2019年2月16日土曜日

渡来神スクナビコナ: 夜見の粟嶋

◈ 昭和三十六年 (1961) に発行された『篠村史』に、加太の「淡島明神」の説明がある。

『篠村史』

 粟島神社

 篠村の西端、東西に白く走る国道の南側、大字浄法寺[じょうぼうじ]の小高いところに粟島神社がある。
 …………
 現在粟島と称する神社は、例えば群馬県邑楽郡佐貫の地、鳥取県米子市彦名の地、さらに、大分県南海部郡米水津の地にそれぞれ鎮座するが、これらはみな、共通してその祭神が少彦名神[すくなひこなのかみ]である。なかでも紀州粟島宮は和歌山県海草郡加太の式内社、加太神社にほかならない。そしてこの加太社の祭神も一説によれば少彦名神なのである。少彦名神は、別に少名毘古那・少日子根命・小比古尼命・少御神などとも称され、不思議な霊力をもった小子[ちいさご]の説話の系列に位置を占める神話の神であって、天[あめ]のかがみの船にのり、海のかなたから帰って来、大国主命と力をあわせて国土の経営に当たったといわれる。海からやって来たかれは、熊野御碕からふたたび常世[とこよ]のくにへ帰って行ったとも、また淡島より粟茎[あわがら]に弾かれて常世のくにへ渡って行ったともいう。これが淡島明神としてあがめられ、のち加太の地に遷されたというのである。……
〔『篠村史』(pp. 106-107)

◉ さて。天平五年 (733) の編纂と記録される出雲国風土記は「〔嶋根郡〕蜈蚣嶋」の記事に「逹伯耆國郡内夜見嶋(伯耆の国郡内の夜見の嶋に達るまで)」と伝えている。そんな風土記の時代には、伯耆の国の夜見嶋の南の海上に粟嶋(あはしま・あわしま)があり、粟嶋は、その後いつしか夜見嶋が伯耆国とつながって半島となった後も、島のままだった。―― のであるが、江戸時代のおそらく 1700 年代、新田開発の工事で陸続きとなって、幕末期に成立した『伯耆志』の《粟嶋村》の項では「産土神粟島大明神」の説明文冒頭に、「粟島山」として記述されている。

―― 鳥取県米子市彦名町1405の、その山頂に、スクナビコナを祀る〈粟嶋神社〉がある。

出雲国風土記の《粟嶋》・その他


◈ 出雲国風土記には、二ヵ所に《粟嶋》の記事がある(『古風土記並びに風土記逸文語句索引』(p. 87) 参照)。
〔風土記の引用に際しては、日本古典文学大系『風土記』(以下『大系本 風土記』と表記)を用いる。〕

 そのひとつは『大系本 風土記』の頭注に「安来市の対岸、米子市彦名の粟島の地。もと島であった。(p. 121) と記される「意宇郡」の《粟嶋》で、

粟嶋 〔椎・松・多年木・宇竹・眞前等の葛あり。〕(p. 121)

が、「意宇郡」の《粟嶋》の記事、全文の訓み下し文である。
 もう一ヶ所は、「嶋根郡」に属する、島根半島沿岸の島であることが確認できる。こちらの《粟嶋》には、その頭注に「黒島の西南方、青島(p. 145) とあり、さらにその特徴として記事本文中に、

粟嶋 周り二百八十歩、高さ一十丈なり。(p. 145)

と、「意宇郡」の《粟嶋》の記事にはなかった、具体的な大きさが添えられている。すると「意宇郡」の《粟嶋》は、それほどでもなかったのだろうか。―― とも、思われるのだけれど「意宇郡」の島々の記事でその高さが添えられているのは、実際のところ《粟嶋》の次に記述されている《砥神嶋》だけなのだ。具体的には、

砥神嶋 周り三里一百八十歩、高さ六十丈なり。(p. 121)

とあり、同じく『大系本 風土記』のその頭注には「安来港の東北突出部、十神山(九二・九米)の地。もと島であった。(p. 121) と説明されている。
 かたや出雲国風土記「嶋根郡」ではその 6 分の 1 程度の高さまでが記録されているというのは、これは出雲国のそれぞれの郡で、あるいはそれぞれの記録者で記録する基準が異なっていたためであるのか、それとも、出雲国風土記「意宇郡」の《粟嶋》を含む島々のほとんど全部は、まったくもって小さな島ばかりだったのか、いずれかであろうが、参考になりそうな記事として、出雲国風土記「意宇郡」の《蚊嶋》に、次の記述がある。

野代の海の中に蚊嶋あり。周り六十歩なり。(p. 123)

 いっぽう『新修 米子市史 第六巻』(p. 10) でも確認できるように、鳥取県の米子市で夜見ヶ浜の山となった《粟嶋》の標高は 36 メートルだった。
 以上の考察に加え、同じ名で呼ばれる島は、出雲国風土記「嶋根郡」の記事を追うだけでも複数存在することが確認できるので、そのことからも、上記「意宇郡」の《粟嶋》と、伯耆国風土記逸文の《粟嶋》が、その海上の同じ島をさしているとする解釈は、必ずしも妥当とはいえない、ということになる。まさにそのことを論じた研究者が、かつてあったのだ。
 そして新しくは 2003 年の『新修 米子市史 第一巻』(p. 501) でも、

国境が明確であった奈良時代に、伯耆と出雲の両国がそれぞれこの粟島の所属を主張していたとは考えられない。彦名町の粟島は『伯耆国風土記』逸文にあるように、伯耆国相見郡余戸里であった。

と結論づけられ、同様の主張が述べられているのだけれども、ここではこれ以上の考察は控える。それらの論稿のもう少し詳しい内容は、この文末に示すサイトに引用しているので、興味のある向きはそちらを参照されたい。

夜見ヶ浜半島 と 粟嶋


◎ ところで。夜見嶋が弓の形をした半島(夜見ヶ浜半島・弓ヶ浜半島)となったのは、歴史時代では、そもそもいつ頃なのか。―― ヒントとしては、『大山寺縁起』の「(十一段)大山と夜見ヶ浜、中海周辺の大景観。」(『企画展 はじまりの物語』(p.63) 参照)に、島根半島の北の海の上空から大山(だいせん)を望んだ絵があり、そこに半島の形状で弓ヶ浜が描かれている。

○ 原本は残っていないけれど『大山寺縁起』の絵を古い地形図として見れば、西暦 1300 年代、夜見嶋はすでに島ではなくなっていたことがわかる。

『企画展 はじまりの物語』

大山寺縁起〈模本〉 (東京国立博物館蔵)


 伯耆国大山寺の創建の経緯を描いた全十巻の絵巻。原本は、応永五年(一三九八)に前豊前入道了阿によって制作されたが、昭和三(一九二八)年に焼失。
〔鳥取県立博物館/編集・発行『企画展 はじまりの物語』(p. 58)

☞ C0047196 大山寺縁起_上巻(模本) - 東京国立博物館 画像検索

  (URL : https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0047196 )

米子(よなご); 米生郷(よなおうのさと)


倭名類聚鈔(わみょうるいじゅしょう)は、源順(みなもとのしたごう)が著した漢和辞書で、承平 (931~938) 年中、醍醐天皇の皇女勤子内親王の命によって撰進された。和名抄(わみょうしょう)もしくは倭名鈔は、その略称として一般に用いられている。
 その和名抄に当時の全国の地名が採録されているのだけれど〝伯耆國〟を見ると〝會見郡〟に、十二の郷(さと)が記される。

日下・細見・美濃・安曇・巨勢・蚊屋・天萬・千太・會見・星川・鴨部・半生

 これらの郷名のうち「半生」は「米生」の誤写であるとする説がある。半は米のくずれた形だったのだという。

米生(よなおう)については、短い記述ではあるが次の資料が参考となる。

米子市の農業

(URL : http://www.city.yonago.lg.jp/secure/7669/agridata18.pdf )
 「米子の地名は、稲作の米がよく実った地域でその昔「米生(よなおう)の里」と呼ばれ、またその後「米生の郷(よなおうのごう)」と呼ばれるようになり、この言葉の音がなまって変わったものが、現在の「米子(よなご)」という由来があります。」(佐々木古代文化研究室月報 1960・8・25 発刊資料から)
〔平成 19 年 3 月 米子市経済部農政課/編集発行『米子市の農業』(p. 1)

◈ 上記のごとく、一説に「米生郷」が「米子」の語源であるともいい、また上にも言及した、平成十五年 (2003) 年発行の『新修 米子市史 第一巻』(p. 501) においては「半生郷」について、《『和名類聚抄』の半生郷が米子市内にあったかつての「飯生村」が遺称地であるとすれば》という、仮説に基づく論が展開されている。


Google サイト で、本日、もう少し詳しい内容のものを公開しました。

渡来神スクナビコナ: 粟嶋・淡嶋(あはのしま)
https://sites.google.com/view/emergence2/tsuge/aha-shima

バックアップ・ページでは、パソコン用に見た目のわかりやすいレイアウトを工夫しています。

渡来神スクナビコナ: 夜見粟嶋 バックアップ・ページ
http://theendoftakechan.web.fc2.com/eII/tsurugi/aha-shima.html

2019年2月2日土曜日

オホクニヌシの帰還 : 夜見ヶ嶋

弓ヶ浜半島(夜見ヶ浜半島)[鳥取県]

◎ 夜見ヶ嶋が弓ヶ浜半島になっていく経過の研究に「弓ヶ浜半島の完新世における地形発達と海岸線変化」などがあるけど、中でもインターネットに公開されている資料として『地質ニュース』が参考となる。

地質ニュース 668 号, 29-40 頁, 2010 年 4 月

Chishitsu News no.668, p.29-40, April, 2010
(URL : https://www.gsj.jp/data/chishitsunews/2010_04_04.pdf )

砂と砂浜の地域誌 (23)

須藤定久「島根県東部の砂と砂浜 ― 弓ヶ浜から島根半島へ ―」

の 31 ページに「第 3 図 弓ヶ浜半島の形成過程。徳岡ほか (1990) の図を再構成し、一部加筆」とあり、

  1.  椿原京子・今泉俊文 (2003) :弓ヶ浜半島の完新世における地形発達と海岸線変化、山梨大学教育人間科学部紀要、5, 1, P.1-22.
  2.  徳岡隆夫・大西郁夫・高安克己・三梨昂 (1990) :中海・宍道湖の地史と環境変化、地質学論集、36, P.15?34.

等が、論稿の末尾に文献として挙げられている。31 ページに掲載された図の原論文は、国立国会図書館デジタルコレクションで一般公開されているので、そちらも全文を確認できる。

中海・宍道湖の地史と環境変化

(URL : http://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_10809875_po_ART0003485743.pdf?contentNo=1&alternativeNo= )

 その図によれば、「奈良時代(約 1,200 年前)」の弓ヶ浜は島の状態であった。つまりは西暦 700 年代、出雲国風土記が書かれたころのその場所は〝夜見の島〟だったと、推定されているのである。いうなればそこは〝弓ヶ浜〟ならぬ〝夜見ヶ嶋〟だったのだ。
 出雲国風土記には伯耆国の〈夜見嶋〉が「国引き神話」以外にも三ヶ所、合計で四ヶ所、記述されている。
 その〈夜見嶋〉の南にあたる海上に、スクナビコナの説話の伝承地でもある〈粟嶋〉があったのだけれど、江戸時代の干拓事業でその島も、そのころはすでに半島となっていた夜見ヶ浜とつながった。
 現在は鳥取県の米子市彦名町(よなごしひこなちょう)となっているその地に〈粟嶋神社〉がある。
 そして米子市夜見町として、いまも弓ヶ浜半島に〝夜見〟の名が残る。昭和 29 年まで「夜見村」という自治体名だったけれども、同年に米子市の「夜見町」となった。―― かつては、〝粟島村〟の北に〝夜見村〟があり、夜見村の北は〝美保湾〟に面していたとも、説明されたようだ。美保湾というのは、半島東側の湾曲部の海をいい、美保関とは異なる。現在島根県の美保関に対面している鳥取県の市町村は、境港市である。
 ちなみにというか「夜見ヶ浜(よみがはま)」の名称は、1970 年代の『新詳高等地図』〔帝国書院刊(帝国書院編集部編、文部省検定済)〕の「索引」に、記載がある。なぜかそこに「弓ヶ浜」の名はない。

◉ 鳥取県米子市彦名町の〈粟嶋神社〉に祀られるスクナビコナは、伝承では、そのあたりを起点として、常世の国へと旅立った。出雲国風土記にも「粟嶋」の記述は複数個所ある。が、スクナビコナは、〈須久奈比古命〉の名でだた一度しか登場しない。そしてその類話は〈少日子根命〉の名で播磨国風土記にも収録されている。
 中央の神話として採録された形に近い〝スクナビコナの物語〟が、伯耆国風土記の逸文として『釈日本紀』に引用されていることは有名だ。伯耆国風土記逸文のスクナビコナは、自分の蒔いた粟の実りに弾かれて、「粟嶋」から〝常世の国〟に去った。日本書紀では、スクナビコナが常世に渡った場所は「淡嶋(あはのしま)」と記録されている。

―― ところで、出雲国風土記「神門郡」に登場するワカスセリヒメは、古事記のスセリビメと同じく、スサノヲの子として描かれている。

○ 古事記はスセリビメをオホクニヌシの正妻として位置づけるが、その直後に語られた物語で、高志の国のヌナカハヒメが登場するのである。スセリビメとオホクニヌシが、根の国から脱出するまでの、古事記の展開を次にみていこう。

The End of Takechan

黄泉比良坂(よもつひらさか)を通って生還する


 さてオホナムヂとも称されるオホクニヌシは、八十神の迫害を避けて、おそらくは伯耆の国の大山(だいせん)山麓から、木の国(紀伊国)へと脱出した。そこからさらに、追ってきた八十神を振り切るため、神話版・異次元装置のような「木の俣(きのまた)」をくぐり抜けてスサノヲの棲む根の国へと向かい、そこでまたまたさらなる種々の試練を受ける羽目となる。
 その揚句に、あろうことか根の国でのそれらの試練を乗り越える最大の協力者となったスサノヲの娘スセリビメを背にかつぎかっさらって、とっとと根の国から逃走している最中。―― 追い迫ったスサノヲにスセリビメを正妻とするよう宣告を受け、その前提の承認として、「爲大國主神」とも告げられたのは、すなわちスサノヲから「オホクニヌシとなれ!」とエールを送られた形だ。
 ようするに、オホクニヌシというのは、スサノヲから与えられた名でもあるのだ。
―― ここで余談程度の付記ではあるが。以下の『大系本 古事記』引用文中に原文を示すけれど、スサノヲが最初の邂逅シーンで「此は葦原色許男と謂ふぞ」といい、ヨモツヒラサカ付近で遠望して「オホクニヌシとなれ!」と〔絵的には拳を振りかざしつつ〕呼ばわったその最後に、ののしって「是奴也(是の奴・このやつこ)」といったのは、物語の流れから見るに、スサノヲ出し抜き試練をクリアしたばかりでなく娘を遠く連れ去るクソヤロウに対して、精一杯の感情の吐露であろうから、現代日本語で意訳すれば、賛辞としての「このスットコドッコイ!!」というようなあたりか。

 この一連の神話で、スセリビメは、オホクニヌシがスサノヲから与えられた試練を克服するための協力者として描かれているのだけれど、そういえばヤマタノヲロチの神話でも、スサノヲの妻となったクシナダヒメも櫛に変化(へんげ)して、神話の解釈としてはどうやらスサノヲの戦闘能力ないしは霊力を加護した形となっていた。
 そしてオホクニヌシの協力者といえば、根の国から生還したオホクニヌシの国づくりのための新たな協力者として、しばしスクナビコナが登場する次第となる。

○ かくして根の国から帰還する際、オホクニヌシは〈黄泉比良坂〉を通過した。その坂の名は、現在島根県松江市の東出雲町揖屋に残されている。そして今では伯耆の国と地続きとなった、夜見嶋(夜見ヶ浜・弓ヶ浜)に近い、鳥取県西伯郡大山町の唐王(とうのう)725にスセリビメを祀る〈唐王・松籬神社〉がある。口碑等による伝承では、「唐王神社(とうのうじんじゃ)」境内に、夜見の国からこの地に鎮座したスセリビメの御陵があるとする。

The End of Takechan

――『大山町誌』にある「唐王松籬神社」の記述をここに記録しておこう。

唐王松籬神社 (大山町唐王字村屋敷七二五番地)

祭 神 須勢理毘売命、菅原道眞命
例祭日 四月二十五日  氏子部落 唐王
由 緒 創立年月は不詳、須勢理毘売命は昔から唐王御前神といい、庶民の信仰が深く、他に異なった古い神社である。神社の言い伝えによれば、須勢理毘売命は大国主大神と共に夜見の国から帰り、土地を引きよせて、農事を開発し、医療の道を広めて患者を救い、神呪の法をもって世を治められ、その功績は大変大きなものであった。
 大国主大神はながく日隅宮(出雲大社)に鎮座され、須勢理毘売命はこの地に鎮座されたといい、古くは毎年出雲大社から祭官が参向されたということである。字御前畑という所の西側に、井屋敷という御手洗の井泉がある。今、民家の邸内になっているが、汚れのある者がこの水をくむと、すぐ濁り、社前の砂を投げ入れて清めると、自然に清水になるという。また、この神井の水はどんな干ばつにも乾いたことがなく、毒虫にさされたときには、いち早くこの神水を塗るとすぐ治ると言われている。
 したがって、神験もあらたかで、害虫、毒虫、まむしよけの守護神として、人々は玉垣内の砂をいただいて帰り、田畑にまいて害虫よけ、家屋敷にまいて毒虫よけにしている。
 この地は、須勢理毘売命を葬ったところと伝えられ、本殿の下に一間四方余りの玉垣があり、その中に高さ五尺ばかりの古い石碑がある。菅原道眞命は元一宮神社の摂社であったが、明治元年十月神社改正のとき、唐王神社の境内に移転し、松籬神社と言っていたのを明治四十二年、唐王神社に合祀された唐王松籬神社となった。
〔『大山町誌』(pp. 986-987)


▲ 上記引用文の農事を開発し、医療の道を広めて患者を救い、神呪の法をもって世を治められというスセリビメにかかわる記述は、日本書紀の一書に語られた、オホクニヌシとスクナビコナが国造りに際して行なった共同作業の内容に近い。―― 訓み下し文で、以下に採録する。

夫の大己貴命と、少彦名命と、力を戮せ心を一にして、天下を経営る。
復顕見蒼生及び畜産の為は、其の病を療むる方を定む。
又、鳥獣・昆虫の災異を攘はむが為は、其の禁厭むる法を定む。
是を以て、百姓、今に至るまでに、咸に恩頼を蒙れり。
嘗、大己貴命、少彦名命に謂りて曰はく、「吾等が所造る国、豈善く成せりと謂はむや」とのたまふ。
少彦名命対へて曰はく、「或は成せる所も有り。或は成らざるところも有り」とのたまふ。
是の談、蓋し幽深き致有らし。
其の後に、少彦名命、行きて熊野の御碕に至りて、遂に常世郷に適しぬ。
亦曰はく、淡嶋に至りて、粟茎に縁りしかば、弾かれ渡りまして常世郷に至りましきといふ。
自後、国の中に未だ成らざる所をば、大己貴神、独能く巡り造る。

(かのおほあなむちのみことと、すくなびこなのみことと、ちからをあはせこころをひとつにして、あめのしたをつくる。
またうつしきあをひとくさおよびけもののためは、そのやまひををさむるみちをさだむ。
また、とりけだもの・はふむしのわざはひをはらはむがためは、そのまじなひやむるのりをさだむ。
ここをもて、おほみたから、いまにいたるまでに、ことごとくにみたまのふゆをかがふれり。
むかし、おほあなむちのみこと、すくなびこなのみことにかたりてのたまはく、「われらがつくれるくに、あによくなせりといはむや」とのたまふ。
すくなびこなのみことこたへてのたまはく、「あるはなせるところもあり。あるはならざるところもあり」とのたまふ。
このものかたりごと、けだしふかきむねあらし。
そののちに、すくなびこなのみこと、ゆきてくまののみさきにいたりて、つひにとこよのくににいでましぬ。
またいはく、あはのしまにいたりて、あはがらにのぼりしかば、はじかれわたりましてとこよのくににいたりましきといふ。これよりのち、くにのなかにいまだならざるところをば、おほあなむちのかみ、ひとりよくめぐりつくる。)
〔岩波文庫『日本書紀』(一)(pp. 102-104)、日本古典文学大系『日本書紀 上』(pp. 128-129)

 この箇所の叙述は印象に残るものがある。日本書紀の記録者の想いはどのようであったろうか。
―― 昔、オホナムチがスクナビコナに訊いたという。
「なあ、俺たちうまくやれたかなあ」
「さあて。うまくやれたこともありゃ、そうでもないところもあるだろうさ。それなりには、せいいっぱいやったさ」と、そう応えたあと、いつかスクナビコナは、常世の国に去った。

▽ スサノヲは、日本書紀の一書に新羅を経由した渡来神のように描かれていた。またその子イタケルは「釈日本紀」で〈伊太祁曾神(イタキソノカミ)〉に同一だという説が示されており、江戸中期の新井白石も同様に語っている。

 すなわち、五十猛神(いたけるのかみ)は、『釈日本紀』に「先師說曰。伊太祁曾神者。五十猛神也。」とある。
 同じく、新井白石の書に「按ずるに五十猛讀でイタケといふべし神名式出雲國の韓國伊太氐[カラクニイタテ]神社紀伊國の伊太祁曾[イタキソ]神社並に皆此神を祭れる也 イタケ。イタテ。イタキ。皆是一聲の轉ぜし也。」と、述べられている。

 出雲国風土記には明記されてないけれど、渡来神である〈イタテ〉の神も、「延喜式」を見れば丹波国などでは〝伊達神社〟その他の表記が用いられ、また出雲国には〝韓国伊太氐神社〟として複数の記載がある。

◎ 草木の種を日本に伝えたあと紀伊国に鎮座したイタケルは渡来神〈伊太氐〉の神に通じ、またいっぽうで、スサノヲの娘にしてオホクニヌシの妻スセリビメに、〈唐王御前〉の名が伝承される。
―― 伯耆の国と出雲の国が交差する地点には、新羅の国ばかりでなく、高句麗の文化につながる遺跡も多い。
 〈孝霊山〉は〈高麗山〉なのだともいう。


Google サイト で、本日、もう少し詳しい内容のものを公開しました。

オホクニヌシの帰還 : 夜見嶋(よみのしま)
https://sites.google.com/view/emergence2/tsuge/yomi-shima

バックアップ・ページでは、パソコン用に見た目のわかりやすいレイアウトを工夫しています。

オホクニヌシの帰還 / 夜見ヶ嶋 バックアップ・ページ
http://theendoftakechan.web.fc2.com/eII/tsurugi/yomi-shima.html

2019年1月18日金曜日

神魂の神 / 赤猪の神話

◎ 鳥取県の大山(だいせん)の火山活動が、コンパクトにまとめられた一節に、約 3000 年前の溶岩の記述がある。

『鳥取県農業と土壌肥料』

 Ⅱ 鳥取県の自然と土壌

1. 気候、地形、地質(元鳥取大学農学部 飯村康二)
 現在最も古い溶岩として側火山の鍔抜山で 0.96 ± 0.03 Ma という K-Ar 年代が得られており、同じく側火山の孝霊山では 0.30 ± 0.03 Ma が得られている。また最も新しいとされる弥山火砕流中の炭化木片について 17.2 ± 0.2 千年前という 14 C 年代が得られている。
〔鳥取県土壌肥料研究会/発行『鳥取県農業と土壌肥料』(p. 16)

―― 国立研究開発法人産業技術総合研究所「地質調査総合センター (GSJ)」の公式ページ
日本の火山(https://gbank.gsj.jp/volcano/) 内の  volcano ― Daisen
にも、およそ 3000 年前とされている火砕流噴火の記録が補足事項として掲載されている。

火山の概要・補足事項:
奥野・井上(2012、連合大会予稿集)によって、約3000年前の火砕流噴火(噴出火口は烏ヶ山と弥山の中間付近か?)が指摘されている。
(URL : https://gbank.gsj.jp/volcano/Quat_Vol/volcano_data/H17.html )


○ 上記報告の記録に、PDF で一般公開されている内容があるので、そこから抜粋すれば次のごとくとなる。

Japan Geoscience Union Meeting 2012
(May 20-25 2012 at Makuhari, Chiba, Japan)

大山火山の完新世噴火
Holocene Eruptions in Daisen Volcano, Western Japan
奥野充、井上剛(福岡大学理学部)
 …………
地点 1 の炭化木片から 3110 ± 60 BP が、地点 2 の火山灰層直下の土壌からは 3290 ± 40 BP の 14 C 年代が得られた。両者の年代値はほぼ一致しており、火砕流とその降下テフラであると考えられる。この火砕物の給源は、火砕流地形の分布から烏ケ山と弥山の中間付近である可能性が高い。なお、本研究の AMS 14 C 年代の測定は、(独)日本原子力研究開発機構の施設供用制度を利用したものである。
(URL : http://www2.jpgu.org/meeting/2012/session/PDF_all/S-VC53/SVC53_all.pdf )

◎ この〝約 3000 年前とされている大山の火砕物〟は、人類の記憶として刻まれているのだろうか?

The End of Takechan

いわゆる〝赤猪の神話〟の物語が、古事記に記録されている。
 この〝赤猪の神話〟がテーマとなった、青木繁の作品「大穴牟知命」(石橋美術館蔵、1905 年)のことは、前回の最後にも触れた。

 この神話でオホクニヌシの名は、オホナムヂと記されているのだけれど、八十神の下っ端扱いを受けていた彼はその直前の物語〝因幡の白兎〟の展開で、八十神の怒りを買うこととなった。そして〝赤猪の神話〟で八十神はオホナムヂの抹殺をたくらみ、赤く焼けた大石を大山のふもとに落としてそれをオホナムヂに受けとめさせ殺害に成功するのである、が ……。ところがどっこい、さすがは神話の世界! 母神の要請を受けた天上の介入によりオホナムヂはたちどころに生き返ってしまうのだった。
 すっとこどっこいとばかりにその後もオホナムヂは八十神に殺されては生き返りを繰り返したあげく、こともあろうについには生きたまま根の国に逃亡することとなる。
―― そのオホナムヂ最初の復活劇に絡むのが、カミムスヒに派遣されたキサガヒヒメとウムギヒメなのだ。

○ 出雲国風土記に描かれた〈神魂命〉の子〈支佐加比売命〉と〈宇武加比売命〉の説話をこれも、前回に確認した〔「出雲国風土記」嶋根郡(加賀郷・ 法吉郷)参照〕。カミムスヒは、カモスの神と同一であるとされているのだけれども、古事記では、それらの神々は上記のシーンに登場することとなる。

○ 伯耆大山の地元鳥取県内の自治体から 1975 年に発行された『西伯町誌』に〝赤猪の神話〟の項があり、その記述内容の一部には『伯耆志』からの引用文がある。
――『伯耆志』は幕末の頃に書かれた地誌である。なお安政五年 (1858) の完成であるともいわれる『伯耆志』の編集者、景山粛(字は雍卿・号は仙嶽・通称は立碩)は、安永三年 (1774) に生まれ、文久二年 (1862) に没したと伝えられる。

『西伯町誌』

第二編 歴史「第一章 原始・古代の社会」

赤猪の神話  神話は事実そのものではない、郷土の神話には古事記と旧事本紀に取りあげられた「手間の赤猪」があり、その内容は史実そのものではない。しかしそれは全然仮空といってよいものか、解釈はどうあろうとも古事記などには「そのように書かねばならない」理由があり素材があったとみねばならない。又古事記の編集された奈良時代以前にその素材ができていたことも疑いない。その上赤猪神話の場が「伯耆国の手間の山本」とあることにも注目せねばならぬ。八世紀以前に郷土に「書かねばならぬ理由と素材」のあったことも無視できない。手間とはいうまでもなく隣町会見町の旧郷名であり、赤猪神話の伝承地が本町の清水川にもあることは重視せねばならぬ。
…………
 (清水川の伝説)伯耆志に次のようにかいているから幕末にも伝説はのこっていたとみていい。

 「清水川村、おば御前、社はないが村の中の山につゞいた小さな林の名である。昔は社もあったか、「きさがいひめ」「うむがいひめ」を祭るという伝説は次のようである、泉があるがそれはおば御前の隣で人家に近く、周り五間ばかりの浅い井である。上に椋の木ありこの村の名はこの泉によってできた。土地の人々の話では「きさがいひめ」「うむがひめ」が「おおなむちのみこと」を蘇生させ給いし時あの貝の粉を此水に和して塗られたという。この話を知らないものも名水とたたえるのはもともと神話の地だからである。水の色が少し白味をおびていて蛤水に似ている。この話は古事記にある。一説ではこの水でねったのでなく蛤の水の余りを捨てたのがこゝの井だという。百日の旱魃にもかれることがない、その故に隣に「おばごぜん」を祭るのである。ああ、一掬してみると大古の事がしのばれる。美しく、不思議なことであるのに、村民は便利にまかせて洗いものに使っている歎げかわしい」と。
〔『西伯町誌』(pp. 48-49)

◎ この伝承が〝約 3000 年前とされている大山の火砕物〟の、人類の記憶であるとしても、検証は不可能だ。

The End of Takechan

〈カモス〉と〈ヘモス〉


 出雲の〈カモス〉を含めて朝鮮語の日本語への影響はさまざまな文献で指摘されている。
 次に見る全浩天氏の『キトラ古墳とその時代』は、〝朝鮮半島と古代出雲〟の関係性について「高句麗と新羅の東海に開かれた古代出雲の表玄関である美保関」とも述べられているのだけれど、〝神魂神社とカモス神〟について考察された個所を今回、ここで引用しておきたい。

○ 日本語の〝〟は朝鮮語の〝カムカル〟と音韻が通じるのだし、また日本語の〝〟は朝鮮語の〝コモ〟であったのだろう。このことと、当時は〈カモス〉と訓まれていた「解慕漱」の語の、朝鮮半島での現在の発音が〈ヘモス〉に変化したのだとする説は、矛盾しない。これも有力な仮説のひとつと思われる。

『キトラ古墳とその時代』

Ⅴ 古代出雲と妻木晩田遺跡
 3 古代出雲にみる朝鮮文化の重層 ―― 高句麗と新羅関係を中心にして ――

 一 神魂神社とカモス神
 古代出雲における新羅と高句麗文化の累積・重層化をさぐるために、出雲東部の意宇郡・大庭にある神魂[かもす]神社とカモス神を従来の理解から離れて検証する必要がある。というは、高句麗からの神話・信仰を基底に敷くものと解釈するからである。
 神魂神社のカモス神については、これまでさまざまな見解が加えられてきたが、そのカモス神とは一体何であるのだろうか。
 神魂神を『古事記』では神産巣日[かみむすび]神、『書紀』では神皇産霊尊としてカミムスビと仮名をふって訓[よ]んでいるが、神魂神のカモスはカモスであって他にならないはずである。
 門脇禎二氏は、このカモス神の「カモスの称が残りつづけたのは、朝鮮に発したコモスの始祖霊信仰によるとみられる(1)」と興味深い理解の仕方をしめしている。能登の珠洲市に式内社として登記された古麻志比古[こましひこ]神社がある。この神社については、神社名の古麻志比古から高麗(コマ)・魂(シ)・彦とみて、高句麗系渡来人の神社とみる解釈があった。
 ところが門脇氏は、古麻志比古神社の本来の祭神は、日子座王[ひこますおう]命であるから、祭神じたいをより重視すれば問題が残ってくるとして、「古麻志のコマは、コモ(熊)が呪術と修業によって天神の子を生むという朝鮮の平壌地方にあった呪術的な民間信仰のひとつでコモ(熊)・ス(霊)であった」という説をとりいれ、このコモ・スが神魂(カモス)信仰として出雲神話にみえるカモス信仰へと発達し、こうした始祖霊信仰が、つぎの始祖的人格信仰の前提、例えば彦坐王信仰になると解釈した。つまり、能登の古麻志比古神社の原像や出雲の神魂神社の原像を、「朝鮮の土着的な呪術信仰」にもとづくカモス(シ)信仰に求めたのであった。
 筆者はカモス神と神魂神社の原像を「朝鮮の土着的な呪術信仰」に求めるのではなく、すでに修飾化され、人間化された始祖的な人格信仰として、高句麗建国神話に登場してくる天帝の子・解慕漱(朝鮮語ではヘモス)から由来していると解釈している。解慕漱[ヘモス]とは言うまでもなく『旧三国史』や『三国史記』が伝えているように河伯の娘・柳花と結ばれた「天帝子」である。その天帝の子が高句麗始祖王の朱蒙である。
 『三国史記(2)』と『三国遺事(3)』が記載している解慕漱の解(ヘ)の古い読みは「カ」であるから、古代朝鮮語のように読めば解慕漱=カモスである。このカモスが出雲の神魂神社のカモス神の原像であると考える。
 柳烈氏は『三国時代の吏読についての研究』において『三国史記』と『三国遺事』に記載された解慕漱の解(ヘ)についてふれ、「『解[ヘ]』字の『ヘ』は、古い形態である『解[カ]』字の『カ』の音韻変化である(4)」と指摘している。
 このようにカモス神を理解すれば、出雲のカモス神と同時に、能登の古麻志比古神社の原像もふくめて高句麗的性格が解明されるのではないだろうか。
 カモス神は出雲国の本拠地である意宇の地にあって、この地の「土着信仰のカモス神」として根強かったが、本来の姿は高句麗渡来のカモス神であった。ところで意宇平野の元来の地主神・農業神は熊野大神であったが、出雲東部の政治経済的発展にともなって、より政治的なカモス神として生みだされていったものと思われる。門脇禎二氏が指摘しているように、畿内大和朝廷による出雲最初の支配者、すなわち最初の国司である忌部首小首[いんべのおびとこおびと]が、自らの祖先神とカモス神を結びつけて崇拝したものと思われる。こうして神魂神社は出雲国造の館におかれるようになった。
 カモス神が高句麗神話から創出された出雲在地の信仰であるとすれば、当然のことながら、それをもたらした高句麗からの直接の渡来か、出雲と朝鮮、この場合は日本海を介しての対岸交流の結果によるものであろう。この高句麗からの渡来と交流をより直截的に証しうるのは、考古学上の遺物・遺跡であろう。
 この点で注目されるのは、出雲意宇の東部の安来平野であるが、この地域の横穴古墳から「高麗剣」とよばれる双竜環頭大刀などが出土して高句麗系移民の来着をうかがわせる。

(1) 門脇禎二『日本海域の古代史』 東京大学出版会 一〇一~二頁。
(2) 『三国史記』巻一三 高句麗本紀 『始祖東明聖王 姓高氏 諱朱蒙』「自称天帝子解慕漱」。
(3) 『三国遺事』紀異第一 古朝鮮「以唐高即位五十年庚寅」紀異第二 高句麗「解慕漱私洞伯之女而後産朱蒙」。
(4) 柳烈『三国時代の吏読について』平壌 科学・百科事典出版社 二〇九~一〇頁。
〔全浩天/著『キトラ古墳とその時代』(pp. 223-225)


 次回は、〝カガミの舟に乗って〟やって来たという、スクナビコナの記録を参照する予定なのだが、古事記でスクナビコナは、カミムスヒの子とされている。
 食物の種を蒔き歩くスクナビコナは、各地の風土記にも多数の記録が残されている。―― スクナビコナのこの全国的展開はすなわち古事記の伝によれば、親が回収した〝五穀の種〟を、子が蒔くというシチュエーションなのであるが、ただしそれとは異なって、日本書紀ではスクナビコナはタカミムスヒの子と伝承される。
 一般に、カミムスヒは出雲系の神話に登場するので出雲神話の神とみなされているのだけれど、いっぽうでタカミムスヒは出雲系の神話以降もしばしば描かれており継続して天神の中心的役割が与えられるという、それぞれの立場の相違がある。

 スクナビコナを、古事記がカミムスヒの子としたのも、日本書紀がタカミムスヒの子としたのも、いずれもそれなりの理由に基づいて記録されたに違いないとは推察できるけれども、さてどのような事情が絡んでいたのだろうか、もはや、知るすべはないようだ。


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神魂(カモス)の神 / 赤猪の神話
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2019年1月9日水曜日

加賀の郷 / 三穂の埼

―― 日本海文化の交流という視点から
 古代の出雲と高志(越の国)とは文化的な交流があったことが「出雲国風土記」から読み取ることができた
「トリカミの峰 / ヒノカハの上」のページ 参照 )
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 特記すべき事項として「出雲国風土記」の嶋根郡には、天の下造らしし大神の命、高志の國に坐す神、意支都久辰爲命のみ子、俾都久辰爲命のみ子、奴奈宜波比賣命にみ娶ひまして、産みましし神、御穗須須美命、是の神坐す。故、美保といふ。の記述が見える。

 この「出雲国風土記」の記述は、古事記にある「此の八千矛の神、高志の國の沼河比賣を婚はむとして」云々の、原形となった説話であろうと思われる。

○ 八千戈神(やちほこのかみ:大国主神すなわち大穴持命)が、〈高志國之沼河比賣〉に言い寄るシーンが、古事記に描かれていた。日本古典文学大系 1『古事記 祝詞』によって原文を改めて確認しよう。

「大国主神 4 沼河比売求婚」

[原文]
 此八千矛神、將婚高志國之沼河比賣、幸行之時、到其沼河比賣之家、歌曰、
[訓み下し文]
 此の八千矛の神、高志の國の沼河比賣を婚はむとして、幸行でましし時、其の沼河比賣の家に到りて、歌ひたまひしく、
(このやちほこのかみ、こしのくにのぬなかはひめをよばはむとして、いでまししとき、そのぬなかはひめのいえにいたりて、うたひたまひしく、)
〔日本古典文学大系 1『古事記 祝詞』 (pp. 100-101)

○ 一方で、出雲国風土記の嶋根郡の地名起源譚で語られていたのは、次の内容だった。

「出雲國風土記」嶋根郡

[原文]
 美保鄕 郡家正東廾七里一百六十四歩 所造天下大神命 娶高志國坐神 意支都久辰爲命子 俾都久辰爲命子 奴奈宜波比賣命而 令産神 御穗須須美命 是神坐矣 故云美保
[訓み下し文]
 美保の鄕 郡家の正東廾七里一百六十四歩なり。天の下造らしし大神の命、高志の國に坐す神、意支都久辰爲命のみ子、俾都久辰爲命のみ子、奴奈宜波比賣命にみ娶ひまして、産みましし神、御穂須須美命、是の神坐す。故、美保といふ。
(みほのさと こほりのみやけのまひむがし27さと164あしなり。あめのしたつくらししおほかみのみこと、こしのくににいますかみ、おきつくしゐのみことのみこ、へつくしゐのみことのみこ、ぬながはひめのみことにみあひまして、うみまししかみ、みほすすみのみこと、このかみいます。かれ、みほといふ。)
(頭注)
美保鄕 島根半島の最東部。美保関町、森山附近以東にあたるのであろう。
意支都久辰爲命 クシヰはクシビ(霊)の音訛か。遠(おきつ)近(へつ)に分けて父子の二神の名としたもの。
奴奈宜波比賣命 古事記に大国主命が婚した越の沼河比売とある女神に同じ。
御穂須須美命 下の美保社に鎮座。
〔日本古典文学大系 2『風土記』 (pp. 126-127)

◎ 美保神社ゆかりの美保関(みほのせき)近辺の地名譚には、さらに注目すべき記述がある。


「出雲國風土記」嶋根郡 : 加賀鄕 / 法吉鄕


加賀の鄕 郡家の北西のかた廾四里一百六十歩なり。佐太の大神の生れまししところなり。御祖、神魂命の御子、支佐加比賣命、「闇き岩屋なるかも」と詔りたまひて、金弓もちて射給ふ時に、光加加明きき。故、加加といふ。〔神龜三年、字を加賀と改む。〕
(かがのさと こほりのみやけのいぬゐのかた24さと160あしなり。さだのおほかみのあれまししところなり。みおや、かむむすびのみことのみこ、きさかひめのみこと、「くらきいはやなるかも」とのりたまひて、かなゆみもちていたまふときに、ひかりかがやきき。かれ、かがといふ。〔じんきさんねん、じをかがとあらたむ。〕)

法吉の鄕 郡家の正西一十四里二百卅歩なり。神魂命の御子、宇武加比賣命、法吉鳥と化りて飛び度り、此處に靜まり坐しき。故、法吉といふ。
(ほほきのさと こほりのみやけのまにし14さと230あしなり。かむむすびのみことのみこ、うむかひめのみこと、ほほきどりとなりてとびわたり、ここにしづまりましき。かれ、ほほきといふ。)
〔日本古典文学大系 2『風土記』 (pp. 126-129)

―― ここに、訓み下し文を抜粋した個所は〈神魂命〉の子、〈支佐加比売命〉〈宇武加比売命〉の説話である。これらの神々は、古事記の物語の一部にも組み込まれているのだが、説話の成立としては、古事記よりも出雲国風土記のほうが先ではないかと予想される。なぜなら、推察するに、地方の文献があえて中央で語られた内容と異なるシチュエーションで神々を語るというのは、古来それぞれの土地に伝承されてきた神話そのものだったからなのだろう。土地の伝承を語るうえで、中央政府の都合に迎合する理由がなかったからだと思われるのである。

 ところで、

『出雲国風土記註論』(嶋根郡・巻末条)

では、

 まだ一例に過ぎないがかつてこの地域を「みほ」ではなく「副良」と呼んでいた事実は重要である。…… どちらにしても注目すべきは「みほ」の地名が前面に登場したことである。そこに『古事記』『日本書紀』の大国主神の国造り、国譲り神話の影響を読み取ることが出来る。
〔関和彦/執筆『出雲国風土記註論』(嶋根郡・巻末条) (p. 15)

と逆向きの影響が語られているけれど、この影響というのは、いつの時代に発生した影響なのであろうか。考察のヒントとしては、その直前の説明において、

 『出雲国風土記』が「今も前に依りて用ゐる」としたのは『播磨国風土記』が言及する「庚寅年(六九〇年)」における郷名変更を意識したものであろう。すなわち「美保郷」の古名は藤原京時代の六九〇年までは「副良里」であり、同年に「美保里」と改名され『出雲国風土記』編纂段階では「前に依り」、「美保」の名を継承したというのである。
〔関和彦/執筆『出雲国風土記註論』(嶋根郡・巻末条) (p. 13) 〕

と、されているのが参考となろう。690 年には古事記 (712) も日本書紀 (720) も、成立していないことは明らかで、藤原京時代の 690 年に「美保里」と改名された当時には、古事記と日本書紀の影響を受けていないことは、歴史時間を考えれば明白なのである。可能性として、その後に古事記と日本書紀に記録されることとなった神話の影響は、それ以前にあったかも知れないけれども。―― さらには。出雲国風土記が中央政府をおもんばかって朝鮮半島との関係性(親和性)を前面に出していないという説は、各種文献で説得力をもって語られているけれども。
 関和彦氏により『出雲国風土記註論』で論じられた解釈では、出雲国風土記が中央の神話の影響を受けて、その土地に伝承されてきた神話の地名を安易に改竄したということになってしまう。

 国引き神話で國來々々と引き來縫へる國は、三穗の埼なりと、高らかに宣言されているではないか。
 この神話が、中央政府の影響を受けた結果だとする説には、賛同できかねる。

堅め立てし加志は、伯耆の國なる火神岳、是なり。


 鳥取県内、伯耆大山の山麓が舞台となって展開する古事記に記録された物語は、〝赤猪の神話〟として絵本にもなっているけれども、有名なところでは、日本神話をテーマとした洋画家青木繁の作品「大穴牟知命」(石橋美術館蔵、1905 年)がある。


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加賀の郷 / 三穂の埼
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2018年12月27日木曜日

穴師塚は 横枕火葬墓群の 約 600 メートル西にある

 夏ごろに検討を開始してもはや年末なのだけれど、「穴師塚」の場所について推定座標の決着をつけたい。
 まず地名辞書にも出てくる「穴師山」なのだがこれは「巻向山」なのだと、書いてある。

『角川日本地名大辞典』 29 奈良県

 あなしじんじゃ 穴師神社〈桜井市〉

桜井市穴師字宮浦にある神社。旧県社。当社は「延喜式」の神名上に見える穴師坐兵主神社・穴師大兵主神社・巻向坐若御魂神社の 3 社を合祀したもので、穴師神社はその総称である。当社はもと上社と下社に分かれ、下社が穴師大兵主神社で現在地に鎮座、上社は穴師坐兵主神社で巻向山中にあったが、応仁の乱の頃に焼失したので、御神体を下社に合祀し、同時に同じく山中に鎮座していた巻向坐若御魂神社も下社に合祀されたという(穴師坐兵主神社明細帳・大和志料)。現社殿 3 棟の中央社殿が穴師坐兵主神社、左殿が穴師大兵主神社、右殿が巻向坐若御魂神社。穴師坐兵主神社はもと巻向山(穴師山)にあり、垂仁天皇 2 年に鎮祭されたと伝える(穴師坐兵主神社明細帳)。……
〔『角川日本地名大辞典』 29 奈良県 (p. 96)

 この穴師山とは、現在は三角点が設定されている〈基準点名「穴師」標高 409m 地点〉と推定される。また、同じく巻向山中にあり応仁の乱の頃に焼失したと伝えられる巻向坐若御魂神社のかつての所在地は、小川光三氏の『大和の原像』に記された、穴師塚のある場所なのであろうと思われるのである。
 小川光三氏の『大和の原像』の 127 ページに、こう記述されている。

 このあたりには、現在大兵主神社に合祀されている「若御魂[わかみむすび]神社」があったという伝承がある。

―― 小川氏がその伝承に基づいて現地を歩き、そして地元のひとびとに取材した記録が、続いて次のようにつづられている。

 以前に面識のあった元区長の N 氏を訪れると、私の目差すあたりの山中に詳しいという T 翁を紹介された。幸い在宅中の翁は突然の申し出に快く応じて、座敷に広げた地図に私が指差す地点をしばらく見守っていたが、「ふうん、横枕[よこまくら]の先の方やと穴師塚やな」。低いがはっきりした声でそう言い切った。地図を覗き込んでいた同行の O 君が、思わずニヤッとして私の顔を見上げたが、私は期待していた言葉とはいえ、こうはっきりと開かされると思わずハッとして翁の口元を見詰めた。しばらくして再び口を開いた翁は、この山の南山麓に「都谷[みやこだに]」の地名がありこれは穴師社のあったことに由来すること、そこに小祠があってこの山の方角を拝むようになっていたこと、元檜原は都谷のあたりらしいこと、更にこの山の東方約六百メートルに横枕という所があり、ここから石帯・和同開珎のつまった壺、そのほか多数の土器類・骨壺等が出土したことなどをゆっくりした口調で話してくれた。これで B 点には穴師上社(兵主神社)の父神という若御魂社があったらしいことがほぼ明らかにすることが出来たわけだが、考えてみると、御食津神の父神という伝承はまことに奇妙ではないか。これが何を意味し、何に由来するのかという手がかりは全く無く、大兵主神社にその伝承について尋ねてみたが、ただそのように伝えられているというのみで、古文書がすべて散逸した今は詳しいことがわからぬとのことであった。父神というのは、新宮[にいみや]に対する本宮[もとみや]の意味なのか、単なる奥の院的なものなのかは不明である。だが、もし前者の意味があるとすれば、この上の郷一帯に注目する必要がある。
〔小川光三/著『大和の原像』 (pp. 128-130)


―― さてこの内容から推定される座標を記録しておこう。東から、次の通り。

横枕火葬墓群」標高 500.5 m 地点 (34.556720, 135.884930 )
巻向坐若御魂神社跡穴師塚」標高 500.0 m 地点 (34.556459, 135.877737)

穴師山と思われる山頂は、基準点名「穴師」標高 409m 地点 (34.548149, 135.867378 )

である。これらの所在地が、以前(2018年7月23日月曜日)に検討した「箸墓古墳」と「天神社」および「天神山」とを結んだ〝ほぼ直角三角形〟とどのような位置関係にあるのかも、以下に書いておこう。
 ちなみに、「箸墓古墳の中軸線が示す方角」(2018年7月25日水曜日)では、次に示す引用文を説明の一部に用いていた。

 ○ さて、北條芳隆氏の『古墳の方位と太陽』の 159 ページには、次のように書かれている。

箸墓古墳の軸線と弓月岳 409 m ピークは 0.1° (6′) の誤差をもち、西山古墳の軸線と高橋山 704 m ピークは 0.4° (24′) の誤差をもつ。これが資料の実態であるから、この誤差ゆえに私の主張する事実関係には厳密さが伴わないとの批判もありうることである。しかしこの程度の誤差は許容される範囲内だと私は判断するが、そのいっぽうで、纒向石塚古墳の場合には検討が必要である。その前方部は三輪山山頂を向くと判断できるか否かであるが、本古墳にたいする私の築造企画復元案では、3.2° の振れ幅をもって三輪山山頂方向に軸線を向けることになり、それを意味のある事実とみなすか単なる偶然とみなすべきかの判断は微妙である。
〔『古墳の方位と太陽』「第 5 章 大和東南部古墳群」 (p. 159)

 北條芳隆氏の『古墳の方位と太陽』(pp. 159-160) では、箸墓古墳の中軸線は 22.3 度と示されているので、自前の計算による弓月岳に向かうラインの角度 22.38 度とは、約 0.1 度の誤差が発生することになる。
 そして、その日の出の角度というのはおおよそ五月の中旬頃になるのであるが、奈良県のホームページなどでも、それは「田植えの始まる時期」だと記述されていることを、「箸墓古墳から夕月岳へのライン」(2018年7月28日土曜日)で確認したのだった。

 今回、改めてそれらの座標を示しておこう。

箸墓古墳」(34.53929, 135.84125)
天神社」(34.57365, 135.91587)
基準点名「天神山」標高 455.06 m 地点 (34.539126, 135.914891)


―― 自前の計算式で座標間の計算を行なったその他の結果は次の通り。

● ここで「横枕火葬墓群」(34.556720, 135.884930) を A 地点として、
● さらに「穴師塚」(34.556459, 135.877737) を B 地点として、

設定すれば、A 地点は角度にして 2.52 度、 B 地点よりも北にあって、

○ A - B 間の〔水平〕距離は、0.659 ㎞ と、計算された。

 これらの数値が何を意味するのかそれとも何も意味しないのかは、さっぱりわからない。

「箸墓古墳」から東北東に 29.21 度で「天神社」に到達し、その距離は、7.824 ㎞ である。
「箸墓古墳」から東北東に 29.74 度で「穴師塚」に到達し、その距離は、3.846 ㎞ であるので、
「箸墓古墳」から「天神社」に至るほぼ中間点に「穴師塚/巻向坐若御魂神社跡」は所在するといえる。

 また一方で、横枕の火葬墳墓は、龍王山 (34.561491, 135.874389) から東南東、約 30 度で天神山に向かうライン上に、ほぼ位置する。

「龍王山」から、東南東に 33.84 度で「天神山」に到達し、その距離は、4.462 ㎞ である。
「龍王山」から、東南東に 28.79 度で「横枕火葬墓群」に到達し、その距離は、1.101 ㎞ である。

 これらの数値が何を意味するのか何も意味しないのかは、やっぱりわからない。


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穴師塚: 夕月岳 / 穴師坐兵主神社
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穴師塚: 夕月岳 / 穴師坐兵主神社 バックアップ・ページ
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座標間の水平距離と角度は、以下のページの座標データに基づいて計算しています。

修正版 一覧表データの座標間の距離と角度を計算するページ
http://theendoftakechan.web.fc2.com/eII/hijiri/nCoord.html

2018年12月14日金曜日

若草山に見られる野火の記憶

火は、土地を豊穣にし、やがて、鉄を精錬するに至る。

〈草薙剣〉の説話は国家権力によって、〈天叢雲剣〉へと変貌していき、
その剣の記念碑は、鳥取県と島根県の県境に聳える〈船通山〉の山頂に建っている。

―― と、前回の最後に書いた。
 製鉄以前の火の操作にかかわる、野焼きと、土器の製作は、日本ではともに縄文時代からの文化とされる。

◎ 人類にとっておそらく、発展的な火を制御する技術は、土器に始まったのではなく、もっと大規模な、山火事から派生した野火だったろう。

 現在でも「野火(のび)」の日本語は、「春に野山の草を焼く火」のことであり、古来それは年ごとに行なわれる「野焼きの火」であった。
―― 奈良市東部の春日山北西の丘にある、若草山嫩草山(わかくさやま)で、現在は毎年 1 月に行なわれている山焼きは、1950 年以前は 2 月 11 日の行事であったという。

 中国の歴史書に〝火耕〟という言葉がある。
 野焼き・山焼きのあとに採取される山菜は、まさに実践された火耕の成果ともいえようか。
 火が、土地を活性化することを知った人類はやがて、山地に農耕のため開墾地を求めた際にまず火耕 ―― 伐採の後の山焼き ―― を行なっただろうことは、容易に想像できる。
 そして記録に残るところでは、休耕地に、榛木(はんのき)が植樹された事例は多いようだ。ハリノキが転訛してハンノキと呼ばれたらしい。

 ○ ハイバラとも読まれる「榛原」は、もともと「榛原(ハリハラ)」であったろうし、また、野本寛一氏の著作である次の文献によれば「榛の木」は「墾の木」であるともいわれる。

『焼畑民俗文化論』

Ⅱ 焼畑系基層民俗文化の実際
 8 焼畑の循環と植物移植

 (pp. 151-152)

  1 榛

 中尾佐助氏は、ネパールでは「焼畑のあとにハンノキを植えますが、これは、空中窒素の固定をやり、土地を肥やすんです。ヒマラヤからアッサムまでの焼畑は、ハンノキ(ネパールハンノキ、ネパール名はユッティス)を使うというかなり高度な技術に達していた。台湾山地民もタイワンハンノキを使う」と述べておられる(『続・照葉樹林文化』中公新書)。
 榛の根に共生する根瘤菌が空中の窒素を蛋白質と化し、それが肥料となるともいわれ、多くの放線菌は細菌・カビ・原虫などにたいする抗生物質を生産するともいわれている。わが国の焼畑農民も経験的に榛の効用を伝承しており、榛の生えているところは焼畑に適していると伝えている。たとえば、石川県白峰村では、太い榛の木(オバル)があれば、その周囲一〇〇メートル四方は土が肥えているといい伝え、杉の植林にさいしても、初期には榛の木を伐らずに杉を植える習慣があった。……
 (pp. 153-154)
   (1) 榛と猪垣
 榛の木の苗を他の山から取ってきて、焼畑輪作の終了したところに二間間隔ほどに植え、二〇年から三〇年放置し、「アラス」と称した。二~三〇年たってふたたび焼畑にするときには、太いものは径一尺にも及んでいた。秋、木の葉のあるうちに木に登り、まず枝をおろし、幹はそのまま立てておいて焼いた。この残った幹のことを「ツモッ木」と称した。ツモッ木は春伐って、椎茸小屋で椎茸を乾燥させる燃料として利用した。さらに興味深いことに、この地では、秋、焼畑の収穫物に害を与える猪を防ぐために「せき」と呼ばれる木柵で焼畑地を囲んだのであるが、それをこの榛の木で作ったのである。……
 (p. 155)
   (2) 榛[ハリ]と墾[ハリ]
引馬野ににほふ榛原入り乱れ衣にほはせ旅のしるしに(『万葉集』五七)
白菅の真野の榛原心ゆも思はぬわれし衣に摺りつ(『万葉集』一三五四)
などと「榛原」は歌にも詠まれ、大和の榛原、遠州の榛原など古い地名として残っている。「榛」は、「はん」または「はり」と読まれており、静岡市大間ではいまでも「はり」といっている。「新墾[にいはり]」「墾間[はりま]」「墾道[はりみち]」など、わが国では開墾のことを「はり」と呼んでいるのであるが、榛の木の生えているところを好んで農地として開墾し、また、時に、新開の焼畑地の輪作を終えてアラす場合、榛の木を植える習慣があったことを考えると、「榛の木」が「墾の木」であったことが考えられるのである。榛は開墾と深くかかわった植物であった。
 静岡市日向では茶畑のなかに榛の木を植え、その説明として、昔、山犬(狼)に追われたとき、この榛の木に登って難を逃れるよう工夫したものだと語り伝えられている。『古事記』に、雄略天皇が葛城山で大猪に追われたとき、榛の木に登って難を逃れたという伝承が記されている。静岡市大間で猪垣に榛の木が用いられたことと脈絡があるのだろうか。大地を肥やし、染色の原料ともなるこの木に、一種の呪力をみてきたことはたしかであろう。

 14 野焼きの民俗
  二 野焼きの実際

  1 若草山の山焼き

 (p. 236)
 一月十五日は奈良若草山の山焼きである。この日、午前中から若草山の麓にある、春日大社摂社の野上神社をはじめ、山の周囲では山焼きの準備がすすめられる。野上神社の祠の背後には高さ一メートル、径一・五メートルほどの真ん中が割れた石があり、この石が野上神社の磐座であることがはっきりとわかる。野上は「野神」で、野焼きの行われる野の神であったことが推察される。……
 (p. 237)
 標高三四二メートル、三三万平方メートルの若草山にいっせいに点じられた火は瞬時に紅蓮の炎となり、蛇のように這い、驚くべき早さで闇のなかにひろがっていった。そして約三〇分後に火は鎮まっていた。昼みると、白味を帯びた黄土色に蔽われた萱山が炎となり、やがて夜が明ければ黒褐色に変じているのである。
 一般に、若草山の山焼きの起源は、興福寺と東大寺の境界争いに由来すると説かれているが、実際の起源は食用野草の採集や草の獲得にあったものと考えられる。そして、この山焼きは大和盆地周辺の草山焼きの象徴的残存でもあった。「若草山」という名もゆかしく、遠く菜摘みの習俗とのかかわりをも思わせる。奈良公園の茶店で売られている「ワラビ餅」の発生も、広大な若草山の野焼きと無関係ではなかったはずである。
〔野本寛一/著『焼畑民俗文化論』より〕

 ○ 山口隆治氏による『加賀藩林野制度の研究』では、焼畑用地が「あらし」等と呼ばれることに関しても詳細な研究がなされている。その考察がまとめられて記述された個所から参照してみたい。

『加賀藩林野制度の研究』

第七章 白山麓の「むつし」

 一 白山麓の焼畑

 加賀藩の焼畑名称について、前記「耕稼春秋」には金沢付近の山間部で「薙畑」と称したことを記す。…… 能登国羽咋郡続きの越中国射水郡三尾・床鍋両村では「薙畑」または「ノウ(11)」、飛騨国境に位置した新川郡東猪谷村や礪波郡五箇山では「薙畑」と呼称した(12)。つまり、加賀国の山間部では焼畑を「薙畑」、能登国鳳至・羽咋両郡および越中国射水郡の一部では「薙野」または「ノウ」とそれぞれ呼称していた。このように、焼畑を「薙畑」「薙」と呼称したのは、雑木・柴草を薙ぎ倒して焼くためであったという。したがって、焼畑のため雑木・柴草を伐採することを「薙苅り」といい、火入れすることを「薙焼き」といった(13)。……
…………
白山麓では焼畑を「薙畑」または「山畑」、その用地を「むつし」または「あらし」と呼称した。前述のごとく、「薙畑」の名称は山地斜面の草木を「薙ぐ」ことから始まったもので、草木の伐採を「薙刈り」、火入れを「薙焼き」と称した。また、火入れ初年目の畑地を「新畑[あらばた]」、地力が減退したそれを「古畑[ふるばた]」と呼称した。薙畑には稗を初年目作物とする「稗薙」、蕎麦を初年目作物とする「蕎麦薙」、大根を初年目作物とする「菜薙」の三種類があり、伐採や火入れの時期、二年目以後に栽培される作物の種類、経営される面積などに若干の差異がみられた(19)
 焼畑は入会山を原則とした百姓持山で行われたが、これは農民の持高に応じて山割し、個人所有として利用する場合もあった。白山麓の村々では、各村近くの山林に大なり小なり私有地を有していた。……

(11) 『とやま民俗・24号』(富山民俗の会)四七頁
(12) 『旧白萩村の民俗』(東洋大学民俗研究会)五二頁および『越中五箇山の民俗』(富山県教育委員会)六二頁
(13) 野本寛一氏は、焼畑呼称を「火・焼地名」「輪作地名」「循環地名」「伐採形状地名」「その他」に分類し、「薙畑」とは「薙ぐ」という動詞の連用形「薙ぎ」が名詞化したもので、「伐採形状地名」に属すると考えた(前掲『焼畑民俗文化論』三〇三~三〇九頁)。
(19) 『尾口村史・資料編第二巻』一七九~一八一頁。
〔山口隆治/著『加賀藩林野制度の研究』(p. 313, p. 317) 〕

The End of Takechan

◎ 人類は、草を焼き、土を焼き、やがて土塊(つちくれ)から、金属を得た。

 日本で縄文時代から弥生時代へと移行する頃、大陸では、すでに鉄の時代が始まっていたようだ。
 稲作と、青銅と鉄の文化が、日本列島に同時に入ってきたのだ。

 それから数世紀を経て、日本で〔全文が現存する〕歴史書が成立した西暦 700 年代。
 なぜ、古事記と日本書紀はともに、伯耆国と出雲国の国境にある鳥上の峰 ―― 鳥上之峯 ―― すなわち船通山(せんつうざん)を舞台とする戦闘神話を記録に残し、その地からの戦利品として、日本書紀にいう〈天叢雲剣〉すなわち〈草薙剣〉―― 古事記原文では〈草那藝之大刀〉―― をスサノヲによって、獲得させるという、出雲国重視の物語構成にいたったのか。
 のみならず、古事記には「其所神避之伊邪那美神者、葬出雲國與伯伎國堺比婆之山也。」という記述があって、

其の神避りし伊邪那美の神は、出雲の國と伯伎の國との堺の比婆の山に葬りき。
(そのかむさりしいざなみのかみは、いづものくにとははきのくにとのさかひのひばのやまにはふりき。)

ここにも、出雲国と伯耆国との国境が登場し、大地母神の墓所として〈比婆之山〉が記録される。

 船通山の北東に位置する伯耆大山の山麓には、鳥取大学の山本定博氏によって、「鳥取県内の黒ボク土腐植もその黒さはわが国でも第一級である」と評される黒ボク土がある。

 その黒ボク土は、おそらく数千年にわたって毎年焼かれ続けた、野火の記憶だろうと、推察されるのである。
 そして、そもそも戦闘は、新墾(あらき)もしくは、すでに開墾された土地を巡って繰り返されたはずだ。
 播磨国風土記によって、渡来の神との戦闘の神話が、現代にまで伝承されている。自然の災害に強い、豊饒な大地が、権力者の求めたものであったろう。
 敵対者や、反乱軍に遭遇することのない、広大で豊かな土地を、我が物と宣言したかったのだ。
 必然として。―― 権力者は、同時に、武力を欲したのだった。


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2018年12月4日火曜日

焼畑の伝承と〈草薙剣〉

 前回参照した山野井徹氏による『日本の土』の書評が掲載された
GSJ 地質ニュース Vol.4 No. 10(2015 年 10 月)(https://www.gsj.jp/data/gcn/gsj_cn_vol4.no10_309-310.pdf)
の書評ページが PDF 化されてインターネット上にあった。それによれば、嚆矢となった論文は 1996 年に発表され、日本地質学会から表彰されている。

山野井徹「黒土の成因に関する地質学的検討」
(URL : https://ci.nii.ac.jp/els/contents110003013763.pdf?id=ART0003437151 )
(地質学雑誌 第 102 巻 第 6 号 526?544 ページ、1996 年 6 月)

 そのような新しい視点を含む、伯耆大山の土壌についての研究論文が、一冊の文献にまとめられて『鳥取県農業と土壌肥料』(1998) として発行されており、その中に次の論述が見られる。

 ○ ここでは引用に際して、「図 4」の〝図〟は省略するがその説明文は図 4 全国各地の火山灰土壌腐植層中の腐植酸の光学的特性(埋没腐植層は除く。黒印は大山起源)腐植酸型の分類は熊田の方法による。」とあり、その図の前後の本文中において、火山灰土壌を黒ボク土として特徴づける化学的理由についての考察が述べられ、火山灰土壌=黒ボク土であるかというと必ずしもそうではないと、ひとつの結論が出されている。

『鳥取県農業と土壌肥料』 Ⅱ 鳥取県の自然と土壌

「3. 鳥取の黒ボク土」(鳥取大学農学部 山本定博)

3 ) 鳥取県の黒ボク土のおいたち
 (2) 黒ボク土の腐植とその生成条件
 火山灰土壌を黒ボク土として特徴づけるのは、多量に集積した黒色腐植である。多量の腐植の集積は世界の陸成土壌のうちでは最も顕著であるが、黒ボク土の腐植はその集積量もさることながら黒色味の強さという点で、他の土壌の腐植とは質的に大きく異なる。一般に土壌からアルカリ性の溶液で抽出された腐植のうち酸で沈殿する画分を腐植酸、沈殿しない画分をフルボ酸と呼ぶ。腐植の黒味は腐植酸に起因する。黒ボク土では腐植酸は量的にフルボ酸を上回り、その黒色味は非常に強い(数ある土壌の中で最も黒い)。いわゆる熊田による A 型腐植酸である。鳥取県内の黒ボク土腐植もその黒さはわが国でも第一級である(図 4 )。
 ところで、火山灰土壌の中には、腐植が多量に集積し、活性アルミニウムにも富み、一人前の火山灰土壌の特性を持っているにもかかわらず、黒ボク土のものとは全く異なる黒色味の弱い腐植(非 A 型腐植酸)を含む土壌がある。身近な例では、大山山麓のブナ林下にもみられる。炭素含量は 10% 程度あり、真っ黒な土壌断面をしているが、腐植は黒ボク土とは化学構造的にも全く異なるものである。図 4 に示すように、含まれる腐植酸は A 型以外の腐植化度の低い B, P, Rp 型である。このような土壌は火山灰土壌ではあるが黒ボク土とはいえない。火山灰土壌=黒ボク土であるかというと必ずしもそうではない。腐植の量ではなく質が問題なのである。
〔鳥取県土壌肥料研究会/発行『鳥取県農業と土壌肥料』 (p. 28) 〕

 ○ 焼畑に関する近年の資料としては次のものがあり、冒頭で日本三代実録(貞観九年三月)の記事が紹介され、また、41 ページでは焼畑のオッタテビと記紀神話との関連が指摘されている。

『焼畑民俗文化論』

Ⅰ 焼畑系民俗文化論の視座
「1 焼畑系民俗文化論の経緯」

 かつて、焼畑は八重山諸島から北海道に及ぶ空間的な広がりの中で行われていたのであった。それは、時間的にも稲作以前から行われていた可能性が指摘され、近代に至るまで連綿と続けられてきたのだった。『三代実録』貞観九年三月二十五日の条に、「令大和国禁止百姓焼石上神山播蒔禾豆」とあり、石上の聖域近くにまで焼畑が及んでいたことがわかる。『万葉集』東歌には、「足柄の箱根の山に粟蒔きて実とはなれるを逢はなくも恠し」(三三六四)と歌われ、『拾遺和歌集』巻十六に「片山に畑やくをのこかの見ゆるみ山桜はよきて畑やけ」という藤原長能の歌がある。焼畑は都近くにおいても、地方においても属目の風景だったのである。
 こうして、昭和二十年代までは焼畑が生業として営まれていた地も多かったのであるが、三十年代に入り衰退の歩を早め、高度経済成長期に入り完全に終焉を迎えたのであった。

Ⅱ 焼畑系基層民俗文化の実際
「1 焼畑の名称」

 富山県・石川県・福井県・岐阜県では焼畑のことを「ナギ」と称した。ここでも夏焼きの焼畑のことを「菜ナギ」「蕎麦ナギ」など、作物を冠して呼ぶ風があった。福井県大野市の中洞では、菜ナギ・蕎麦ナギは草山畑、稗や粟を作る春焼きナギは木山畑という仕分けをしていた。「ナギ」も、北陸・中部のみではなく、遠く、大分県国東半島の富来に「ナギノ」という呼称があった。「ナギ」は「薙ぐ」という動詞の連用形の名詞化で、「刈り払う」という意味である。こうしてみると、焼畑呼称の一類型として<刈る>という意味を示すものが大きな勢力を占めていたことがわかる。「カノ」も「ナギ」も、発生的には、草地や叢林を「刈り」「薙ぐ」ことから始まったものと見てよい。…………

「2 焼畑の技術伝承」 二 火の技術伝承

  1 防火帯の技術と名称
 焼畑の火の延焼に関する話は各地で耳にする。…… 山の火は上へ上へとのぼり、横にもひろがるのである。
……………………
  3 火入れの技術
 焼畑地の火入れにはことのほか神経を使った。風のない日を選び、暦のまわりのよい日を選んだ。…………
 焼畑の火入れ方法として全国的に共通していることは、傾斜地の上部から火を入れるということである。土佐池川町椿山では上部を「ホクチ」(火口)と呼び、静岡市大間では、焼畑上部の右端を「ホサキ」(火先)、左端を「テシタ」(手下)と呼んだ。大間では、焼畑組の長老を「行司」と言い、行司が全体の火を見て、「ホサキをさげよ」「テシタをさげよ」などと号令をかけて作業を進めた。
……………………
 …… 椎葉では、春焼きは「オロシ風」が吹くのを見はからって火を入れるので夜になることが多かったという。
 こう見てくると、火入れは上から下へが原則であったことがわかる。下から火を入れることを避けた理由は、延焼の防止とともに、火が上走りをして焼け残りが出ることを避けたからである。静岡市中平には「ウシが残る」という言葉がある。火が表面を走って焼け残りが出ることである。しかし、上から火をつけて三分の二から四分の三焼けたところで下から火を入れるという方法は各地にあり、静岡県榛原郡川根町、同磐田郡水窪町などではこれを「オッタテビ」(追い立て火)と呼んだ。神奈川県山北町箒沢では「ムカエビ」と称しており、途中で火と火がぶっつかって消えることになり、まさに『古事記』の「ヤマトタケル」「迎え火」と一致しているのである。
 上下の原理は、左右の風速が激しい時には左右にも適用された。南風が強い時には四分の三ほど北側を焼いておいてから南からも火を入れたのであった。
〔野本寛一/著『焼畑民俗文化論』 (p. 3, pp. 26-27, p. 37, p. 40, p. 41) 〕

 ○ 注目すべき言葉として「颪(オロシ)」の語を国語辞典で見ておこう。

『日本国語大辞典 第二版』 第三巻

おろし【下・卸・颪】〔名〕

(動詞「おろす(下)」の連用形の名詞化)
① 高い所から下の方へ移すこと。おろすこと。「雪おろし」「神おろし」「たなおろし」などのように、名詞に付けて造語要素として使う場合が多い。
② 神仏の供え物をとりさげたもの。また、貴人の飲食物の残りや使い古しの品物のおさがり。御分(おわけ)。……
③ 家来に食糧を支給すること。……
④(颪)山など高い所から下へ向かって風が吹くこと。また、その風。秋冬の頃、山腹の空気が冷えて吹きおろす風。おろしのかぜ。……
…………
おろしの風(かぜ) 山から吹きおろす風。山おろし。*類従本元良親王集(943頃か)「惜みつつなげきのかたき山ならばおろしの風のはやく忘れぬ」
〔小学館『日本国語大辞典 第二版』 第三巻 (pp. 64-65) 〕

―― また、焼畑で用いられる「向火」は、国語的には「むかえび(ムカヘビ)」よりも「むかいび(ムカヒビ)」の訓みのほうが、どうやら意味が通じやすいようだ。

The End of Takechan

 ○ 文字構成として〈畑〉は〝火田〟であり、〈畠〉は〝白田〟となる。これらの語は和名抄にも載る。

『諸本集成 倭名類聚抄〔本文篇〕』を参照すれば、それぞれの語の冒頭で、

火田は夜歧波太(ヤキハタ)、
白田は陸田・波太介(ハタケ)、

と説明されている。

 ○ 紀元前に成立した中国の『礼記』に「火田」という言葉が出てくる。さらに、「火耕水耨」という語も紀元前成立の『史記』にすでに見られることもまた、次の文献で指摘される。

地球研ライブラリー 17『焼畑の環境学』

史料論1 中日火耕・焼畑史料考(原田信男)

 (1) 中国の火耕・焼畑
…… もちろん焼畑は日本語で、中国文献には、火田・火耕として、いくつかの文献に登場する。
 まず紀元前三世紀以前成立の『礼記』王制第五に、天子・諸侯・百姓の田猟の記事があり、火田を禁じている。

獺祭魚、然後虞人入沢梁、豺祭獣、然後田猟、鳩化為鷹、然後設罻羅、草木零落、然後入山林、昆虫未蟄、不以火田、不麛、不卵、不殺胎、不殀夭、不覆巣、(竹内照夫『礼記 上』新釈漢文大系二九、明治書院、一九七九年)

 田には、田猟すなわち狩猟の意味もある。「かり」の訓をもつ畋の文字も同様で、耕作と狩猟は近しい行為であった。
 そして『爾雅』釋天第八「祭名」も、火田を狩猟とする。

春猟為蒐。夏猟為苗。秋猟為獮。冬猟為狩。宵田為獠。火田為狩。(長沢規矩也編『和刻本 経書集成』正文之部 第三輯、古典研究会、汲古書院、一九七六年)

 つまり「火田」とは火を用いた焼狩りと理解すべきで、この場合にも焼畑が伴っていたと考えてよいだろう。
 なお火田に関する記事としては、『宋史』志大一二六食貨上一に、大中祥符四年(一〇一一)の詔があり、先の『礼記』を承けて宋代には、火田が明確に禁止されている。

火田之禁、著在礼経、山林之間、合順時令、其或昆虫未蟄、草木猶蕃、輒縦燎原、則傷生類。(脱脱等撰『宋史』第一三冊、中華書局)

…………
 なお火耕の語については、五世紀に成立した『後漢書』文苑列伝第七〇上の杜篤伝に、

田田相如、鐇钁株林、火耕流種、功浅得深、(范曄撰『後漢書』第九冊、中華書局)

とあり、おそらく後漢すなわち一~二世紀ごろには用いられていたものと思われる。この「火耕流種」とは、まさしく林を切り開く焼畑を指すものであろう。
 さらに唐代の欧陽詢撰『芸文類聚』巻二六人部十言志所載にも、以下のようにある。

夾江帯阡、布濩井田、通逵交迸、高門接連、人腰水心之剣、家給火耕之田、爾乃樹之榛栗、椅桐梓漆、(欧陽詢撰『芸文類聚 上』中華書局、一九六五年)

 ただ、江蘇という地域的な問題からすれば、これは次に述べる火耕水耨の田を意味する可能性が高い。

火耕水耨 古代中国の農業史研究では、長江南部における火耕水耨に関する論争が行われてきた。火耕水耨の語については、紀元前九一年ごろの成立とされる『史記』の二ヶ所に登場する。

平準書第八:
是時山東被河菑、及歳不登数年、人或相食、方一二千里。天子憐之、詔曰、江南火耕水耨。令飢民得流就食江淮間、欲留之処、遣使冠蓋相-属於道護之、下巴蜀粟、以振之。(吉田賢抗『史記 四』新釈漢文大系四一、明治書院、一九九五年)
貨殖列伝第六九:
楚越之地、地広人希、飯稲羮魚、或火耕而水耨。果陏臝蛤、不待賈而足。地勢饒食、無饑饉之患、以故呰窳偸生、無積聚而多貧。是故江淮以南、無凍餓之人、亦無千金之家。(重野安繹『史記列伝 下』増補漢文大系七、冨山房、一九七三年)
〔『焼畑の環境学』所収、原田信男「中日火耕・焼畑史料考」(p. 522, p. 523) 〕

 ○ 最後に、後漢書「火耕」についての注釈を、邦訳文とともに参照しておきたい。

『全譯後漢書』 第十七册

文苑列傳第七十上(范曄「後漢書卷八十上」)

 杜篤傳
【原文】
火耕流種、功淺得深[九]。
[李賢注]
[九]以火燒所伐林株、引水漑之而布種也。

《訓読》
火耕流種し、功は淺くして得ることは深し[九]。
[李賢注]
[九]火を以て伐る所の林株を燒き、水を引きて之に漑ぎて布種するなり。

[現代語訳]
田畑の雑草を焼いて種をまきますと、わずかな手間で多くの稔りを得られます。
[李賢注]
[九]火で伐採した株を焼き、水を引いてこれに注いで種をまくのである。
〔渡邉義浩・髙橋康浩/編『全譯後漢書』 第十七册 (pp. 759-764) 〕


―― 今回の内容は、錯綜している。
 整理すれば、まず「富山県・石川県・福井県・岐阜県では焼畑のことを「ナギ」と称した」という一文に、ヤマトタケルの〈草薙剣(くさなぎのつるぎ)〉の原型を見たように思った。
 すなわち、ヤマトタケルの神話に、焼畑で用いられる「向火」の技術が伝承されたのだと思われた。
 また、日本の「焼畑」の語は中国の「火耕」を元とするようである。
―― 野焼き・山焼きを、火耕と称してかまわないのなら、農耕の以前に、人類は、土地を火で耕すことから始めたのだとも、いえようか。

火は、土地を豊穣にし、やがて、鉄を精錬するに至る。


〈草薙剣〉の説話は国家権力によって、〈天叢雲剣〉へと変貌していき、
その剣の記念碑は、鳥取県と島根県の県境に聳える〈船通山〉の山頂に建っている。


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