2019年3月30日土曜日

比婆山 ― 死と転生の呪術 ―

◈ 前回の終わりに書いた。今回の、とっかかりのテーマとなる泣く子の話だ。

◎ 出雲国風土記に記録された〈阿遅須枳高日子命〉の〝泣いてばかりで、ものいわぬ御子〟の物語は、古事記と日本書紀に垂仁天皇の〝ものいわぬ皇子〟の物語として、記述されている。

◈ このほかにも、妣を慕って〝青山(あおやま)は枯山(からやま)のごとく泣き枯らした〟神の物語が日本にはある。記紀神話の破壊的なまでに泣いてばかりの神といえば、〈八岐大蛇〉―― ヤマタノヲロチ ―― を退治した神でもある、スサノヲが世界的に有名だろう。

◎ スサノヲ の 妣の国 ◎


 ○ たとえばレヴィ=ストロースは、日本神話の翻訳を要約文で紹介していて、その和訳も時に興味深い。

『蜜から灰へ』

〈第三部〉暗闇の楽器 Ⅰ 騒音と悪臭

M311 日本 泣き虫の「赤ん坊」
 イザナギという神は、自分の妹であり妻であるイザナミが死んだ後、世界を三人の子供に分け与えた。イザナギの左目から生まれた、太陽である娘、アマテラスには空を委ねた。右目から生まれた、月である息子、ツキヨミには海を委ねた。鼻汁から生まれた、もう一人の息子、スサノオには大地を委ねた。
 その頃、スサノオは男盛りであって、長さ八アンパン〔一アンパンは手を一杯に広げたときの親指の先から小指の先までの長さ〕の髭が生えていた。しかしスサノオは大地の主の務めをなおざりにして、うめいたり、泣いたり、怒って口から泡を吹いたりばかりしていた。心配をする父親にスサノオは、あの世で母親と暮らしたいのだと答えた。それでイザナギは息子を憎み、息子を追い出した。
 イザナギ自身も死んだ妻に再会しようと試みたことがあるので、死んだ妻はもはや膿んでふくれあがった死骸にすぎず、頭、胸、腹、背中、尻、両手、両足、陰門に八人の雷神が住んでいることを知っていたのである ……。
 スサノオはあの世に亡命する前に、姉のアマテラスに別れを告げるため、空に昇る許しを父親から得た。だが空に着くやいなや、田圃を汚したので、アマテラスは憤慨して、洞窟に閉じこもり、世界から自分の光を隠した。悪行の罰として、弟は永久にあの世に追放されることになり、艱難辛苦の末あの世にたどり着いた (Aston, vol. 1, p.14‑59)

文 献
ASTON, W. G. ed. :
« Nihongi. Chronicles of Japan from the Earliest Times to A.D. 697 », Transactions and Proceedings of the Japan Society, London, 2 vol., 1896.
〔クロード・レヴィ=ストロース/著『蜜から灰へ』早水洋太郎/訳 (pp. 437-438)

The End of Takechan

比婆山の安産信仰 ― 箒神 ―


◈ 古事記の《掃持》―― 日本書紀では《持帚者》―― すなわち〈ハハキモチ〉は、葬送に描かれ、吉野裕子氏は古代の死生観を論じて、死者を未来に新生する胎児として扱う風習を紹介した。このことは、いずれ詳しく検討する予定なのだけれど、《掃守》すなわち〈カモリ〉は、産屋(うぶや)の神話に重要な役目を担って、古語拾遺〔「天祖彦火尊、娉海神之女豊玉姫命、生彦瀲尊。誕育之日、海浜立室。于時、掃守連遠祖天忍人命、供奉陪侍。作箒掃蟹、仍、掌鋪設。遂以為職。号曰蟹守。」岩波文庫『古語拾遺』(p. 130) 〕に登場する。

 ○ ここでは、箒神(ほうきがみ・ははきがみ)が、死と生の境界における守護者として信仰される習俗を文献から参照するにとどめる。古来、出産は、死と隣り合わせの時間と空間の体験でもあった。

『谷川健一全集 2』

「民俗の神」 Ⅰ

産屋と喪屋
 奄美大島では生後一年たった子どもを「ユノリがあった」という。「ユノリ」は世直りのことである。世直りというのはこのばあい、あの世からこの世に直ることを意味する。九州から南では「直る」といえば移ることである。逆にいえば生まれて一年たたないあいだは、まだ確実にはこの世に生まれ返ってないと考えられていた。生まれることが再生にほかならぬことをこのようにはっきりと示すことばはない。
 そうしてあの世からこの世に生まれ移るためには、あの世とこの世との境目に産屋がもうけられねばならなかった。

神と魔
 医学のすすんでいない時代の人間にとっては、死から生への継ぎ目を無事に移行できるかどうかということは大きな問題であった。そのためには産神[うぶかみ]の加護が何としても必要であった。出産のために命を落とす産婦は多く、誕生してもながく生きられない子どもの数はおびただしかった。
…………
 平城天皇の大同二年(八〇七)に斎部[いむべ]広成が著述した『古語拾遺』には次の文章がある。

天祖彦火尊、海神之女豊玉姫命にみあひまして、彦瀲尊をあれましき。誕育之日、海浜に室をたてたまひき。その時、掃守連遠祖、天忍人命、供へ奉り侍りしに、箒を作りて蟹を掃ひたまひき。かれ鋪設をつかさどれり。それ遂に職と為りて、号をも蟹守とは曰ひき。(今の俗に之を掃守と謂ふは、彼詞の転れる也。)
あまつみおやひこほのみこと、わたつみのむすめとよたまひめのみことにみあひまして、ひこなぎさのみことをあれましき。ひたしまつりたもふとき、うみべたにうぶやをたてたまひき。そのとき、かむもりのむらじがとほつおや、あまのおしひとのみこと、つかへまつりはべりしに、ははきをつくりてかにをはらひたまひき。かれしきものをつかさどれり。それつひにわざとなりて、なをもかにもりとはいひき。(いまのよにこれをかむもりといふは、かのことばのうつれるなり。)

 この文章にみる通り、産屋を海辺に建てたので、産屋の中に蟹が入りこんだ。そこで箒[ほうき]で掃ったというのは、産屋の床に砂が敷いてあったことを推定させる。また産屋と箒とが密接な関係をもっていることが語られている。
 コズエババ(産婆)が箒で産婦の腹をなでて、「はよう安うもたせて下さいまっせ」と安産を箒神に頼む所が九州にあった。箒神を産神とみなす習俗は各地にあり、産室の隅に箒を立てて安産のまじないとする所は多い。
 朝鮮には産室の隅に藁の束を立てる習俗があるが、日本にもおなじような風習があり、産神さまがこれに腰をかけるといっている。また藁の束を産神さまとしてまつるばあいもみられる。これらのことを思いあわせてみると、箒神は、もとは藁の束ではなかったかという推測が成り立つ。産婦がすわって産をするときに、藁の束をつくってその腰にあてる風習は敦賀の立石半島にみられる。あるいは砂の上に積み重ねた敷藁を束ねて、それを産神とみなしたかも知れない。産屋の藁はたんなる藁ではなく産婦とその子どもをまもってくれる神なのである。
 それは産屋のまわりに母と子の生命をうかがう邪神がたえずうろついているからであった。産屋の生活は生と死とのたたかいであり、それは同時に産神と邪神とのたたかいの場でもあった。……
〔『谷川健一全集 2』(p. 469, pp. 476-477)

『日本民俗語大辞典』

ははき 菷

ははきがみ・ははきもち・ホウキ・掃クに関係する語。ワラシベ・モロコシの穂・シュロの葉鞘からとった繊維・竹の枝、菷草の茎を乾かし束ねた物など ―― 現在は掃除道具となっている。
…………
「古事記」・上巻で、「天若日子」の死の喪屋で、八日間、鷺が「菷持[ははきもち]」となっているのは、白い鳥が、霊魂の保管者であるという古い信仰と、殯宮での蘇生・転生を願う、招魂呪法役を、菷が期待されたのである。
〔石上堅/著『日本民俗語大辞典』(p. 1071, p. 1072)

◈ 次に、日本書紀「神代上 第五段一書〔第十〕」の記事、

乃ち唾く神を、號けて速玉之男と曰す。次に掃ふ神を、泉津事解之男と號く。
(すなはちつはくかみを、なづけてはやたまのをとまうす。つぎにはらふかみを、よもつことさかのをとなづく。)

のことであるが、その文脈から〈速玉之男〉〈泉津事解之男〉は、両方ともヨモツヒラサカにおいて、イザナミを《黄泉の国》に封じるための、結界と祓いの神だとわかる。―― その神々が、出雲の比婆山久米神社などでは、イザナミの両脇に祀られているという次第なのだ。

The End of Takechan

御墓山の安産信仰


 ○ 大正年間を編集に費やしたという地誌『日野郡史』は、大正十五年 (1926) に鳥取県の日野郡自治協会から発行された。

『日野郡史』(前篇)

 第三章 沿革「第四節 太古傳說地」

…… 遼遠の世、傳へられたる說話すら少けれども、阿毘緣(出雲風土記の伯耆國日野郡の堺阿志毘緣山とある所)の御墓山傳說の如きは、尤も有力なるものにして、將來の研究に俟つべきもの多し。左に日野郡野史中より抄錄す。……

阿毘緣の御墓山
阿毘緣村の大菅字大墓山は、出雲國能義郡と伯耆國日野郡との境に聳ゆる名山なり。上古伊邪那美尊を葬り奉りし由云ひ傳ふ。其事跡と古事記にある所と照令して考ふる時は、信憑すべき點尠からず。依て左に之を併記して尙後世探究の參考に資せんとす。
…………
故其祟避りまして伊邪那美の神は、出雲國と伯岐國との境比婆の山に葬[カク]しまつりき。 古事記

米山曰出雲國能義郡と伯耆國日野郡阿毘緣村の內大菅との間に聳ゆる字御墓山に伊邪那美尊を葬し奉れる由昔より云ひ傳ふ。同地內の井垣が塔[サコ]に其神靈を奉祀せしも、深雪の地にて里人冬期參拜に困しみ、中古より同村地內字宮の下に移し奉り、熊野神社と稱へ、伊弉冊命に事解[サカ]男命速玉男命を合祭し、古來產婦主護の御神とて遠近の崇敬甚だ厚し。此御墓山及近地を日向[ヒナ]山と總稱す。比姿山の轉訛なるべし。云々
…………

 第四章 神社「第四節 村社」

  九、熊野神社
三、記錄
 口碑傳說
二 神 社 ノ 來 歷
(口碑傳說)伊弉冊命ハ神避リマセシ時出雲國ト伯耆國トノ境ナル比婆山ニ葬ルト舊事記古事記ノ兩書ニ顯然トコレアリ然ルニ往古ヨリ現今ノ社地ヲ隔ツル事拾餘町ナル雲伯ノ境ニ比那山御墓ト唱フル山アリ(比那山ハ比婆山ナルヲ後世ノ人誤リテ比那山ト申セシナラン)~~
三、神社及祭神ト其地方トノ關係
當神社ノ社地ハ往古ハ前項比那山御墓ニアリシモ中古(年代詳カナラズ)參拜者ノ便利ヲ圖リ現今ノ社地ニ移シ氏神トシテ奉祀セシモノナリト殊ニ伊弉冊命ノ安產ノ守護神トシテ著シキ靈顯アリトテ村民ハ勿論附近ノ村落ヨリ參詣スルモノ少ナカラズ
 明治四十三年六月
社掌 木山昌精調査
〔『日野郡史』(前篇)(pp. 36-37, pp. 411-412)

◈ 上記引用文中米山曰として、深雪の地にて里人冬期參拜に困しみ、中古より同村地內字宮の下に移し奉り、熊野神社と稱へ、伊弉冊命に事解男命速玉男命を合祭し、古來產婦主護の御神とて遠近の崇敬甚だ厚し。と語られた一文は興味深く、これは明治四十三年六月 社掌 木山昌精調査とあるものと同内容でもあり、それは明治四十五年の『鳥取縣日野郡阿毘緣村是』(p. 2) に、

殊に伊弉册命は安產の守護神として靈顯ありとて村民は勿論附近の村落より參詣するもの少からず 云々

と記述されているのであるが、ここに安産信仰すなわち箒神の信仰が垣間見えるようだ。果たして、いにしえの《伯耆の国》とは、ユング的《太母の国》であると同時に、箒神の国 ――《箒の国》であったか?

The End of Takechan

比婆山の神々


◉ 島根県の、式内社久米神社(比婆山久米神社熊野三社大権現)の記録にある信仰内容の記述、

【祭祀】 例祭は五月九日で、秋祭は九月九日で、規定の祭典である。當日は姙娠・安産・子育ての祈願や、開願御禮詣りの御祈禱が非常に多い。
〔『式内社調査報告 20 』(p. 183)

と比較するとき、鳥取県の『伯耆志』(p. 587) に記録された產土神熊野權現 社方五尺 祭日九月九日という祭日も秋祭の日と一致し ―― のみならず、祭神と信仰も同じなのだけれども ―― たとえばこのあたり一帯を全体として神代の比婆山と想定するなら、いまは出雲と伯耆に区分されて所在するそれぞれの〈熊野権現〉は、もとは同じ神社(かみのやしろ)であったとして、不自然ではない。
 島根県の〈比婆山久米神社熊野三社大権現〉の縁起巻に、延宝三年 (1675) の写本「比婆山三所大権現縁記」があり、鳥取県の旧くは〈熊野大権現〉と称した〈熊野神社〉の棟札には、延宝八年以後のものがあるというけれど、そのころにいわゆる「比那山御墓」の地に、出雲と伯耆の国境(くにざかい)の峰に、〈熊野大権現〉として勧請されたのではなかろうか。まさしくそれを江戸時代の終わりに『伯耆志』(pp. 587-588) は、

當社出雲國能儀郡 比婆山熊野神社に同し 彼社は延喜式に久米神社と見えたるを後世熊野に作れり 云々 古事記に出雲與伯耆境とある伊弉冊尊の葬地は此地ならんといへる一說なとありて爰にも熊野神社を祭れるものにや何れにても後世の勸請なる事は論なし

という文章で記述したのであろう。

◎ そして太古は線引きがなかったはずの、国々の境についてであるが、645 年の大化改新(たいかのかいしん)以降に国境が定められた際には、出雲国風土記に記された、意宇郡の〈久米社〉は出雲の国に、粟嶋と関連の深い〈夜見嶋〉は伯耆の国に編入されることとなった、という想定は可能だし、無理がないように思われる。

◉ 国境がそのように定められたので、712 年成立の古事記におけるその場所の表現は必然として、

故、其の神避りし伊邪那美の神は、出雲の國と伯伎の國との堺の比婆の山に葬りき。

という記述となった。―― と、そのような、経緯もあっただろうか?

◈ 次に。ではなぜその場所が、出雲と伯耆の国境付近であったのか。

 阿毘縁地区は古くから、良質な鉄の産地として知られ、〈印賀鋼〉の刀剣は明治の末期にも、「明治四十年五月吉日久松山麓に於て兼次作」の銘を残したと、記録されている。
〔『山陰道行啓錄』「鳥取縣」(p. 74) 参照(国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧可能)〕


 日本の中央から遠望して、阿毘縁地区を山嶺の南に擁する地帯、比婆の山は《死と転生の呪術》の象徴だったのではあるまいか。

◉ エリアーデの著書に、こう書かれていた。

「鍛冶師とシャーマンは同じ巣からやってくる」とヤクート族の俚諺はいっている。
〔『鍛冶師と錬金術師』(p. 95)

◉ また、康忠熙「古代朝鮮の製鉄技術」には、紀元前の頃のこととして次の記述があった。

朝鮮の古代製鉄技術発展のなかでもう一つ注目されることは、鋼材の質を高めるための熱処理がなされていたことである。
〔『朝鮮古代中世科学技術史研究』(p. 81)

 比婆の山の横屋には、いにしへの時代より、日本海の朝日を目指し渡来した神々とシャーマンが宿り、そこでは新しい神々の秘術を駆使した製鉄と鍛冶の技術を通じて、新しい世を築こうとする〝鉄と火の新時代に向かう生誕の儀式〟が行なわれていたのだ。
 そしてその最大の象徴となる剣(つるぎ)が、ヤマト朝廷の神璽のひとつとされ、〈草薙剣〉またの名を〈天叢雲剣〉として、スサノヲとヤマトタケルの名とともに、日本神話に記され日本人の記憶に刻まれたのだった。


Google サイト で、本日、もう少し詳しい内容のものを公開しました。

比婆の山 / 妣の国
https://sites.google.com/view/emergence2/tsuge/hiba-yama

バックアップ・ページでは、パソコン用に見た目のわかりやすいレイアウトを工夫しています。

比婆之山 / 妣(はは)の国 バックアップ・ページ
http://theendoftakechan.web.fc2.com/eII/tsurugi/hiba-yama.html

2019年3月15日金曜日

神度の剣 ― かむどのつるぎ ―

波比岐神 / ハヒキの神


 古事記に、波比岐(はひき)の神という名の神が登場する。
 同時に記述された阿須波(あすは)の神とともに、どういう神であるかは、あまり知られていない。

○ 西宮一民氏の校注になる古事記から、本文と解説を抜粋する。

新潮日本古典集成『古事記』

古事記 上つ巻(本文)

次に、庭津日[にはつひ]の神。次に、阿須波[あすは]の神。次に、波比岐[はひき]の神。

付 録 神名の釈義
庭津日の神
名義は「家の前の広場の神霊」。「庭」は今日のような植込みの庭ではなく、家屋の前の広場をいう。穀物を干したり、農耕祭祀をしたりする場所であるから、庭そのものを神格化した。須佐之男[すさのお]命の子の大年[おおとし]神と天知迦流美豆比売[あめちかるみずひめ]との間に生れた九神中の第三子。
阿須波の神
名義は「宅地の基礎が堅固なこと」。「足磐[あしいは]」の約「あしは」が「あすは」に音転した語。…… 須佐之男[すさのお]命の子の大年[おおとし]神と天知迦流美豆比売[あめちかるみずひめ]との間に生れた九神中の第四子。
波比岐の神
名義は「宅地の端から端へ線を引き区画をすること」。「端引[はひ]き」の義で、宅地の境界を掌る神。名義未詳として著名の語であった。前項「阿須波[あすは]の神」とコンビで名を見せる神名で、宅地の神であることだけは間違いない。……「端を引くこと」と解すれば、まさに境界の表象である。須佐之男[すさのお]命の子の大年[おおとし]神と天知迦流美豆比売[あめちかるみずひめ]との間に生れた九神中の第五子。
〔新潮日本古典集成『古事記』(p. 76, p. 388)

◉ 吉野裕子著『祭りの原理』では次のように、まとめてあった。

『祭りの原理』


  • ハハキ神の神名は古事記にもみえており、祈年祭の祝詞では阿須波神と同じく座摩巫のまつる神である。
  • ハハキ神は大神宮大宮地の東南隅鎮座、同じく西北に鎮座の宮比神と相並んで祭祀をうける神である。
  • その宮比神はハハキ神阿須波神の同胞神である庭津日神のことではあるまいか。

〔吉野裕子/著『祭りの原理』(p. 93)

―― これは阪本廣太郎氏の『神宮祭祀概説』を若干の調整を加えて引用したうえで、それを要約したものだ。

○ いっぽう式内社調査報告書の記事に、ハヒキの神は現在の通說では波比伎は灰吹きの意で、製鐵の重要なたたら(ふいご)にちなんだ名稱ではないかとされる。とも、述べられている。

『式内社調査報告 24 』

疋野(ヒキノ)神社

【由緒】 この神社は日置[ヘキ]氏の氏神を祀つたものと考へられ、その盛衰は日置氏とともにあつたやうだ。この日置氏は大化前から玉名地方に下つてきて勢力を廣げ、郡司の地位までになつたとされる。…… また菊池川の上流には日置の地名も現存する。『宇佐大鏡』の伊倉別符についても「件別符は當郡々司日置則利先祖相傳之私領也」とあることで、日置氏勢力の一端を知ることができる。
 菊池川下流域には、銀象嵌銘入り直刀や大陸からの輸入品など數多くの優秀な副葬品を出土した江田船山古墳をはじめ、有力な古墳や古墳群が分布し、肥後においてこの地方が重要な據點であつたことが判明する。このやうな重要な地域で日置氏が强大な力を有してゐた理由には、肥沃な土地と鐵生産といふしつかりした經濟基盤があつたことがあげられる。河口には元玉名から梅林にかけて條里制遺構が認められ古くから生産の高い水田が拓かれてゐたことが知れる。鐵については、これも菊池川の河床の砂鐵が利用されたらうとするが、この玉名市周邊(小代山を含む)に約二十ケ所の製鐵遺跡が確認されてゐる。ここで製作された鐵製品が大宰府へ運ばれ、日置氏-大宰府-中央政府といふルートができてゐたと考へられる。
 以上のことが阿蘇を除いたら肥後においてここだけにただ一つの式内社が出現した理由ではないかとされてゐる。
…………
【祭神】 傳說では祭神は疋野長者となつてゐる。……
 また波比伎神が主神ともされてゐる。この波比伎神については古事記にもみえるが、延喜式では宮中神三十六座の中の一座でもある。…… この波比伎神について本居宣長も『古事記傳』で波比入君[ハイイリギミ]で門より舍屋[ヤノ]內に入るまでを司る神とし、波比伎を灰木とするは非なりと說く。しかし、現在の通說では波比伎は灰吹きの意で、製鐵の重要なたたら(ふいご)にちなんだ名稱ではないかとされる。傳說の疋野長者の前身は山麓の炭燒きといふこともそれを想起させる。
 卽ちこの波比伎神は日置氏の重要な經濟基盤であつた製鐵の神といふことである。
(坂本經昌)
〔『式内社調査報告 24 』(pp. 191-192, pp. 193-194)

◎ 刃物を《サヒ》ともいい、障の神・塞の神・道祖神(さいのかみ・さえのかみ)は境界の神である。そこに〈掃う神〉―― すなわち〈ははく神〉―― の存在も同時に想定されようか。

The End of Takechan

持帚者・掃持 / ハハキモチ


◈ 伊勢神宮の「建久三年皇太神宮年中行事」では、戌亥(西北)に祀られるミヤヒの神と、 辰巳(東南)に祀られるハハキの神が、対(つい)となる方角に、祭祀されていた。その二神と比較研究された、アスハ・ハヒキの神は記紀神話では古事記にしか描かれていないけれども、延喜式の神名帳と祝詞に「座摩巫祭神五座」のうちの二神として登場している。
 いっぽう、《ハヒキ・ハハキ》という音韻に通じる《ハハキモチ》は古事記と日本書紀の両方に、記述がある。

◉ アメノワカヒコの葬儀に、これまた正体不明のキサリモチとハハキモチが描かれ、そのあとの記述で、死人に間違えられたアヂスキタカヒコネが激怒して、

「朋友の道、理相弔ふべし。故、汚穢しきに憚らずして、遠くより赴き哀ぶ。何爲れか我を亡者に誤つ」といひて、則ち其の帶劒かせる大葉刈 〔刈、此をば我里と云ふ。亦の名は神戶劒。〕 を拔きて、喪屋を斫り仆せつ。此卽ち落ちて山と爲る。今美濃國の藍見川之上に在る喪山、是なり。

という次第となる。これは日本書紀「神代下 第九段〔本文〕」の記事である。古事記では、

「我は愛しき友なれこそ弔ひ來つれ。何とかも吾を穢き死人に比ぶる。」と云ひて、御佩せる十掬劒を拔きて、其の喪屋を切り伏せ、足以ちて蹶ゑ離ち遣りき。此は美濃の國の藍見河の河上の喪山ぞ。其の持ちて切れる大刀の名は、大量と謂ひ、亦の名は神度の劒 〔度の字は音を以ゐよ。〕 と謂ふ。

となっている。

アヂスキタカヒコネの剣


◉ 古事記でアヂスキタカヒコネが帯びていた剣は其持所切大刀名、謂大量、亦名謂神度劒。と記述され、日本書紀では其帶劒大葉刈、〔刈、此云我里。亦名神戶劒。〕であった。―― 記紀神話に描かれたアヂスキタカヒコネの剣の名称を、箇条書きにしてみよう。

日本書紀

  • 大葉刈 おほはがり
  • 神戶劒 かむどのつるぎ

古事記

  • 大量 おほはかり
  • 神度の劒 かむどのつるぎ


 両方の神話でほぼ同じ名が併記されていることがわかる。――〝大葉刈・大量〟の語義を〝大刃剣〟とし、またアジスキタカヒコネ(阿遅須枳高日子命)は出雲国風土記の「神門郡(かむどのこほり)」に、二度登場するので、それ故に〝神戸剣・神度剣〟を〝神門剣〟とする解釈がある。

The End of Takechan

◈ ヤマタノヲロチの神話に関連した論考を参照していて、谷川健一氏の『青銅の神の足跡』のなかに、「朝鮮語では刀をカルという。草薙剣[くさなぎのつるぎ]を都牟刈[つむかり]の大刀ともいう。」と語られたあとに、野だたらの炉の炎が空をこがしているありさまという表現があった。

○ さらに別のページにはアジスキタカヒコは、ぴかぴかした金属を思わせる美麗な神という記述もある。

『谷川健一全集 9』

『青銅の神の足跡』
〔初出:1979年06月20日 集英社発行〕
「第一部」
 第一章 銅を吹く人

 伊福部氏は雷神として祀られる
 ここに大葉刈という剣の名が出てくる。これは大きな刃をもつ刀剣と解釈される。朝鮮語では刀をカルという。草薙剣[くさなぎのつるぎ]を都牟刈[つむかり]の大刀ともいう。この刈もまたおなじく刀剣の意である。アジスキタカヒコネは鉄製の利器を所有する神であったことがこれによってもわかる。
 さて、前の引用文では、アジスキタカヒコネは、うるわしい容儀をそなえていて、二つの丘、二つの谷の間に映り渡ったとあり、また、その歌には「み谷二渡[たにふたわた]らす」とある。いくつもの丘や谷に照りかがやく鉄器とは、何を表現する比喩なのであろうか。それは芭蕉の『猿蓑』の中の「たたらの雲のまだ赤き空」という去来の句のように、野だたらの炉の炎が空をこがしているありさまを叙したものではないだろうか。

 第三章 最後のヤマトタケル

 水銀を採取する人びと
 …… アジスキタカヒコは、ぴかぴかした金属を思わせる美麗な神であり、「み谷二渡[たにふたわた]らす」と形容された。これは雷神の雷光を想像させもするが、また野だたらの炎が谷の夜空をかがやかす光景とも受けとれる。……
〔『谷川健一全集 9』(p. 64, p. 134)


◎ 日本書紀には「下照媛」の兄として、
◎ 出雲国風土記に「大神大穴持命御子 阿遲須枳高日子命」
と記録された〈アヂスキタカヒコネ〉は、
◎ 古事記で「阿遲鉏高日子根神者、今謂迦毛大御神者也」と伝えられている。

その所持する十握剣を〈大葉刈〉といい、また〈神度剣〉ともいう。

と、かつて書いたことがある。

◎ 出雲国風土記に記録された〈阿遅須枳高日子命〉の〝泣いてばかりで、ものいわぬ御子〟の物語は、古事記と日本書紀に垂仁天皇の〝ものいわぬ皇子〟の物語として、記述されている。
―― 鳥取部(ととりべ)の名をその記録に留め、または鳥取造(ととりにみやつこ)賜姓の縁起譚ともなった記紀神話の内容は、あらためて参照するとして、アヂスキタカヒコネの〈神度剣〉が喪山を造成することとなった葬送の記事に登場する、掃持(ははきもち)―― 日本書紀では「持帚者(ははきもち)」―― の役割が未だよくわかっていないというのが、いささか気になるところではある。

● そういうわけで、初代の「掃う神(はらうかみ)」に関する資料を探してみた。

The End of Takechan

◈ 平田篤胤の「古史成文〔十九〕」〔『新修 平田篤胤全集 第一巻』(pp. 25-26)、古史成文 一之卷「神代上」〕に、「掃之時成坐神(はらひたまふときになりませるかみ)」という語句があり、その前後の文章が日本書紀「神代上 第五段一書〔第十〕」の記事をもととすることは、「古史徴」〔『新修 平田篤胤全集 第五巻』(p. 295)、古史徵 二之卷下「○ 第十九段」〕に述べられている通りである。

◉ 平田篤胤の論を「古史伝」から抜粋しておきたい。

『新修 平田篤胤全集 第一巻』

古史傳 五之卷

〔十九〕於是伊邪那岐命見畏而。吾不意。到伊那志許米伎。汚穢國矣詔而。逃還之時。…… 乃唾之時。成坐神之名。速玉之男神。次掃之時成坐神之名。豫母都事解之男神。亦名謂大事忍男神。凡二神矣。今世人。夜忌燭一火者。此其緣也。
(コヽニイザナギノミコトミカシコミテ。アレオモハズモ。イナシコメキ。キタナキクニニイタリケリトノリタマヒテ。ニゲカヘリマストキニ。…… スナハチツバキタマフトキニ。ナリマセルカミノミナハ。ハヤタマノヲノカミ。ツギニハラヒタマフトキニナリマセルカミノミナハ。ヨモツコトトケノヲノカミ。マタノミナハオホコトオシヲノカミトマヲス。アハセテフタバシラマス。イマモヨノヒト。ヨルヒトツビヲトモスコトヲイムハ。コレソノコトノモトナリ。)

○ 掃之時。此は何を以て、いかにして掃ヒ給へりと云こと、今知べきにあらねど、若は御衣[ミケシ]の袖にて掃[ハラ]ひ給へるならむか。〔其は今も、心よからぬ物を掃ふとては、然爲ることあるを思フべし。〕
〔『新修 平田篤胤全集 第一巻』(p. 296, p. 300)

―― さて。延宝三年 (1675) の写本が残されている「比婆山三所大権現縁起(比婆山三所大權現緣記卷)」に、

所祭神三座、左事解之男神、中伊弉册尊、右速玉之男神。

という記述がある。島根県の〈久米神社〉を、地元では「比婆山さん」とも、呼ぶらしい。


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2019年3月1日金曜日

カガミの舟: 海を渡る蛇

○ 吉野裕子著『蛇 ―― 日本の蛇信仰』に《カガミの舟》を考察した興味深い論がある。

『吉野裕子全集 4』

『蛇』〔初刊:1979 年 2 月 法政大学出版局 / 再刊:1999 年 5 月 講談社(講談社学術文庫)〕

 第二章 蛇の古語「カカ」

〈二 カガミ〉
「故、大国主神、出雲の御大[みほ]の御前[みさき]に坐[ま]す時、波の穂より天の羅摩[かがみ]船に乗りて、鵝の皮を内剝[うつはぎ]に剥ぎて衣服として、より来る神ありき。ここにその名を問はせども答へず。また所従[みとも]の諸神に問はせども皆「知らず」と白しき。ここにたにぐくまをしつらく「こはくえびこぞ必ず知りつらむ」とまをしつれば、即ちくえびこを召して問はす時に「こは神産巣日[かみむすび]神の御子、少名毘古那神[すくなひこなのかみ]ぞ」と答へ白しき。…… 故、それより大穴牟遅と少名毘古那と、二柱の神相並ばして、この国を作り堅めたまひき。さて後は、この少名毘古那神は、常世国に渡りましき。故その少名毘古那神を顕し白せしいはゆるくえひこは、今に山田の曽富騰[そほど]といふぞ。この神は足は行かねども、ことごとに天の下の事を知れる神なり」(『古事記』上巻)。

「頃時[しまらく]ありて一[ひとり]筒の小男[をぐな]あり。白蘞[かがみ]の皮以ちて舟とし、さざきの羽以ちて衣として、潮のまにまに泛び到りき、大巳貴[おうなむち]の神、掌中に取り置きて、もてあそびしかば跳りてその頬[つら]をくひき。その物色[かたち]を怪みて使を遣して天つ神に白[まを]しき。時に高皇産霊[たかみむすび]の尊、聞しめしてのりたまひしく、「吾が産める児すべて一千五百座あり。その中に一の児いと悪しくして教養[をしへ]に順はず、指間[たなまた]より漏きおちしはかならず彼[それ]ならむ。宜愛[うべめぐ]みて養[ひた]せ」とのりたまひき。こは少彦名命[すくなひこなのみこと]なり」(『日本書紀』巻一、傍線筆者、以下も同じ)。

 このように同じ「カガミ」の語に対して、『古事記』には「羅摩」の字が宛てられ、『書紀』ではそれが「白蘞」となっている。
 またここにはじめてみえる山田の「曽富騰[そほど]」は、『記伝』によれば『古今集』以下の歌に見える「そほづ」と同じで「案山子[かかし]」のこととされ、これが定説となっている。
 それではこの羅摩(蘿摩)と白蘞は古来、どのように解釈されているのだろうか。
 『和名抄』には、
「芄蘭。本草云蘿摩子一名芄蘭。和名加加美
と見え、『重修本草綱目啓蒙 十五 蔓草』には
「蘿摩。カガミグサ・ガガイモ・チチグサ
山野に最も多し。春旧根より苗を生じ、藤蔓繁延す。…… 茎葉を断ずれば白汁出、夏月、葉間に穂を生ず。長さ一・二寸の小花を開く。五弁にして、形、鈴鐸の如し ……。」
と説明されている。
 一方、『紀』において少彦名命の舟とされている白蘞は、『和名抄』には、「夜末賀々美[やまかがみ]」と訓まれ、『重修本草綱目啓蒙 十五 蔓草』は、これを次のように説明している。
「白蘞。和産なし …… 春、宿根より苗を生ず。藤蔓甚長し。其葉、初生するものは円にして尖り、次に生ずるものは三尖となる。並に鋸歯ありて蛇葡萄[のぶどう]葉に似たり ……」
 神話に登場する二つの「カガミ」、つまり「蘿摩」と「白蘞」は右のように解説されている。……
〔『吉野裕子全集 4』(pp. 56-58)


○ また一方で、焼畑に関する資料に「カガシ(カカシ)」についての次のような記録がある。

『焼畑民俗文化論』

Ⅱ 焼畑系基層民俗文化の実際

「9 害獣との戦い」

  一 猪 〈一 防除法〉
  1 臭気による防除
 猪は嗅覚の鋭い獣である。この猪の性質を逆用して猪を防除する方法があった。その、臭気による猪の防除法を大別すると、1・クタシ系、2・カガシ系、3・カコ系の三種となる。
…………
  ◍ 節分呪法「ヤイカガシ」の起源 ◍
 「ヤイカガシ」は「焼き嗅がし」の意である。ここで想起されるのは、全国各地で節分の日に広く行われる「ヤイカガシ」である。…… 静岡市閑蔵では、樒に鰯の頭を包み、柊、ビンカ、エビ蔓(野ブドウ)を添え、家の主の箸にはさんで揷す。箸も、柳、山椒など木を選ぶ地が多い。
 節分のヤイカガシの発生基盤が焼畑の害獣除けにあったことは、次の諸点によって明らかになろう。 ⑴ 悪臭物を焼き焦がして嗅がせることによって外来の侵入物を遮断、防御する。 ⑵「ヤイカガシ」という共通の名称が見られること ⑶ 境に設置すること ⑷ 静岡市奥仙俣に、椿の葉に毛髪をはさんで立てる形の猪除けが残っているが、ここに、樒の葉に鰯の頭を包む方法の原型を見ることができること ⑸ 箸または箸状のものにはさんで立てること ⑹ 宵の口に焦がすこと などである。節分は、追儺と民間信仰が習合したものと考えられているが、その中の「ヤイカガシ」は、焼畑文化圏で発生した民俗なのである。焼畑農民が、生活経験の中で強臭物を焼き焦がして害獣を防いだ経験から、その方法を住居に侵入する病魔・悪霊を遮断、追放する呪術に応用したのであった。これが、広く、稲作文化圏にも及んだものと見てよかろう。静岡県榛原郡本川根町土本では節分の日、ヤイカガシを作った時に、家の畑一枚一枚に樒の枝を揷す習慣があった。節分のヤイカガシと畑のヤイカガシの脈絡の残存と見てよかろう。
〔野本寛一/著『焼畑民俗文化論』(p. 162, pp. 168-169)

The End of Takechan

◎ 古事記と日本書紀の記述に共通している《海から来る神》と、蛇(セグロウミヘビ)に関する考察をここで参照しよう。―― ちなみに「虹霓虹蜺(こうげい)」という言葉があって、古くは虹を竜の一種と考え「雄を虹、雌を霓・蜺といった」ことが辞書に載っている。

『谷川健一全集 4』

『古代海人の世界』〔初出: 1995 年 12 月 10 日、小学館発行〕

 第一章 古代海人の世界 「三 海霊と海神」
〈海霊から海神へ〉

 威霊であるタマがあり、それがやがて人格的なカミに発展した、という説を折口信夫は唱えている(「霊魂の話」)。常世国から訪れた威霊が、大国主命(大己貴[おおなむち]神)に付着して国土経営の力を与えたが、その威霊がやがて少彦名[すくなびこな]命という人格神になった、と折口は考える。
 大国主命のヌシは、ニジと同じく蛇(類)と語源を一[いつ]にする言葉であるから、大国主の別名、大国魂のタマも、蛇(類)のもつ威霊と無縁ではないだろう。『日本書紀』は、少彦名命が常世に帰っていったあとで、「神[あや]しき光海[うな]に照[てら]して」やってくるものがいた、と記している。大国主命がその正体を問うと、「自分はお前の幸魂奇魂[さきみたまくしみたま]である」と答えた。「どこに住みたいか」と聞くと、「大和[やまと]の三輪山に住みたい」と答えた、とある。
「神しき光海に照して」やってくるものが、ほかならぬセグロウミヘビであることを、私はすでに明らかにしている(『神・人間・動物』)。それが大国主命の幸魂奇魂というのであるが、幸は幸運をもたらす威霊であるから、セグロウミヘビの動物霊が外来の威霊となって、大国主命に付着した、ということになる。三輪山の神が蛇であることは、三輪山伝説が伝えるところである。こうしてみると、大国主命の別称の大国主神、または大国魂神という場合の神は、集団の人格神を強調するために、のちに付加したものであることが分かる。海霊から海神へという観念の発展過程は、この例からも立証できる。
〔『谷川健一全集 4』(p. 320)


〈ミアレの浜〉に依りきたる《海から来る神》


◈ 古事記では、オホクニヌシとスクナビコナが出会ったのは、ミホのミサキであった。そしてスクナビコナが常世の国に去ったあと、オホモノヌシが、スクナビコナと同じように海からやって来る。
◈ 日本書紀では、オホクニヌシは出雲のイササの浜でスクナビコナと出会い、その直前の記述として、出雲の海でオホモノヌシと出会う。

◎ スクナビコナが乗り、出雲の浜に漂い着いた《カガミの舟》とは何か?
 「ミ」は十二支で「巳」であり「蛇」をさす、が ……。
 大和の三輪山に代表される〈ミモロの山〉の「ミ」が神の意であるなら、おそらく出雲の〈ミアレの浜〉の「ミ」も「神」のことであろうし、そうであるなら「御大之御前」の〈ミホ〉も〈ミサキ〉も、神がかりしてくる。すなわち、神や貴人が誕生ないしは降臨する「みあれ」は現代に「御生・御阿礼」と書かれるように、その「ミ」は「御」とも表記される。
 ようするに「御」はそもそも〈カミ〉を意味する「ミ」であったと思われる。
 そして「」は古く清音で「カカヤク」であった。〈カカ〉といい〈カガ〉というのは、〈輝くモノ〉の意であり、それは〈蛇の目〉の表現でもあったろう。
―― ならば。出雲の〈ミアレの浜〉に依りきたる《カガミの舟》の〈ミ〉が、もし〈神〉の意であるなら、それは《蛇神の舟》を意味することになる。

◉ 日本海に面した島根半島のミアレの浜へと、陰暦の十月、アナジの風の吹くころに、金色に光るセグロウミヘビが沖から漂着し、その海蛇が出雲の社(やしろ)の神事で重要な役割をもつという。

出雲の神在月に、海を照らしてやって来る神は、色鮮やかな海蛇であった。



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カガミの舟: 海を渡る蛇
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2019年2月16日土曜日

渡来神スクナビコナ: 夜見の粟嶋

◈ 昭和三十六年 (1961) に発行された『篠村史』に、加太の「淡島明神」の説明がある。

『篠村史』

 粟島神社

 篠村の西端、東西に白く走る国道の南側、大字浄法寺[じょうぼうじ]の小高いところに粟島神社がある。
 …………
 現在粟島と称する神社は、例えば群馬県邑楽郡佐貫の地、鳥取県米子市彦名の地、さらに、大分県南海部郡米水津の地にそれぞれ鎮座するが、これらはみな、共通してその祭神が少彦名神[すくなひこなのかみ]である。なかでも紀州粟島宮は和歌山県海草郡加太の式内社、加太神社にほかならない。そしてこの加太社の祭神も一説によれば少彦名神なのである。少彦名神は、別に少名毘古那・少日子根命・小比古尼命・少御神などとも称され、不思議な霊力をもった小子[ちいさご]の説話の系列に位置を占める神話の神であって、天[あめ]のかがみの船にのり、海のかなたから帰って来、大国主命と力をあわせて国土の経営に当たったといわれる。海からやって来たかれは、熊野御碕からふたたび常世[とこよ]のくにへ帰って行ったとも、また淡島より粟茎[あわがら]に弾かれて常世のくにへ渡って行ったともいう。これが淡島明神としてあがめられ、のち加太の地に遷されたというのである。……
〔『篠村史』(pp. 106-107)

◉ さて。天平五年 (733) の編纂と記録される出雲国風土記は「〔嶋根郡〕蜈蚣嶋」の記事に「逹伯耆國郡内夜見嶋(伯耆の国郡内の夜見の嶋に達るまで)」と伝えている。そんな風土記の時代には、伯耆の国の夜見嶋の南の海上に粟嶋(あはしま・あわしま)があり、粟嶋は、その後いつしか夜見嶋が伯耆国とつながって半島となった後も、島のままだった。―― のであるが、江戸時代のおそらく 1700 年代、新田開発の工事で陸続きとなって、幕末期に成立した『伯耆志』の《粟嶋村》の項では「産土神粟島大明神」の説明文冒頭に、「粟島山」として記述されている。

―― 鳥取県米子市彦名町1405の、その山頂に、スクナビコナを祀る〈粟嶋神社〉がある。

出雲国風土記の《粟嶋》・その他


◈ 出雲国風土記には、二ヵ所に《粟嶋》の記事がある(『古風土記並びに風土記逸文語句索引』(p. 87) 参照)。
〔風土記の引用に際しては、日本古典文学大系『風土記』(以下『大系本 風土記』と表記)を用いる。〕

 そのひとつは『大系本 風土記』の頭注に「安来市の対岸、米子市彦名の粟島の地。もと島であった。(p. 121) と記される「意宇郡」の《粟嶋》で、

粟嶋 〔椎・松・多年木・宇竹・眞前等の葛あり。〕(p. 121)

が、「意宇郡」の《粟嶋》の記事、全文の訓み下し文である。
 もう一ヶ所は、「嶋根郡」に属する、島根半島沿岸の島であることが確認できる。こちらの《粟嶋》には、その頭注に「黒島の西南方、青島(p. 145) とあり、さらにその特徴として記事本文中に、

粟嶋 周り二百八十歩、高さ一十丈なり。(p. 145)

と、「意宇郡」の《粟嶋》の記事にはなかった、具体的な大きさが添えられている。すると「意宇郡」の《粟嶋》は、それほどでもなかったのだろうか。―― とも、思われるのだけれど「意宇郡」の島々の記事でその高さが添えられているのは、実際のところ《粟嶋》の次に記述されている《砥神嶋》だけなのだ。具体的には、

砥神嶋 周り三里一百八十歩、高さ六十丈なり。(p. 121)

とあり、同じく『大系本 風土記』のその頭注には「安来港の東北突出部、十神山(九二・九米)の地。もと島であった。(p. 121) と説明されている。
 かたや出雲国風土記「嶋根郡」ではその 6 分の 1 程度の高さまでが記録されているというのは、これは出雲国のそれぞれの郡で、あるいはそれぞれの記録者で記録する基準が異なっていたためであるのか、それとも、出雲国風土記「意宇郡」の《粟嶋》を含む島々のほとんど全部は、まったくもって小さな島ばかりだったのか、いずれかであろうが、参考になりそうな記事として、出雲国風土記「意宇郡」の《蚊嶋》に、次の記述がある。

野代の海の中に蚊嶋あり。周り六十歩なり。(p. 123)

 いっぽう『新修 米子市史 第六巻』(p. 10) でも確認できるように、鳥取県の米子市で夜見ヶ浜の山となった《粟嶋》の標高は 36 メートルだった。
 以上の考察に加え、同じ名で呼ばれる島は、出雲国風土記「嶋根郡」の記事を追うだけでも複数存在することが確認できるので、そのことからも、上記「意宇郡」の《粟嶋》と、伯耆国風土記逸文の《粟嶋》が、その海上の同じ島をさしているとする解釈は、必ずしも妥当とはいえない、ということになる。まさにそのことを論じた研究者が、かつてあったのだ。
 そして新しくは 2003 年の『新修 米子市史 第一巻』(p. 501) でも、

国境が明確であった奈良時代に、伯耆と出雲の両国がそれぞれこの粟島の所属を主張していたとは考えられない。彦名町の粟島は『伯耆国風土記』逸文にあるように、伯耆国相見郡余戸里であった。

と結論づけられ、同様の主張が述べられているのだけれども、ここではこれ以上の考察は控える。それらの論稿のもう少し詳しい内容は、この文末に示すサイトに引用しているので、興味のある向きはそちらを参照されたい。

夜見ヶ浜半島 と 粟嶋


◎ ところで。夜見嶋が弓の形をした半島(夜見ヶ浜半島・弓ヶ浜半島)となったのは、歴史時代では、そもそもいつ頃なのか。―― ヒントとしては、『大山寺縁起』の「(十一段)大山と夜見ヶ浜、中海周辺の大景観。」(『企画展 はじまりの物語』(p.63) 参照)に、島根半島の北の海の上空から大山(だいせん)を望んだ絵があり、そこに半島の形状で弓ヶ浜が描かれている。

○ 原本は残っていないけれど『大山寺縁起』の絵を古い地形図として見れば、西暦 1300 年代、夜見嶋はすでに島ではなくなっていたことがわかる。

『企画展 はじまりの物語』

大山寺縁起〈模本〉 (東京国立博物館蔵)


 伯耆国大山寺の創建の経緯を描いた全十巻の絵巻。原本は、応永五年(一三九八)に前豊前入道了阿によって制作されたが、昭和三(一九二八)年に焼失。
〔鳥取県立博物館/編集・発行『企画展 はじまりの物語』(p. 58)

☞ C0047196 大山寺縁起_上巻(模本) - 東京国立博物館 画像検索

  (URL : https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0047196 )

米子(よなご); 米生郷(よなおうのさと)


倭名類聚鈔(わみょうるいじゅしょう)は、源順(みなもとのしたごう)が著した漢和辞書で、承平 (931~938) 年中、醍醐天皇の皇女勤子内親王の命によって撰進された。和名抄(わみょうしょう)もしくは倭名鈔は、その略称として一般に用いられている。
 その和名抄に当時の全国の地名が採録されているのだけれど〝伯耆國〟を見ると〝會見郡〟に、十二の郷(さと)が記される。

日下・細見・美濃・安曇・巨勢・蚊屋・天萬・千太・會見・星川・鴨部・半生

 これらの郷名のうち「半生」は「米生」の誤写であるとする説がある。半は米のくずれた形だったのだという。

米生(よなおう)については、短い記述ではあるが次の資料が参考となる。

米子市の農業

(URL : http://www.city.yonago.lg.jp/secure/7669/agridata18.pdf )
 「米子の地名は、稲作の米がよく実った地域でその昔「米生(よなおう)の里」と呼ばれ、またその後「米生の郷(よなおうのごう)」と呼ばれるようになり、この言葉の音がなまって変わったものが、現在の「米子(よなご)」という由来があります。」(佐々木古代文化研究室月報 1960・8・25 発刊資料から)
〔平成 19 年 3 月 米子市経済部農政課/編集発行『米子市の農業』(p. 1)

◈ 上記のごとく、一説に「米生郷」が「米子」の語源であるともいい、また上にも言及した、平成十五年 (2003) 年発行の『新修 米子市史 第一巻』(p. 501) においては「半生郷」について、《『和名類聚抄』の半生郷が米子市内にあったかつての「飯生村」が遺称地であるとすれば》という、仮説に基づく論が展開されている。


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渡来神スクナビコナ: 粟嶋・淡嶋(あはのしま)
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渡来神スクナビコナ: 夜見粟嶋 バックアップ・ページ
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2019年2月2日土曜日

オホクニヌシの帰還 : 夜見ヶ嶋

弓ヶ浜半島(夜見ヶ浜半島)[鳥取県]

◎ 夜見ヶ嶋が弓ヶ浜半島になっていく経過の研究に「弓ヶ浜半島の完新世における地形発達と海岸線変化」などがあるけど、中でもインターネットに公開されている資料として『地質ニュース』が参考となる。

地質ニュース 668 号, 29-40 頁, 2010 年 4 月

Chishitsu News no.668, p.29-40, April, 2010
(URL : https://www.gsj.jp/data/chishitsunews/2010_04_04.pdf )

砂と砂浜の地域誌 (23)

須藤定久「島根県東部の砂と砂浜 ― 弓ヶ浜から島根半島へ ―」

の 31 ページに「第 3 図 弓ヶ浜半島の形成過程。徳岡ほか (1990) の図を再構成し、一部加筆」とあり、

  1.  椿原京子・今泉俊文 (2003) :弓ヶ浜半島の完新世における地形発達と海岸線変化、山梨大学教育人間科学部紀要、5, 1, P.1-22.
  2.  徳岡隆夫・大西郁夫・高安克己・三梨昂 (1990) :中海・宍道湖の地史と環境変化、地質学論集、36, P.15?34.

等が、論稿の末尾に文献として挙げられている。31 ページに掲載された図の原論文は、国立国会図書館デジタルコレクションで一般公開されているので、そちらも全文を確認できる。

中海・宍道湖の地史と環境変化

(URL : http://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_10809875_po_ART0003485743.pdf?contentNo=1&alternativeNo= )

 その図によれば、「奈良時代(約 1,200 年前)」の弓ヶ浜は島の状態であった。つまりは西暦 700 年代、出雲国風土記が書かれたころのその場所は〝夜見の島〟だったと、推定されているのである。いうなればそこは〝弓ヶ浜〟ならぬ〝夜見ヶ嶋〟だったのだ。
 出雲国風土記には伯耆国の〈夜見嶋〉が「国引き神話」以外にも三ヶ所、合計で四ヶ所、記述されている。
 その〈夜見嶋〉の南にあたる海上に、スクナビコナの説話の伝承地でもある〈粟嶋〉があったのだけれど、江戸時代の干拓事業でその島も、そのころはすでに半島となっていた夜見ヶ浜とつながった。
 現在は鳥取県の米子市彦名町(よなごしひこなちょう)となっているその地に〈粟嶋神社〉がある。
 そして米子市夜見町として、いまも弓ヶ浜半島に〝夜見〟の名が残る。昭和 29 年まで「夜見村」という自治体名だったけれども、同年に米子市の「夜見町」となった。―― かつては、〝粟島村〟の北に〝夜見村〟があり、夜見村の北は〝美保湾〟に面していたとも、説明されたようだ。美保湾というのは、半島東側の湾曲部の海をいい、美保関とは異なる。現在島根県の美保関に対面している鳥取県の市町村は、境港市である。
 ちなみにというか「夜見ヶ浜(よみがはま)」の名称は、1970 年代の『新詳高等地図』〔帝国書院刊(帝国書院編集部編、文部省検定済)〕の「索引」に、記載がある。なぜかそこに「弓ヶ浜」の名はない。

◉ 鳥取県米子市彦名町の〈粟嶋神社〉に祀られるスクナビコナは、伝承では、そのあたりを起点として、常世の国へと旅立った。出雲国風土記にも「粟嶋」の記述は複数個所ある。が、スクナビコナは、〈須久奈比古命〉の名でだた一度しか登場しない。そしてその類話は〈少日子根命〉の名で播磨国風土記にも収録されている。
 中央の神話として採録された形に近い〝スクナビコナの物語〟が、伯耆国風土記の逸文として『釈日本紀』に引用されていることは有名だ。伯耆国風土記逸文のスクナビコナは、自分の蒔いた粟の実りに弾かれて、「粟嶋」から〝常世の国〟に去った。日本書紀では、スクナビコナが常世に渡った場所は「淡嶋(あはのしま)」と記録されている。

―― ところで、出雲国風土記「神門郡」に登場するワカスセリヒメは、古事記のスセリビメと同じく、スサノヲの子として描かれている。

○ 古事記はスセリビメをオホクニヌシの正妻として位置づけるが、その直後に語られた物語で、高志の国のヌナカハヒメが登場するのである。スセリビメとオホクニヌシが、根の国から脱出するまでの、古事記の展開を次にみていこう。

The End of Takechan

黄泉比良坂(よもつひらさか)を通って生還する


 さてオホナムヂとも称されるオホクニヌシは、八十神の迫害を避けて、おそらくは伯耆の国の大山(だいせん)山麓から、木の国(紀伊国)へと脱出した。そこからさらに、追ってきた八十神を振り切るため、神話版・異次元装置のような「木の俣(きのまた)」をくぐり抜けてスサノヲの棲む根の国へと向かい、そこでまたまたさらなる種々の試練を受ける羽目となる。
 その揚句に、あろうことか根の国でのそれらの試練を乗り越える最大の協力者となったスサノヲの娘スセリビメを背にかつぎかっさらって、とっとと根の国から逃走している最中。―― 追い迫ったスサノヲにスセリビメを正妻とするよう宣告を受け、その前提の承認として、「爲大國主神」とも告げられたのは、すなわちスサノヲから「オホクニヌシとなれ!」とエールを送られた形だ。
 ようするに、オホクニヌシというのは、スサノヲから与えられた名でもあるのだ。
―― ここで余談程度の付記ではあるが。以下の『大系本 古事記』引用文中に原文を示すけれど、スサノヲが最初の邂逅シーンで「此は葦原色許男と謂ふぞ」といい、ヨモツヒラサカ付近で遠望して「オホクニヌシとなれ!」と〔絵的には拳を振りかざしつつ〕呼ばわったその最後に、ののしって「是奴也(是の奴・このやつこ)」といったのは、物語の流れから見るに、スサノヲ出し抜き試練をクリアしたばかりでなく娘を遠く連れ去るクソヤロウに対して、精一杯の感情の吐露であろうから、現代日本語で意訳すれば、賛辞としての「このスットコドッコイ!!」というようなあたりか。

 この一連の神話で、スセリビメは、オホクニヌシがスサノヲから与えられた試練を克服するための協力者として描かれているのだけれど、そういえばヤマタノヲロチの神話でも、スサノヲの妻となったクシナダヒメも櫛に変化(へんげ)して、神話の解釈としてはどうやらスサノヲの戦闘能力ないしは霊力を加護した形となっていた。
 そしてオホクニヌシの協力者といえば、根の国から生還したオホクニヌシの国づくりのための新たな協力者として、しばしスクナビコナが登場する次第となる。

○ かくして根の国から帰還する際、オホクニヌシは〈黄泉比良坂〉を通過した。その坂の名は、現在島根県松江市の東出雲町揖屋に残されている。そして今では伯耆の国と地続きとなった、夜見嶋(夜見ヶ浜・弓ヶ浜)に近い、鳥取県西伯郡大山町の唐王(とうのう)725にスセリビメを祀る〈唐王・松籬神社〉がある。口碑等による伝承では、「唐王神社(とうのうじんじゃ)」境内に、夜見の国からこの地に鎮座したスセリビメの御陵があるとする。

The End of Takechan

――『大山町誌』にある「唐王松籬神社」の記述をここに記録しておこう。

唐王松籬神社 (大山町唐王字村屋敷七二五番地)

祭 神 須勢理毘売命、菅原道眞命
例祭日 四月二十五日  氏子部落 唐王
由 緒 創立年月は不詳、須勢理毘売命は昔から唐王御前神といい、庶民の信仰が深く、他に異なった古い神社である。神社の言い伝えによれば、須勢理毘売命は大国主大神と共に夜見の国から帰り、土地を引きよせて、農事を開発し、医療の道を広めて患者を救い、神呪の法をもって世を治められ、その功績は大変大きなものであった。
 大国主大神はながく日隅宮(出雲大社)に鎮座され、須勢理毘売命はこの地に鎮座されたといい、古くは毎年出雲大社から祭官が参向されたということである。字御前畑という所の西側に、井屋敷という御手洗の井泉がある。今、民家の邸内になっているが、汚れのある者がこの水をくむと、すぐ濁り、社前の砂を投げ入れて清めると、自然に清水になるという。また、この神井の水はどんな干ばつにも乾いたことがなく、毒虫にさされたときには、いち早くこの神水を塗るとすぐ治ると言われている。
 したがって、神験もあらたかで、害虫、毒虫、まむしよけの守護神として、人々は玉垣内の砂をいただいて帰り、田畑にまいて害虫よけ、家屋敷にまいて毒虫よけにしている。
 この地は、須勢理毘売命を葬ったところと伝えられ、本殿の下に一間四方余りの玉垣があり、その中に高さ五尺ばかりの古い石碑がある。菅原道眞命は元一宮神社の摂社であったが、明治元年十月神社改正のとき、唐王神社の境内に移転し、松籬神社と言っていたのを明治四十二年、唐王神社に合祀された唐王松籬神社となった。
〔『大山町誌』(pp. 986-987)


▲ 上記引用文の農事を開発し、医療の道を広めて患者を救い、神呪の法をもって世を治められというスセリビメにかかわる記述は、日本書紀の一書に語られた、オホクニヌシとスクナビコナが国造りに際して行なった共同作業の内容に近い。―― 訓み下し文で、以下に採録する。

夫の大己貴命と、少彦名命と、力を戮せ心を一にして、天下を経営る。
復顕見蒼生及び畜産の為は、其の病を療むる方を定む。
又、鳥獣・昆虫の災異を攘はむが為は、其の禁厭むる法を定む。
是を以て、百姓、今に至るまでに、咸に恩頼を蒙れり。
嘗、大己貴命、少彦名命に謂りて曰はく、「吾等が所造る国、豈善く成せりと謂はむや」とのたまふ。
少彦名命対へて曰はく、「或は成せる所も有り。或は成らざるところも有り」とのたまふ。
是の談、蓋し幽深き致有らし。
其の後に、少彦名命、行きて熊野の御碕に至りて、遂に常世郷に適しぬ。
亦曰はく、淡嶋に至りて、粟茎に縁りしかば、弾かれ渡りまして常世郷に至りましきといふ。
自後、国の中に未だ成らざる所をば、大己貴神、独能く巡り造る。

(かのおほあなむちのみことと、すくなびこなのみことと、ちからをあはせこころをひとつにして、あめのしたをつくる。
またうつしきあをひとくさおよびけもののためは、そのやまひををさむるみちをさだむ。
また、とりけだもの・はふむしのわざはひをはらはむがためは、そのまじなひやむるのりをさだむ。
ここをもて、おほみたから、いまにいたるまでに、ことごとくにみたまのふゆをかがふれり。
むかし、おほあなむちのみこと、すくなびこなのみことにかたりてのたまはく、「われらがつくれるくに、あによくなせりといはむや」とのたまふ。
すくなびこなのみことこたへてのたまはく、「あるはなせるところもあり。あるはならざるところもあり」とのたまふ。
このものかたりごと、けだしふかきむねあらし。
そののちに、すくなびこなのみこと、ゆきてくまののみさきにいたりて、つひにとこよのくににいでましぬ。
またいはく、あはのしまにいたりて、あはがらにのぼりしかば、はじかれわたりましてとこよのくににいたりましきといふ。これよりのち、くにのなかにいまだならざるところをば、おほあなむちのかみ、ひとりよくめぐりつくる。)
〔岩波文庫『日本書紀』(一)(pp. 102-104)、日本古典文学大系『日本書紀 上』(pp. 128-129)

 この箇所の叙述は印象に残るものがある。日本書紀の記録者の想いはどのようであったろうか。
―― 昔、オホナムチがスクナビコナに訊いたという。
「なあ、俺たちうまくやれたかなあ」
「さあて。うまくやれたこともありゃ、そうでもないところもあるだろうさ。それなりには、せいいっぱいやったさ」と、そう応えたあと、いつかスクナビコナは、常世の国に去った。

▽ スサノヲは、日本書紀の一書に新羅を経由した渡来神のように描かれていた。またその子イタケルは「釈日本紀」で〈伊太祁曾神(イタキソノカミ)〉に同一だという説が示されており、江戸中期の新井白石も同様に語っている。

 すなわち、五十猛神(いたけるのかみ)は、『釈日本紀』に「先師說曰。伊太祁曾神者。五十猛神也。」とある。
 同じく、新井白石の書に「按ずるに五十猛讀でイタケといふべし神名式出雲國の韓國伊太氐[カラクニイタテ]神社紀伊國の伊太祁曾[イタキソ]神社並に皆此神を祭れる也 イタケ。イタテ。イタキ。皆是一聲の轉ぜし也。」と、述べられている。

 出雲国風土記には明記されてないけれど、渡来神である〈イタテ〉の神も、「延喜式」を見れば丹波国などでは〝伊達神社〟その他の表記が用いられ、また出雲国には〝韓国伊太氐神社〟として複数の記載がある。

◎ 草木の種を日本に伝えたあと紀伊国に鎮座したイタケルは渡来神〈伊太氐〉の神に通じ、またいっぽうで、スサノヲの娘にしてオホクニヌシの妻スセリビメに、〈唐王御前〉の名が伝承される。
―― 伯耆の国と出雲の国が交差する地点には、新羅の国ばかりでなく、高句麗の文化につながる遺跡も多い。
 〈孝霊山〉は〈高麗山〉なのだともいう。


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オホクニヌシの帰還 : 夜見嶋(よみのしま)
https://sites.google.com/view/emergence2/tsuge/yomi-shima

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オホクニヌシの帰還 / 夜見ヶ嶋 バックアップ・ページ
http://theendoftakechan.web.fc2.com/eII/tsurugi/yomi-shima.html

2019年1月18日金曜日

神魂の神 / 赤猪の神話

◎ 鳥取県の大山(だいせん)の火山活動が、コンパクトにまとめられた一節に、約 3000 年前の溶岩の記述がある。

『鳥取県農業と土壌肥料』

 Ⅱ 鳥取県の自然と土壌

1. 気候、地形、地質(元鳥取大学農学部 飯村康二)
 現在最も古い溶岩として側火山の鍔抜山で 0.96 ± 0.03 Ma という K-Ar 年代が得られており、同じく側火山の孝霊山では 0.30 ± 0.03 Ma が得られている。また最も新しいとされる弥山火砕流中の炭化木片について 17.2 ± 0.2 千年前という 14 C 年代が得られている。
〔鳥取県土壌肥料研究会/発行『鳥取県農業と土壌肥料』(p. 16)

―― 国立研究開発法人産業技術総合研究所「地質調査総合センター (GSJ)」の公式ページ
日本の火山(https://gbank.gsj.jp/volcano/) 内の  volcano ― Daisen
にも、およそ 3000 年前とされている火砕流噴火の記録が補足事項として掲載されている。

火山の概要・補足事項:
奥野・井上(2012、連合大会予稿集)によって、約3000年前の火砕流噴火(噴出火口は烏ヶ山と弥山の中間付近か?)が指摘されている。
(URL : https://gbank.gsj.jp/volcano/Quat_Vol/volcano_data/H17.html )


○ 上記報告の記録に、PDF で一般公開されている内容があるので、そこから抜粋すれば次のごとくとなる。

Japan Geoscience Union Meeting 2012
(May 20-25 2012 at Makuhari, Chiba, Japan)

大山火山の完新世噴火
Holocene Eruptions in Daisen Volcano, Western Japan
奥野充、井上剛(福岡大学理学部)
 …………
地点 1 の炭化木片から 3110 ± 60 BP が、地点 2 の火山灰層直下の土壌からは 3290 ± 40 BP の 14 C 年代が得られた。両者の年代値はほぼ一致しており、火砕流とその降下テフラであると考えられる。この火砕物の給源は、火砕流地形の分布から烏ケ山と弥山の中間付近である可能性が高い。なお、本研究の AMS 14 C 年代の測定は、(独)日本原子力研究開発機構の施設供用制度を利用したものである。
(URL : http://www2.jpgu.org/meeting/2012/session/PDF_all/S-VC53/SVC53_all.pdf )

◎ この〝約 3000 年前とされている大山の火砕物〟は、人類の記憶として刻まれているのだろうか?

The End of Takechan

いわゆる〝赤猪の神話〟の物語が、古事記に記録されている。
 この〝赤猪の神話〟がテーマとなった、青木繁の作品「大穴牟知命」(石橋美術館蔵、1905 年)のことは、前回の最後にも触れた。

 この神話でオホクニヌシの名は、オホナムヂと記されているのだけれど、八十神の下っ端扱いを受けていた彼はその直前の物語〝因幡の白兎〟の展開で、八十神の怒りを買うこととなった。そして〝赤猪の神話〟で八十神はオホナムヂの抹殺をたくらみ、赤く焼けた大石を大山のふもとに落としてそれをオホナムヂに受けとめさせ殺害に成功するのである、が ……。ところがどっこい、さすがは神話の世界! 母神の要請を受けた天上の介入によりオホナムヂはたちどころに生き返ってしまうのだった。
 すっとこどっこいとばかりにその後もオホナムヂは八十神に殺されては生き返りを繰り返したあげく、こともあろうについには生きたまま根の国に逃亡することとなる。
―― そのオホナムヂ最初の復活劇に絡むのが、カミムスヒに派遣されたキサガヒヒメとウムギヒメなのだ。

○ 出雲国風土記に描かれた〈神魂命〉の子〈支佐加比売命〉と〈宇武加比売命〉の説話をこれも、前回に確認した〔「出雲国風土記」嶋根郡(加賀郷・ 法吉郷)参照〕。カミムスヒは、カモスの神と同一であるとされているのだけれども、古事記では、それらの神々は上記のシーンに登場することとなる。

○ 伯耆大山の地元鳥取県内の自治体から 1975 年に発行された『西伯町誌』に〝赤猪の神話〟の項があり、その記述内容の一部には『伯耆志』からの引用文がある。
――『伯耆志』は幕末の頃に書かれた地誌である。なお安政五年 (1858) の完成であるともいわれる『伯耆志』の編集者、景山粛(字は雍卿・号は仙嶽・通称は立碩)は、安永三年 (1774) に生まれ、文久二年 (1862) に没したと伝えられる。

『西伯町誌』

第二編 歴史「第一章 原始・古代の社会」

赤猪の神話  神話は事実そのものではない、郷土の神話には古事記と旧事本紀に取りあげられた「手間の赤猪」があり、その内容は史実そのものではない。しかしそれは全然仮空といってよいものか、解釈はどうあろうとも古事記などには「そのように書かねばならない」理由があり素材があったとみねばならない。又古事記の編集された奈良時代以前にその素材ができていたことも疑いない。その上赤猪神話の場が「伯耆国の手間の山本」とあることにも注目せねばならぬ。八世紀以前に郷土に「書かねばならぬ理由と素材」のあったことも無視できない。手間とはいうまでもなく隣町会見町の旧郷名であり、赤猪神話の伝承地が本町の清水川にもあることは重視せねばならぬ。
…………
 (清水川の伝説)伯耆志に次のようにかいているから幕末にも伝説はのこっていたとみていい。

 「清水川村、おば御前、社はないが村の中の山につゞいた小さな林の名である。昔は社もあったか、「きさがいひめ」「うむがいひめ」を祭るという伝説は次のようである、泉があるがそれはおば御前の隣で人家に近く、周り五間ばかりの浅い井である。上に椋の木ありこの村の名はこの泉によってできた。土地の人々の話では「きさがいひめ」「うむがひめ」が「おおなむちのみこと」を蘇生させ給いし時あの貝の粉を此水に和して塗られたという。この話を知らないものも名水とたたえるのはもともと神話の地だからである。水の色が少し白味をおびていて蛤水に似ている。この話は古事記にある。一説ではこの水でねったのでなく蛤の水の余りを捨てたのがこゝの井だという。百日の旱魃にもかれることがない、その故に隣に「おばごぜん」を祭るのである。ああ、一掬してみると大古の事がしのばれる。美しく、不思議なことであるのに、村民は便利にまかせて洗いものに使っている歎げかわしい」と。
〔『西伯町誌』(pp. 48-49)

◎ この伝承が〝約 3000 年前とされている大山の火砕物〟の、人類の記憶であるとしても、検証は不可能だ。

The End of Takechan

〈カモス〉と〈ヘモス〉


 出雲の〈カモス〉を含めて朝鮮語の日本語への影響はさまざまな文献で指摘されている。
 次に見る全浩天氏の『キトラ古墳とその時代』は、〝朝鮮半島と古代出雲〟の関係性について「高句麗と新羅の東海に開かれた古代出雲の表玄関である美保関」とも述べられているのだけれど、〝神魂神社とカモス神〟について考察された個所を今回、ここで引用しておきたい。

○ 日本語の〝〟は朝鮮語の〝カムカル〟と音韻が通じるのだし、また日本語の〝〟は朝鮮語の〝コモ〟であったのだろう。このことと、当時は〈カモス〉と訓まれていた「解慕漱」の語の、朝鮮半島での現在の発音が〈ヘモス〉に変化したのだとする説は、矛盾しない。これも有力な仮説のひとつと思われる。

『キトラ古墳とその時代』

Ⅴ 古代出雲と妻木晩田遺跡
 3 古代出雲にみる朝鮮文化の重層 ―― 高句麗と新羅関係を中心にして ――

 一 神魂神社とカモス神
 古代出雲における新羅と高句麗文化の累積・重層化をさぐるために、出雲東部の意宇郡・大庭にある神魂[かもす]神社とカモス神を従来の理解から離れて検証する必要がある。というは、高句麗からの神話・信仰を基底に敷くものと解釈するからである。
 神魂神社のカモス神については、これまでさまざまな見解が加えられてきたが、そのカモス神とは一体何であるのだろうか。
 神魂神を『古事記』では神産巣日[かみむすび]神、『書紀』では神皇産霊尊としてカミムスビと仮名をふって訓[よ]んでいるが、神魂神のカモスはカモスであって他にならないはずである。
 門脇禎二氏は、このカモス神の「カモスの称が残りつづけたのは、朝鮮に発したコモスの始祖霊信仰によるとみられる(1)」と興味深い理解の仕方をしめしている。能登の珠洲市に式内社として登記された古麻志比古[こましひこ]神社がある。この神社については、神社名の古麻志比古から高麗(コマ)・魂(シ)・彦とみて、高句麗系渡来人の神社とみる解釈があった。
 ところが門脇氏は、古麻志比古神社の本来の祭神は、日子座王[ひこますおう]命であるから、祭神じたいをより重視すれば問題が残ってくるとして、「古麻志のコマは、コモ(熊)が呪術と修業によって天神の子を生むという朝鮮の平壌地方にあった呪術的な民間信仰のひとつでコモ(熊)・ス(霊)であった」という説をとりいれ、このコモ・スが神魂(カモス)信仰として出雲神話にみえるカモス信仰へと発達し、こうした始祖霊信仰が、つぎの始祖的人格信仰の前提、例えば彦坐王信仰になると解釈した。つまり、能登の古麻志比古神社の原像や出雲の神魂神社の原像を、「朝鮮の土着的な呪術信仰」にもとづくカモス(シ)信仰に求めたのであった。
 筆者はカモス神と神魂神社の原像を「朝鮮の土着的な呪術信仰」に求めるのではなく、すでに修飾化され、人間化された始祖的な人格信仰として、高句麗建国神話に登場してくる天帝の子・解慕漱(朝鮮語ではヘモス)から由来していると解釈している。解慕漱[ヘモス]とは言うまでもなく『旧三国史』や『三国史記』が伝えているように河伯の娘・柳花と結ばれた「天帝子」である。その天帝の子が高句麗始祖王の朱蒙である。
 『三国史記(2)』と『三国遺事(3)』が記載している解慕漱の解(ヘ)の古い読みは「カ」であるから、古代朝鮮語のように読めば解慕漱=カモスである。このカモスが出雲の神魂神社のカモス神の原像であると考える。
 柳烈氏は『三国時代の吏読についての研究』において『三国史記』と『三国遺事』に記載された解慕漱の解(ヘ)についてふれ、「『解[ヘ]』字の『ヘ』は、古い形態である『解[カ]』字の『カ』の音韻変化である(4)」と指摘している。
 このようにカモス神を理解すれば、出雲のカモス神と同時に、能登の古麻志比古神社の原像もふくめて高句麗的性格が解明されるのではないだろうか。
 カモス神は出雲国の本拠地である意宇の地にあって、この地の「土着信仰のカモス神」として根強かったが、本来の姿は高句麗渡来のカモス神であった。ところで意宇平野の元来の地主神・農業神は熊野大神であったが、出雲東部の政治経済的発展にともなって、より政治的なカモス神として生みだされていったものと思われる。門脇禎二氏が指摘しているように、畿内大和朝廷による出雲最初の支配者、すなわち最初の国司である忌部首小首[いんべのおびとこおびと]が、自らの祖先神とカモス神を結びつけて崇拝したものと思われる。こうして神魂神社は出雲国造の館におかれるようになった。
 カモス神が高句麗神話から創出された出雲在地の信仰であるとすれば、当然のことながら、それをもたらした高句麗からの直接の渡来か、出雲と朝鮮、この場合は日本海を介しての対岸交流の結果によるものであろう。この高句麗からの渡来と交流をより直截的に証しうるのは、考古学上の遺物・遺跡であろう。
 この点で注目されるのは、出雲意宇の東部の安来平野であるが、この地域の横穴古墳から「高麗剣」とよばれる双竜環頭大刀などが出土して高句麗系移民の来着をうかがわせる。

(1) 門脇禎二『日本海域の古代史』 東京大学出版会 一〇一~二頁。
(2) 『三国史記』巻一三 高句麗本紀 『始祖東明聖王 姓高氏 諱朱蒙』「自称天帝子解慕漱」。
(3) 『三国遺事』紀異第一 古朝鮮「以唐高即位五十年庚寅」紀異第二 高句麗「解慕漱私洞伯之女而後産朱蒙」。
(4) 柳烈『三国時代の吏読について』平壌 科学・百科事典出版社 二〇九~一〇頁。
〔全浩天/著『キトラ古墳とその時代』(pp. 223-225)


 次回は、〝カガミの舟に乗って〟やって来たという、スクナビコナの記録を参照する予定なのだが、古事記でスクナビコナは、カミムスヒの子とされている。
 食物の種を蒔き歩くスクナビコナは、各地の風土記にも多数の記録が残されている。―― スクナビコナのこの全国的展開はすなわち古事記の伝によれば、親が回収した〝五穀の種〟を、子が蒔くというシチュエーションなのであるが、ただしそれとは異なって、日本書紀ではスクナビコナはタカミムスヒの子と伝承される。
 一般に、カミムスヒは出雲系の神話に登場するので出雲神話の神とみなされているのだけれど、いっぽうでタカミムスヒは出雲系の神話以降もしばしば描かれており継続して天神の中心的役割が与えられるという、それぞれの立場の相違がある。

 スクナビコナを、古事記がカミムスヒの子としたのも、日本書紀がタカミムスヒの子としたのも、いずれもそれなりの理由に基づいて記録されたに違いないとは推察できるけれども、さてどのような事情が絡んでいたのだろうか、もはや、知るすべはないようだ。


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神魂(カモス)の神 / 赤猪の神話
https://sites.google.com/view/emergence2/tsuge/kamosu

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神魂(カモス)の神 / 赤猪の神話 バックアップ・ページ
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2019年1月9日水曜日

加賀の郷 / 三穂の埼

―― 日本海文化の交流という視点から
 古代の出雲と高志(越の国)とは文化的な交流があったことが「出雲国風土記」から読み取ることができた
「トリカミの峰 / ヒノカハの上」のページ 参照 )
https://sites.google.com/view/theendoftakechan/worochi/torikami

 特記すべき事項として「出雲国風土記」の嶋根郡には、天の下造らしし大神の命、高志の國に坐す神、意支都久辰爲命のみ子、俾都久辰爲命のみ子、奴奈宜波比賣命にみ娶ひまして、産みましし神、御穗須須美命、是の神坐す。故、美保といふ。の記述が見える。

 この「出雲国風土記」の記述は、古事記にある「此の八千矛の神、高志の國の沼河比賣を婚はむとして」云々の、原形となった説話であろうと思われる。

○ 八千戈神(やちほこのかみ:大国主神すなわち大穴持命)が、〈高志國之沼河比賣〉に言い寄るシーンが、古事記に描かれていた。日本古典文学大系 1『古事記 祝詞』によって原文を改めて確認しよう。

「大国主神 4 沼河比売求婚」

[原文]
 此八千矛神、將婚高志國之沼河比賣、幸行之時、到其沼河比賣之家、歌曰、
[訓み下し文]
 此の八千矛の神、高志の國の沼河比賣を婚はむとして、幸行でましし時、其の沼河比賣の家に到りて、歌ひたまひしく、
(このやちほこのかみ、こしのくにのぬなかはひめをよばはむとして、いでまししとき、そのぬなかはひめのいえにいたりて、うたひたまひしく、)
〔日本古典文学大系 1『古事記 祝詞』 (pp. 100-101)

○ 一方で、出雲国風土記の嶋根郡の地名起源譚で語られていたのは、次の内容だった。

「出雲國風土記」嶋根郡

[原文]
 美保鄕 郡家正東廾七里一百六十四歩 所造天下大神命 娶高志國坐神 意支都久辰爲命子 俾都久辰爲命子 奴奈宜波比賣命而 令産神 御穗須須美命 是神坐矣 故云美保
[訓み下し文]
 美保の鄕 郡家の正東廾七里一百六十四歩なり。天の下造らしし大神の命、高志の國に坐す神、意支都久辰爲命のみ子、俾都久辰爲命のみ子、奴奈宜波比賣命にみ娶ひまして、産みましし神、御穂須須美命、是の神坐す。故、美保といふ。
(みほのさと こほりのみやけのまひむがし27さと164あしなり。あめのしたつくらししおほかみのみこと、こしのくににいますかみ、おきつくしゐのみことのみこ、へつくしゐのみことのみこ、ぬながはひめのみことにみあひまして、うみまししかみ、みほすすみのみこと、このかみいます。かれ、みほといふ。)
(頭注)
美保鄕 島根半島の最東部。美保関町、森山附近以東にあたるのであろう。
意支都久辰爲命 クシヰはクシビ(霊)の音訛か。遠(おきつ)近(へつ)に分けて父子の二神の名としたもの。
奴奈宜波比賣命 古事記に大国主命が婚した越の沼河比売とある女神に同じ。
御穂須須美命 下の美保社に鎮座。
〔日本古典文学大系 2『風土記』 (pp. 126-127)

◎ 美保神社ゆかりの美保関(みほのせき)近辺の地名譚には、さらに注目すべき記述がある。


「出雲國風土記」嶋根郡 : 加賀鄕 / 法吉鄕


加賀の鄕 郡家の北西のかた廾四里一百六十歩なり。佐太の大神の生れまししところなり。御祖、神魂命の御子、支佐加比賣命、「闇き岩屋なるかも」と詔りたまひて、金弓もちて射給ふ時に、光加加明きき。故、加加といふ。〔神龜三年、字を加賀と改む。〕
(かがのさと こほりのみやけのいぬゐのかた24さと160あしなり。さだのおほかみのあれまししところなり。みおや、かむむすびのみことのみこ、きさかひめのみこと、「くらきいはやなるかも」とのりたまひて、かなゆみもちていたまふときに、ひかりかがやきき。かれ、かがといふ。〔じんきさんねん、じをかがとあらたむ。〕)

法吉の鄕 郡家の正西一十四里二百卅歩なり。神魂命の御子、宇武加比賣命、法吉鳥と化りて飛び度り、此處に靜まり坐しき。故、法吉といふ。
(ほほきのさと こほりのみやけのまにし14さと230あしなり。かむむすびのみことのみこ、うむかひめのみこと、ほほきどりとなりてとびわたり、ここにしづまりましき。かれ、ほほきといふ。)
〔日本古典文学大系 2『風土記』 (pp. 126-129)

―― ここに、訓み下し文を抜粋した個所は〈神魂命〉の子、〈支佐加比売命〉〈宇武加比売命〉の説話である。これらの神々は、古事記の物語の一部にも組み込まれているのだが、説話の成立としては、古事記よりも出雲国風土記のほうが先ではないかと予想される。なぜなら、推察するに、地方の文献があえて中央で語られた内容と異なるシチュエーションで神々を語るというのは、古来それぞれの土地に伝承されてきた神話そのものだったからなのだろう。土地の伝承を語るうえで、中央政府の都合に迎合する理由がなかったからだと思われるのである。

 ところで、

『出雲国風土記註論』(嶋根郡・巻末条)

では、

 まだ一例に過ぎないがかつてこの地域を「みほ」ではなく「副良」と呼んでいた事実は重要である。…… どちらにしても注目すべきは「みほ」の地名が前面に登場したことである。そこに『古事記』『日本書紀』の大国主神の国造り、国譲り神話の影響を読み取ることが出来る。
〔関和彦/執筆『出雲国風土記註論』(嶋根郡・巻末条) (p. 15)

と逆向きの影響が語られているけれど、この影響というのは、いつの時代に発生した影響なのであろうか。考察のヒントとしては、その直前の説明において、

 『出雲国風土記』が「今も前に依りて用ゐる」としたのは『播磨国風土記』が言及する「庚寅年(六九〇年)」における郷名変更を意識したものであろう。すなわち「美保郷」の古名は藤原京時代の六九〇年までは「副良里」であり、同年に「美保里」と改名され『出雲国風土記』編纂段階では「前に依り」、「美保」の名を継承したというのである。
〔関和彦/執筆『出雲国風土記註論』(嶋根郡・巻末条) (p. 13) 〕

と、されているのが参考となろう。690 年には古事記 (712) も日本書紀 (720) も、成立していないことは明らかで、藤原京時代の 690 年に「美保里」と改名された当時には、古事記と日本書紀の影響を受けていないことは、歴史時間を考えれば明白なのである。可能性として、その後に古事記と日本書紀に記録されることとなった神話の影響は、それ以前にあったかも知れないけれども。―― さらには。出雲国風土記が中央政府をおもんばかって朝鮮半島との関係性(親和性)を前面に出していないという説は、各種文献で説得力をもって語られているけれども。
 関和彦氏により『出雲国風土記註論』で論じられた解釈では、出雲国風土記が中央の神話の影響を受けて、その土地に伝承されてきた神話の地名を安易に改竄したということになってしまう。

 国引き神話で國來々々と引き來縫へる國は、三穗の埼なりと、高らかに宣言されているではないか。
 この神話が、中央政府の影響を受けた結果だとする説には、賛同できかねる。

堅め立てし加志は、伯耆の國なる火神岳、是なり。


 鳥取県内、伯耆大山の山麓が舞台となって展開する古事記に記録された物語は、〝赤猪の神話〟として絵本にもなっているけれども、有名なところでは、日本神話をテーマとした洋画家青木繁の作品「大穴牟知命」(石橋美術館蔵、1905 年)がある。


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加賀の郷 / 三穂の埼
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