

 JavaScript の使い勝手のよさは、プログラムさえ用意できれば、あとはインターネットにつながっていなくても動作するということにあります。
 ですから一度読み込んだページは読み込み完了後すぐさまインターネット接続を切り離しても、そのページを閉じたり別のページに移動しなければ、新しい外部データを必要としない限り、動作に支障がないわけです。

 次に示す図は、手動制御と自動制御が切り替えられて、おまけに自動制御の際の変速機まで実装した

――〝歳差運動のデモンストレーション図形〟で、しばらく眺めていたら、デモの実感が湧くかも知れません。

 ※「スピード・角度の指定」は クリックして 数値を選んだあと 数字キーでの入力・ Home, End ・上下キー ↑↓ でも操作可能


〔現在の基準を西暦 2100 年とする〕



 歳差運動・デモ
OFF  /   ON ・スピード 
角度の指定  ° 現在からの年数 0 年前  

◈ 上の図で、歳差運動のイメージがうまくつかめたならさいわいで、感じがまだよくわからなくても、―― さてところで。とばかりにお構いなく、次の話題になりますが、―― それでは、現在の北極星が 500 年前・1000 年前には、当時の天の北極と見た目でどのくらい離れていたのか、ということを、これから計算してみましょう。

⛞ 上の図形の右下あたりに付属した〈角度の指定〉の選択ボックス [ 0° ] を クリックして
✍ 346 と数字を入力すると 1003 年前と表示されます。

―― この 1003 年という数字の算出基準としては、先の引用文『孔子の見た星空』の 16 ページに、

 現在の北極星の北極との距離は紀元二〇〇〇年で〇・七四度強、二一〇二年にもっとも北極点に近づき(〇・四六度)その後は次第に離れていく。

と書かれていましたので、それをもとにして計算をしています。

―― この図では《 2100 年》を基準の 0 年と前提したうえで ――
⌨ 歳差運動 1 周分の年数の 25,800 年を 360 度で割ることで 1 度あたりの年数を出してから、それを単純に掛け算しただけですが、それだけでもこのおおよそ 1,000 年間に、360 - 346 = 14 度分の円周の上を、天の北極が移動したことがわかります(当然ながらも、割り算と掛け算の計算式を書いただけで、実際の計算はパソコン頼み)。
 なにやらめでたしめでたしな感じなのですけれど、ではそれがそのまま夜空の景観として、見た目の角度の違いになるかというと、あにはからんや、それが違うのです。なんとなれば『孔子の見た星空』の 2 ページには、

図1図2を比較すると、今の〈北極星〉こぐま座の α は、北極点を一五度近くも離れているが、逆に、こぐま座の β [ベータ]は昔の方が接近していて七度に近い(現在では約一六度)。また、北斗七星の第一星、おおぐま座 α はかなり接近していて一八度弱(現代では二七度余)となっている。

と記録されています。図1は 2,500 年前で、図2は現代の図となっています。箇条書きにすると、

1.〔2500年前〕今の〈北極星〉こぐま座の α は、北極点を 15° 近くも離れている
2.こぐま座の β は昔の方が接近していて 7° に近い(現在では約 16° )
3.〔2500年前〕北斗七星の第一星、おおぐま座 α はかなり接近していて 18° 弱(現代では 27° 余)となっている

というわけで、どうしたって、単純な円周上の角度と、では計算が合わないのです。

⛞ 今の〈北極星〉こぐま座の α が離れている角度の 15 度分、360 - 15 = 345 度の年数は、
✍ 角度の選択選択ボックス [ 0° ] を クリックして 345 と入力したら、1075 年前と表示されるわけですから。
―― 2500 年前という説明とは、大きく異なってしまいます ――

 この計算結果の違いの謎を解明するために、『孔子の見た星空』の 4 ページに掲載された図3の一部を加工して、自分で作図した図形の上に乗せ、それぞれの長さと角度の比率を計測してみたところ、次のような数字を得ることができました。

 ―― 今回作成したサイズの図形での数字(座標の単位は px ピクセル)――

 ◎ 現在( 2,000 年)の天の北極の中心座標 (x, y) = (430, 270)

 23.5° の円の半径  r  =  170  ( 170 ÷ 23.5 = 7.234 )
 10° の円の半径 r_10  =  72  ( 72 ÷ 10 = 7.2 )
 20° の円の半径 r_20 = 142  ( 142 ÷ 20 = 7.1 )
 30° の円の半径 r_30 = 214  ( 214 ÷ 30 = 7.133 )
 40° の円の半径 r_40 = 286  ( 286 ÷ 40 = 7.15 )
 50° の円の半径 r_50 = 358  ( 358 ÷ 50 = 7.16 )

 これにより、10° 間隔の緯線は、1° あたり、おおよそ 7.1~7.2 の比率で描かれていると、理解できます。

◯ そこでおおぐま座の一番近い星(おおぐま座 α )を通るように円を描くと、

 27° 余の円の半径 r_27 = 200 ( 200 ÷ 27.4 = 7.299 )

となり、したがって、我々のお気に入りの星々が現在の天の北極とどれくらい離れているかの角度とは、

相互の座標を中心点として、相手の座標が円周に重なるように円を描くとき〔どちらから円を描いても座標間の距離は同じになりますので〕、その円の半径がどれくらいになるか、という測定であろうということになります。

⛞ それでは、ここはとりあえず、基準の数値を 23.5°= 170 と割り当てて、計算してみましょう。

⌨ それぞれの時代に、天の北極がどのあたりにあったかの位置計算 ―― つまりは歳差運動の基準軸を中心とした、北辰が天蓋(天宮)を移動する角度 ―― は、すでに計算済みなのですけれど、あいにく逆向きの回転になってしまっているのでここは調整し直し、また 1 度あたりの年数ではなく、100 年あたりの角度を出すことにして、ざっくり右回りの角度を計算しておきましょう。


⎋ この作図は(操作してみて)、小熊座 β が天の北極にもっとも近づいていたのは、紀元前 800~1200 年頃のおよそ 400 年間だったことを示しています。

⌀ また、小熊座 β と、紀元前 800 年 (16.42° ) の青の円周がちょうど重なって、上の箇条書きリスト第 2 の「こぐま座の β は昔の方が接近していて 7° に近い(現在では約 16° )」の条件とも一致するようなので、現在の天の北極からの角度を別途計算すると約 15.65° となり、あまり大きな誤差は、ここでは生じていません。

✥ 以上の考え方で合っているかどうかは、よくわかりませんが、おおまかなところ・だいたいのところはよろしいかと思われますので、目安程度のデータとして、計算結果をかいつまんで表にしておくこととします。

今の〈北極星〉小熊座 α 星・歳差運動上の軌跡(北辰との角度) 
\    西 暦 歳差運動の移動角度 見た目の角度の違い
西暦紀元 2,001 0 ° 0.74 °
1,501 6.98 ° 3.49 °
1,001 13.95 ° 6.35 °
501 20.93 ° 9.2 °
401 22.33 ° 9.76 °
301 23.72 ° 10.33 °
201 25.12 ° 10.89 °
101 26.51 ° 11.45 °
2,000 年前 1 27.91 ° 12.01 °
紀元前 300 32.09 ° 13.68 °
500 34.88 ° 14.78 °
1,000 41.86 ° 17.5 °
1,500 48.84 ° 20.15 °
2,000 55.81 ° 22.72 °
2,500 62.79 ° 25.22 °
5,000 年前 3,000 69.77 ° 27.62 °

 ⛞ 冒頭でも触れた、北條芳隆氏の『古墳の方位と太陽』(p. 77) には、紀元前 300 年の小熊座 α 星は「天の北極から約 12.7 度離れた位置」だったことが記されています。

〔 ※ このデータの比較によって、計算結果には、ある程度の明確な誤差があることが確認できます。〕

【 ⌨ 原因としてまず考えられるのは地軸の傾きの数値設定なので、《 23.5° ⇒ 23.4° 》に修正してみましたが、計算の結果は《 13.68° ⇒ 13.62° 》と、あまり変わらず、また紀元前 3,000 年頃の軌道上の位置にも 100 年程度の誤差が認められますので、この計算方法には相応の修正が必要になると考えられます。】


Google サイト で、本日、同じタイトルのページを公開しました。

日告げの宮 :《北辰》を廻る星座 ―― 歳差運動の計算 ――
https://sites.google.com/view/hitsuge/arcus/Dipper

―― もう少し詳しい内容のページを、以下のサイトで公開しています。

日告げの宮 : 北辰の星 ―― 歳差運動の計算 ――
http://theendoftakechan.web.fc2.com/eII/hitsuge/precession.html