2019年7月13日土曜日

太陽位置図を作図する

―― 前回の終わりに今回の予定として書いたのですけれど。

◎ 以上の数字などは、あくまで参考のためのもので、正確な値は、国立天文台の『理科年表』を参照する必要がでてきます。
 というわけで、次回にはその『理科年表』のデータを使って、太陽の位置図なんぞを描いてみたいと思います。

―― ですけれど。都合により、『理科年表』のデータを使った作図は、この次にしたいと思います。というわけで、今回は《太陽位置図》の、単純計算バージョンを作成してみました。
〔 ※ 実は今回のは、『理科年表』のデータを使って作図したものから、地軸の傾き (23.45°) 以外のデータは不要(不用)という仕様に、わらわらと改変しました。〕

 太陽位置図: 地球の自転と公転による変化
※ 太陽高度 = 90 度 - 北緯(緯度)+ 日赤緯(赤道座標での太陽の緯度)
366 ∕ 366   北緯  N ° 図の拡大率  Z
   日 時 :   MD 日   H  時  M  分
  ◎ 日赤緯   D  °     ◎ 南中時の太陽高度   H  °
    太陽高度 (h) : sunH °
   太陽方位角 (A) : sunA °
      時角 (t)  : t °
  [ crimson ]   622 日(夏至)
  [ gold ]   321 日(春分)/ 9 23 日(秋分)
  [ midnightblue ]    12 22 日(冬至)
◎ 太陽位置図のラインを、色分けして描いてみました。
今回は《太陽位置図》簡易版として、毎日必ず正午に太陽が南中する前提で、単純計算したラインを描線します。
 次のように区分設定したうえで、年間の太陽の高度の変化は、それぞれの区分では一律として、計算しました。
 結果として、1 年が 366 日となっています。
冬至から春分の日までを、90 日間
   春分の日から夏至までを、93 日間
   夏至から秋分の日までを、93 日間
   秋分の日から冬至までを、90 日間

 1 年を通じて、太陽の位置が、夏至と冬至の間を往復することは、去年の『理科年表』でも確認してきた、北緯 34 度の〈夏至〉の日の出の方位角が 29.3 度で、〈冬至〉の日の出は -28.0 度であったことからも、簡単に理解できるでしょう。
(この角度の数字は、真東を 0 度として、北をプラス、南をマイナスとする表示となっています。)
こうした、季節ごとの変化は、公転軌道に対して自転軸が傾いているために起きるわけです。

計算式 [ 太陽高度 ( h )・太陽方位角 ( A )
[ これらの記号の意味は各種資料に解説があります ]
  sin h = sin φ sin δ + cos φ cos δ cos t
cos A =    sin h sin φ - sin δ 
cos h cos φ



―― さて次の一文は、水谷慶一氏の『知られざる古代』(p. 166) からの引用です。

 「もし、この『太陽の道』が存在したとするなら、地図をもたない古代人がどうして東西にまっすぐの線を引くことができたのでしょうね。あなた方なら、どうします? 磁石もなく、ただ有るといえば棒と繩きれぐらいで、どうして地上に二〇〇キロもの東西線を引きますか? 途中には、山も谷も、いや、海さえあるのですよ」

 ◯ 1980 年に出版されたその本に、国土地理院を舞台にした《古代の測量事情》を考察していく過程が描かれていて、とても興味深い内容なので、抜粋して紹介しておきたいと思います。
〔 ※ 引用文冒頭の O 氏とは〝奈良飛鳥園の小川光三氏〟であることが「第五章」で明かされています。〕


『知られざる古代』

 第一章 奇妙な暗号

 O 氏の話をかいつまんでいうと、こういうことになった。
 三輪山の麓に箸墓[はしはか]というのがある。四世紀初頭につくられた前期古墳で、ヤマトトトビモモソヒメ(倭迩迩日百襲姫)の墓ということになっている。近くには、崇神[すじん]天皇陵や景行[けいこう]天皇陵という、いずれも同じ時代の前方後円墳が並んでいて、いわゆる柳本[やなぎもと]古墳群を形づくっている。
 箸墓はその中でも、もっとも古いものであるが、その箸墓の前方部の中心をとおる東西の線上にはなぜか古い由緒をもつ神社や古代遺跡が多いというのである。だいたい三キロくらいの間隔で点々と連なっているという。そして、その直線を東へむかってどんどん進むと、奈良県と三重県の県境の山々をこえて伊勢の国に入り、伊勢湾へ出る直前で、斎宮跡[さいぐうあと]に突きあたる。斎宮跡とは、現在の伊勢神宮の内宮がもとあったところだといわれている場所である。
 それから今度は反対に箸墓を西へ進むとどうなるか。約一五キロの東西の幅をもつ大和盆地を横切るあいだに、すくなくとも四つの神社の上をすぎ、大和の西の国境いの大坂山をこえて河内平野に出る。ここでもまた、重要ないくつかの神社をとおったあと大阪湾をそのまま突き切って淡路島に達すると、そこにまた伊勢があるというのだ。
 箸墓から東の伊勢の斎宮跡までがおよそ七〇キロ、そして西の淡路の伊勢までが八〇キロ、ざっと箸墓を中心にして東西の直線上にふたつの伊勢が対称的に配置され、しかもその間を点々と神社や遺跡が埋めているのは、「こらいったい、どういうわけでっしゃろな」と O 氏は結んだ。


 第九章 不知火をもとめて

 「古代といっても、それは何世紀頃と考えるのですか?」
 と技官の一人が、煙草の火をつけながらきいた。
 「だいたい、四世紀を目安においていただいたらいいと思います。というのが、この東西軸の基点を、いちおう大和の箸墓においていますから。この古墳の築造年代がだいたい四世紀なんです。邪馬台国の所在を畿内におく学者が卑弥呼の墓だといっているものです。大和にある古墳ではもっとも古いものの一つで、考古学者の中には三世紀末まで遡らせる人もいます。『魏志倭人伝』によれば卑弥呼が死んだのは魏の正始[せいし]八年、つまり西暦二四七年以降ですから、三世紀末だとするとだいたい年代が合ってくるのです」
 卑弥呼の墓ときいて、一同の眼がにわかに輝きをましたように思われた。
 「四世紀か。すると、天文観測は行なわれていたと考えていいね。文献の上で、はっきり確かめられるのは、西暦五五四年に百済より医学、暦学、天文学の博士が来日したという記事なんだけど、すでに中国との往来はあったわけだし、北極星を見て方位をもとめたり自分の位置を決めたりすることを知っていた可能性は十分あるな」
 「すると、北極星で真北をもとめて南北軸をきめ、そこから東西軸を設定することはできたのでしょうか」
 「それは簡単です。直角を作ることができればいいわけだから。『周髀算経[しゅうひさんけい]』という古代中国の本によると、おそくとも前五世紀頃にはピタゴラスの定理は知られていたようですよ。こちらは四世紀なんだから、もちろん、ごく限られた一部の技術者だろうけれど、三辺を三・四・五の比率にすれば直角三角形ができることぐらいは承知していたでしょうね」
 ぼくが頭の中であれこれ図を描いているのを見て、その技官はつづけた。
 「もっともね、そんなことを知らなくても二等辺三角形の頂点と底辺の中点を結んだ線は底辺と直角に交わるというのを利用すればいいんですよ」
 なるほど、これなら棒と繩があればできるわけだ。
 「待てよ。北極星で南北軸をきめるなんて、そりや無理かも知れませんよ。だって、当時は、たしか北極星はいまの位置にないのですから」
 それまで黙っていた眼鏡の技官が突然、口をはさんだ。一同、顔を見合わせたことはいうまでもない。この技官はさる有名な国立大学で天文学を学んだ人である。神妙に彼の講説を聞くことになった。ぼくの理解したかぎりでは、それは次のようなことになる。
 普通、北極星の位置が動かないとされているのは、北極星が地球の自転軸の延長線上の位置にあるためだが、長いあいだには、その回転軸じたいがブレるのだそうである。ちょうど、独楽[こま]が回転を止める直前に芯棒をふるわせるような状態を考えればいいのだろう。だとすると、この地球もそろそろ回転を止めて宇宙のどこかにすっ飛んでゆきそうで不安でならないが、それはそれ、天文学的な長い時間のことだから気にするには及ばない。しかし、千数百年前には北極星が現在の位置より約八度ずれて見えていたはずだという話には正直まいった。
…………

 それには、さいわい助け舟が出た。南北軸を出すには太陽の影を利用すればよいというのである。すなわち、日中、地上に垂直に棒を一本立て、午前中の適当な時刻に棒の根もとを中心とし、棒の影の長さを半径とする円を描いておく。そして、午後、影の先がちょうどその円周上にきたとき、午前と午後の影のあいだの角を二等分する直線を引けば、それがすなわち、南北方向になるわけである。それから東西方向をきめるのは前に述べた方法を使えばよい。ぼくと同じ型の頭脳をお持ちの読者のためにあえて書けば、得られた南北方向、つまり子午線上に、棒の根もとから両側に等距離の二点をとり、それぞれの点を中心に同じ半径の円弧を描いて、その交点と棒の根もとを結べば、それが東西方向になるはずである。

 「いったい、伊勢の斎宮跡は箸墓の位置とどれだけズレているのです?」
 一同は例の地形図の斎宮跡の地点にいちように眼を走らせた。それは、赤く引いた問題の東西線から北へ約五ミリ離れていた。これでは、せいぜい一五〇メートルのズレということになる。ホーッという感嘆ともため息ともつかぬ声が一同の中に起こった。
 「とても考えられない精度だな。今の器械で測ったとしても、これだけ正確にはゆかないだろう」
…………
「これは、やっぱり、天体観測でやったのではないよ。もっと別の方法だな」
…………

 まず、箸墓の上に東西線を設定する。これは前に述べた棒の影を利用するやり方である。次に、その東西線上の五~一〇メートル離れたところにもう一本、第二の棒を立てる。そして、箸墓の上から東の方を眺めて見とおしのきく山の尾根に第三の棒を持った人間を居させておいて、これらの三本の棒が重なって見えるまで、第三の棒をあちこちへ動かす。第三の棒を持った人間には、箸墓の上からなんらかの合図をして右左に移動させるのである。もちろん、山の尾根からも箸墓の二本の棒は見える道理だから、自分の持っている棒とその二本が重なる場所を探すことは可能だ。両方から見て、三本の棒が一致すれば、第三の棒は箸墓上の東西線のまさしく延長上にあるという理くつだ。第三の棒の位置が定まったら、あとはこれまでの作業を繰り返せばよい。第三の棒の影を利用して、その地点での東西方向を割り出し、その線上にもう一本、棒を立てて、次なる見とおしのきく尾根の上に棒をもった人間を配置する。そして又もや三本の棒が一本に見える地点を探すのだ。こうして、東西軸は野を越え山を越え谷を越えて進む。最初に箸墓で測った東西軸をもしそのままに延長してゆけば、距離が大きくなるにしたがってはじめの誤差もしだいに拡大してゆく勘定だが、この方法だと、その地点、地点でいちいち東西軸を決めて継ぎ足してゆくのだから、手間はかかるが誤差が増幅されるという心配はなくなるわけだ。あるいは、こういう作業を何回となく繰り返すうちに、それぞれの測量の折に生じた誤差がたがいに相殺されることだって考えられる。すくなくとも一方的に誤差が累積してゆくという危険は免かれるだろう。
技師の一人がいった。
 「なるほど、そうすると、現在わかっている遺跡と遺跡とのあいだが三キロから四キロというのも頷[うなず]けますね。あまり遠すぎては見とおすことが難しくなるし、かといって一キロやそこらの近距離では能率があがりませんからね」
 おもしろいことに、現在、トランシットを使って肉眼で見とおす測量でも、三~四キロという場合が多いのだそうである。

〔水谷慶一/著『知られざる古代 ― 謎の北緯34度32分をゆく ―』昭和55年02月15日 日本放送出版協会/発行 (pp. 14-16, pp. 167-175)


 ◯ 北の方位を定めるのに、棒の影を利用する方法は、古代の中国から渡来したものらしく、これまで歳差運動の話題などで参照した北條芳隆氏の『古墳の方位と太陽』でも、詳しく紹介されています。


『古墳の方位と太陽』

第 3 章 弥生・古墳時代への導入

 4. 正方位の割り出し法

 (1)「表」をもちいた観測法
 ではひきつづき正方位の割り出し法の問題に入る。回答の半分についてはすでに述べたとおりである。弥生・古墳時代の倭人が夜の星空を視準することによって真北を直接見定めた可能性は皆無に近い。となると残された可能性は日中の太陽の運行を利用する正方位割り出し法となる。そしてこちらの測定法については古代中国側に詳細な記述が残されており、その手法が日本列島でも再現された可能性は濃厚である。
 それはつぎのような手法である。まず観測地点を平坦にならし、そこに「表」とよばれる長さ八尺の棒を立て、棒を中心とする適度な径の同心円を地表面に描く。つぎに太陽の光が当たることによって「表」の反対側に伸びる影を追う。影は午前中には西に向けて長く伸びるが、その後短くなりながら表の北を巡って午後には東側へと移行し、再び長く伸ばすのであるが、さきの同心円に影が接する地点に目印を付ける。目印が付けられた地点は午前に 1 回、午後に 1 回となり、二つの目印を直線で結ぶと真東西が割り出せる。さらに直線の中間点を求め、そこから表に向けて直線を引く(半折)。そうすれば正南北が割り出せる。このような観測法である。
 古代中国では古く『周礼』にこの観測法の概要が記されており、以後『周髀算経』などでも繰り返し登場する。なお古代中国では円の中心に立てる棒のことを表と記すが、イスラーム世界ではノーモンとよばれた。日時計の原理もその基本は同様であり、世界の各地で採用された普遍的な方位観測法である。インデアン・サークル法ともよばれることがある。図 3?6 には奈良文化財研究所飛鳥資料館が示す同法のイラストを引用したのでわかりやすいかと思われる(奈良文化財研究所 2013)。
 このような太陽の影を利用した方位測定法が最も現実的かつ効果的であることはまちがいなく、原理自体は単純なので、日本列島の弥生・古墳時代にもこの方法が採用された可能性が高いと考えられる。さらに「表」に類した遺構としては、のちに具体的に検討することになるが、第 1 章で触れた吉野ヶ里遺跡北墳丘墓脇に立てられた大柱があり、平原遺跡で検出された 3 本の大柱がある。

〔北條芳隆/著『古墳の方位と太陽』 2017年05月30日 同成社/発行 (pp. 82-83)


 ◯ そこで引用されたもとのイラストは、奈良文化財研究所の『飛鳥・藤原京への道』に掲載されています。


『飛鳥・藤原京への道』

平成25年10月18日 印刷発行
発行者
独立行政法人国立文化財機構
奈良文化財研究所 飛鳥資料館


コラム2 古代の測量

 (p. 44)
 方位を求めるには、磁石(方位磁針)、太陽、北極星などを用いることが思い付きますが、このなかで有力なのが太陽なのです。その方法は、

① 適当な大きさの杭(「表」)を打ち立て、これを中心に円を描く。
②「表」の日影先端が円と交わる点を、午前と午後で求める。
③ 午前と午後の交点を結ぶと東西線が得られる。
④ 東西線の中点と「表」を結ぶと南北線が得られる。

 藤原京は、正方形の都城の中央に宮を置き、その周囲に南北と東西の直線道路を碁盤の目に交差させるという、中国の経書である『周礼』に記述される都城の理想型に基づいて設計されたと考えられています。まさしくその『周礼』に、この「表」を用いた太陽による方位決定法が記されているのです。ですから、少なくとも藤原京を計画する頃(飛鳥時代)には、この太陽と「表」の測量方法を知っていたはずだと考えることができるのです。
(黒坂貴裕 都城発掘調査部)

太陽と「表」による方位の測量(稲田登志子 画)
 


 と、いうわけで。これらの物語を読んで、古代の測量事情に興味をもった次第なのでした。
 それで《日時計》の作り方から始まって、最新のデジタル版《影の長さと方位》で、物語を終えようというわけなのです。
 次回はいよいよ、実際のデータを使った、《太陽位置図》に加え、《日影曲線》の作成と操作に移行する予定です。
 いまのところ《日影曲線》は、予定していた完全体に、まだ到達していないので、どうかうまくいきますように。

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