2019年3月15日金曜日

神度の剣 ― かむどのつるぎ ―

波比岐神 / ハヒキの神


 古事記に、波比岐(はひき)の神という名の神が登場する。
 同時に記述された阿須波(あすは)の神とともに、どういう神であるかは、あまり知られていない。

○ 西宮一民氏の校注になる古事記から、本文と解説を抜粋する。

新潮日本古典集成『古事記』

古事記 上つ巻(本文)

次に、庭津日[にはつひ]の神。次に、阿須波[あすは]の神。次に、波比岐[はひき]の神。

付 録 神名の釈義
庭津日の神
名義は「家の前の広場の神霊」。「庭」は今日のような植込みの庭ではなく、家屋の前の広場をいう。穀物を干したり、農耕祭祀をしたりする場所であるから、庭そのものを神格化した。須佐之男[すさのお]命の子の大年[おおとし]神と天知迦流美豆比売[あめちかるみずひめ]との間に生れた九神中の第三子。
阿須波の神
名義は「宅地の基礎が堅固なこと」。「足磐[あしいは]」の約「あしは」が「あすは」に音転した語。…… 須佐之男[すさのお]命の子の大年[おおとし]神と天知迦流美豆比売[あめちかるみずひめ]との間に生れた九神中の第四子。
波比岐の神
名義は「宅地の端から端へ線を引き区画をすること」。「端引[はひ]き」の義で、宅地の境界を掌る神。名義未詳として著名の語であった。前項「阿須波[あすは]の神」とコンビで名を見せる神名で、宅地の神であることだけは間違いない。……「端を引くこと」と解すれば、まさに境界の表象である。須佐之男[すさのお]命の子の大年[おおとし]神と天知迦流美豆比売[あめちかるみずひめ]との間に生れた九神中の第五子。
〔新潮日本古典集成『古事記』(p. 76, p. 388)

◉ 吉野裕子著『祭りの原理』では次のように、まとめてあった。

『祭りの原理』


  • ハハキ神の神名は古事記にもみえており、祈年祭の祝詞では阿須波神と同じく座摩巫のまつる神である。
  • ハハキ神は大神宮大宮地の東南隅鎮座、同じく西北に鎮座の宮比神と相並んで祭祀をうける神である。
  • その宮比神はハハキ神阿須波神の同胞神である庭津日神のことではあるまいか。

〔吉野裕子/著『祭りの原理』(p. 93)

―― これは阪本廣太郎氏の『神宮祭祀概説』を若干の調整を加えて引用したうえで、それを要約したものだ。

○ いっぽう式内社調査報告書の記事に、ハヒキの神は現在の通說では波比伎は灰吹きの意で、製鐵の重要なたたら(ふいご)にちなんだ名稱ではないかとされる。とも、述べられている。

『式内社調査報告 24 』

疋野(ヒキノ)神社

【由緒】 この神社は日置[ヘキ]氏の氏神を祀つたものと考へられ、その盛衰は日置氏とともにあつたやうだ。この日置氏は大化前から玉名地方に下つてきて勢力を廣げ、郡司の地位までになつたとされる。…… また菊池川の上流には日置の地名も現存する。『宇佐大鏡』の伊倉別符についても「件別符は當郡々司日置則利先祖相傳之私領也」とあることで、日置氏勢力の一端を知ることができる。
 菊池川下流域には、銀象嵌銘入り直刀や大陸からの輸入品など數多くの優秀な副葬品を出土した江田船山古墳をはじめ、有力な古墳や古墳群が分布し、肥後においてこの地方が重要な據點であつたことが判明する。このやうな重要な地域で日置氏が强大な力を有してゐた理由には、肥沃な土地と鐵生産といふしつかりした經濟基盤があつたことがあげられる。河口には元玉名から梅林にかけて條里制遺構が認められ古くから生産の高い水田が拓かれてゐたことが知れる。鐵については、これも菊池川の河床の砂鐵が利用されたらうとするが、この玉名市周邊(小代山を含む)に約二十ケ所の製鐵遺跡が確認されてゐる。ここで製作された鐵製品が大宰府へ運ばれ、日置氏-大宰府-中央政府といふルートができてゐたと考へられる。
 以上のことが阿蘇を除いたら肥後においてここだけにただ一つの式内社が出現した理由ではないかとされてゐる。
…………
【祭神】 傳說では祭神は疋野長者となつてゐる。……
 また波比伎神が主神ともされてゐる。この波比伎神については古事記にもみえるが、延喜式では宮中神三十六座の中の一座でもある。…… この波比伎神について本居宣長も『古事記傳』で波比入君[ハイイリギミ]で門より舍屋[ヤノ]內に入るまでを司る神とし、波比伎を灰木とするは非なりと說く。しかし、現在の通說では波比伎は灰吹きの意で、製鐵の重要なたたら(ふいご)にちなんだ名稱ではないかとされる。傳說の疋野長者の前身は山麓の炭燒きといふこともそれを想起させる。
 卽ちこの波比伎神は日置氏の重要な經濟基盤であつた製鐵の神といふことである。
(坂本經昌)
〔『式内社調査報告 24 』(pp. 191-192, pp. 193-194)

◎ 刃物を《サヒ》ともいい、障の神・塞の神・道祖神(さいのかみ・さえのかみ)は境界の神である。そこに〈掃う神〉―― すなわち〈ははく神〉―― の存在も同時に想定されようか。

The End of Takechan

持帚者・掃持 / ハハキモチ


◈ 伊勢神宮の「建久三年皇太神宮年中行事」では、戌亥(西北)に祀られるミヤヒの神と、 辰巳(東南)に祀られるハハキの神が、対(つい)となる方角に、祭祀されていた。その二神と比較研究された、アスハ・ハヒキの神は記紀神話では古事記にしか描かれていないけれども、延喜式の神名帳と祝詞に「座摩巫祭神五座」のうちの二神として登場している。
 いっぽう、《ハヒキ・ハハキ》という音韻に通じる《ハハキモチ》は古事記と日本書紀の両方に、記述がある。

◉ アメノワカヒコの葬儀に、これまた正体不明のキサリモチとハハキモチが描かれ、そのあとの記述で、死人に間違えられたアヂスキタカヒコネが激怒して、

「朋友の道、理相弔ふべし。故、汚穢しきに憚らずして、遠くより赴き哀ぶ。何爲れか我を亡者に誤つ」といひて、則ち其の帶劒かせる大葉刈 〔刈、此をば我里と云ふ。亦の名は神戶劒。〕 を拔きて、喪屋を斫り仆せつ。此卽ち落ちて山と爲る。今美濃國の藍見川之上に在る喪山、是なり。

という次第となる。これは日本書紀「神代下 第九段〔本文〕」の記事である。古事記では、

「我は愛しき友なれこそ弔ひ來つれ。何とかも吾を穢き死人に比ぶる。」と云ひて、御佩せる十掬劒を拔きて、其の喪屋を切り伏せ、足以ちて蹶ゑ離ち遣りき。此は美濃の國の藍見河の河上の喪山ぞ。其の持ちて切れる大刀の名は、大量と謂ひ、亦の名は神度の劒 〔度の字は音を以ゐよ。〕 と謂ふ。

となっている。

アヂスキタカヒコネの剣


◉ 古事記でアヂスキタカヒコネが帯びていた剣は其持所切大刀名、謂大量、亦名謂神度劒。と記述され、日本書紀では其帶劒大葉刈、〔刈、此云我里。亦名神戶劒。〕であった。―― 記紀神話に描かれたアヂスキタカヒコネの剣の名称を、箇条書きにしてみよう。

日本書紀

  • 大葉刈 おほはがり
  • 神戶劒 かむどのつるぎ

古事記

  • 大量 おほはかり
  • 神度の劒 かむどのつるぎ


 両方の神話でほぼ同じ名が併記されていることがわかる。――〝大葉刈・大量〟の語義を〝大刃剣〟とし、またアジスキタカヒコネ(阿遅須枳高日子命)は出雲国風土記の「神門郡(かむどのこほり)」に、二度登場するので、それ故に〝神戸剣・神度剣〟を〝神門剣〟とする解釈がある。

The End of Takechan

◈ ヤマタノヲロチの神話に関連した論考を参照していて、谷川健一氏の『青銅の神の足跡』のなかに、「朝鮮語では刀をカルという。草薙剣[くさなぎのつるぎ]を都牟刈[つむかり]の大刀ともいう。」と語られたあとに、野だたらの炉の炎が空をこがしているありさまという表現があった。

○ さらに別のページにはアジスキタカヒコは、ぴかぴかした金属を思わせる美麗な神という記述もある。

『谷川健一全集 9』

『青銅の神の足跡』
〔初出:1979年06月20日 集英社発行〕
「第一部」
 第一章 銅を吹く人

 伊福部氏は雷神として祀られる
 ここに大葉刈という剣の名が出てくる。これは大きな刃をもつ刀剣と解釈される。朝鮮語では刀をカルという。草薙剣[くさなぎのつるぎ]を都牟刈[つむかり]の大刀ともいう。この刈もまたおなじく刀剣の意である。アジスキタカヒコネは鉄製の利器を所有する神であったことがこれによってもわかる。
 さて、前の引用文では、アジスキタカヒコネは、うるわしい容儀をそなえていて、二つの丘、二つの谷の間に映り渡ったとあり、また、その歌には「み谷二渡[たにふたわた]らす」とある。いくつもの丘や谷に照りかがやく鉄器とは、何を表現する比喩なのであろうか。それは芭蕉の『猿蓑』の中の「たたらの雲のまだ赤き空」という去来の句のように、野だたらの炉の炎が空をこがしているありさまを叙したものではないだろうか。

 第三章 最後のヤマトタケル

 水銀を採取する人びと
 …… アジスキタカヒコは、ぴかぴかした金属を思わせる美麗な神であり、「み谷二渡[たにふたわた]らす」と形容された。これは雷神の雷光を想像させもするが、また野だたらの炎が谷の夜空をかがやかす光景とも受けとれる。……
〔『谷川健一全集 9』(p. 64, p. 134)


◎ 日本書紀には「下照媛」の兄として、
◎ 出雲国風土記に「大神大穴持命御子 阿遲須枳高日子命」
と記録された〈アヂスキタカヒコネ〉は、
◎ 古事記で「阿遲鉏高日子根神者、今謂迦毛大御神者也」と伝えられている。

その所持する十握剣を〈大葉刈〉といい、また〈神度剣〉ともいう。

と、かつて書いたことがある。

◎ 出雲国風土記に記録された〈阿遅須枳高日子命〉の〝泣いてばかりで、ものいわぬ御子〟の物語は、古事記と日本書紀に垂仁天皇の〝ものいわぬ皇子〟の物語として、記述されている。
―― 鳥取部(ととりべ)の名をその記録に留め、または鳥取造(ととりにみやつこ)賜姓の縁起譚ともなった記紀神話の内容は、あらためて参照するとして、アヂスキタカヒコネの〈神度剣〉が喪山を造成することとなった葬送の記事に登場する、掃持(ははきもち)―― 日本書紀では「持帚者(ははきもち)」―― の役割が未だよくわかっていないというのが、いささか気になるところではある。

● そういうわけで、初代の「掃う神(はらうかみ)」に関する資料を探してみた。

The End of Takechan

◈ 平田篤胤の「古史成文〔十九〕」〔『新修 平田篤胤全集 第一巻』(pp. 25-26)、古史成文 一之卷「神代上」〕に、「掃之時成坐神(はらひたまふときになりませるかみ)」という語句があり、その前後の文章が日本書紀「神代上 第五段一書〔第十〕」の記事をもととすることは、「古史徴」〔『新修 平田篤胤全集 第五巻』(p. 295)、古史徵 二之卷下「○ 第十九段」〕に述べられている通りである。

◉ 平田篤胤の論を「古史伝」から抜粋しておきたい。

『新修 平田篤胤全集 第一巻』

古史傳 五之卷

〔十九〕於是伊邪那岐命見畏而。吾不意。到伊那志許米伎。汚穢國矣詔而。逃還之時。…… 乃唾之時。成坐神之名。速玉之男神。次掃之時成坐神之名。豫母都事解之男神。亦名謂大事忍男神。凡二神矣。今世人。夜忌燭一火者。此其緣也。
(コヽニイザナギノミコトミカシコミテ。アレオモハズモ。イナシコメキ。キタナキクニニイタリケリトノリタマヒテ。ニゲカヘリマストキニ。…… スナハチツバキタマフトキニ。ナリマセルカミノミナハ。ハヤタマノヲノカミ。ツギニハラヒタマフトキニナリマセルカミノミナハ。ヨモツコトトケノヲノカミ。マタノミナハオホコトオシヲノカミトマヲス。アハセテフタバシラマス。イマモヨノヒト。ヨルヒトツビヲトモスコトヲイムハ。コレソノコトノモトナリ。)

○ 掃之時。此は何を以て、いかにして掃ヒ給へりと云こと、今知べきにあらねど、若は御衣[ミケシ]の袖にて掃[ハラ]ひ給へるならむか。〔其は今も、心よからぬ物を掃ふとては、然爲ることあるを思フべし。〕
〔『新修 平田篤胤全集 第一巻』(p. 296, p. 300)

―― さて。延宝三年 (1675) の写本が残されている「比婆山三所大権現縁起(比婆山三所大權現緣記卷)」に、

所祭神三座、左事解之男神、中伊弉册尊、右速玉之男神。

という記述がある。島根県の〈久米神社〉を、地元では「比婆山さん」とも、呼ぶらしい。


Google サイト で、本日、もう少し詳しい内容のものを公開しました。

神度(カムド)の剣
https://sites.google.com/view/emergence2/tsuge/kamudo

バックアップ・ページでは、パソコン用に見た目のわかりやすいレイアウトを工夫しています。

神度(カムド)の剣 バックアップ・ページ
http://theendoftakechan.web.fc2.com/eII/tsurugi/kamudo.html

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