2019年3月30日土曜日

比婆山 ― 死と転生の呪術 ―

◈ 前回の終わりに書いた。今回の、とっかかりのテーマとなる泣く子の話だ。

◎ 出雲国風土記に記録された〈阿遅須枳高日子命〉の〝泣いてばかりで、ものいわぬ御子〟の物語は、古事記と日本書紀に垂仁天皇の〝ものいわぬ皇子〟の物語として、記述されている。

◈ このほかにも、妣を慕って〝青山(あおやま)は枯山(からやま)のごとく泣き枯らした〟神の物語が日本にはある。記紀神話の破壊的なまでに泣いてばかりの神といえば、〈八岐大蛇〉―― ヤマタノヲロチ ―― を退治した神でもある、スサノヲが世界的に有名だろう。

◎ スサノヲ の 妣の国 ◎


 ○ たとえばレヴィ=ストロースは、日本神話の翻訳を要約文で紹介していて、その和訳も時に興味深い。

『蜜から灰へ』

〈第三部〉暗闇の楽器 Ⅰ 騒音と悪臭

M311 日本 泣き虫の「赤ん坊」
 イザナギという神は、自分の妹であり妻であるイザナミが死んだ後、世界を三人の子供に分け与えた。イザナギの左目から生まれた、太陽である娘、アマテラスには空を委ねた。右目から生まれた、月である息子、ツキヨミには海を委ねた。鼻汁から生まれた、もう一人の息子、スサノオには大地を委ねた。
 その頃、スサノオは男盛りであって、長さ八アンパン〔一アンパンは手を一杯に広げたときの親指の先から小指の先までの長さ〕の髭が生えていた。しかしスサノオは大地の主の務めをなおざりにして、うめいたり、泣いたり、怒って口から泡を吹いたりばかりしていた。心配をする父親にスサノオは、あの世で母親と暮らしたいのだと答えた。それでイザナギは息子を憎み、息子を追い出した。
 イザナギ自身も死んだ妻に再会しようと試みたことがあるので、死んだ妻はもはや膿んでふくれあがった死骸にすぎず、頭、胸、腹、背中、尻、両手、両足、陰門に八人の雷神が住んでいることを知っていたのである ……。
 スサノオはあの世に亡命する前に、姉のアマテラスに別れを告げるため、空に昇る許しを父親から得た。だが空に着くやいなや、田圃を汚したので、アマテラスは憤慨して、洞窟に閉じこもり、世界から自分の光を隠した。悪行の罰として、弟は永久にあの世に追放されることになり、艱難辛苦の末あの世にたどり着いた (Aston, vol. 1, p.14‑59)

文 献
ASTON, W. G. ed. :
« Nihongi. Chronicles of Japan from the Earliest Times to A.D. 697 », Transactions and Proceedings of the Japan Society, London, 2 vol., 1896.
〔クロード・レヴィ=ストロース/著『蜜から灰へ』早水洋太郎/訳 (pp. 437-438)

The End of Takechan

比婆山の安産信仰 ― 箒神 ―


◈ 古事記の《掃持》―― 日本書紀では《持帚者》―― すなわち〈ハハキモチ〉は、葬送に描かれ、吉野裕子氏は古代の死生観を論じて、死者を未来に新生する胎児として扱う風習を紹介した。このことは、いずれ詳しく検討する予定なのだけれど、《掃守》すなわち〈カモリ〉は、産屋(うぶや)の神話に重要な役目を担って、古語拾遺〔「天祖彦火尊、娉海神之女豊玉姫命、生彦瀲尊。誕育之日、海浜立室。于時、掃守連遠祖天忍人命、供奉陪侍。作箒掃蟹、仍、掌鋪設。遂以為職。号曰蟹守。」岩波文庫『古語拾遺』(p. 130) 〕に登場する。

 ○ ここでは、箒神(ほうきがみ・ははきがみ)が、死と生の境界における守護者として信仰される習俗を文献から参照するにとどめる。古来、出産は、死と隣り合わせの時間と空間の体験でもあった。

『谷川健一全集 2』

「民俗の神」 Ⅰ

産屋と喪屋
 奄美大島では生後一年たった子どもを「ユノリがあった」という。「ユノリ」は世直りのことである。世直りというのはこのばあい、あの世からこの世に直ることを意味する。九州から南では「直る」といえば移ることである。逆にいえば生まれて一年たたないあいだは、まだ確実にはこの世に生まれ返ってないと考えられていた。生まれることが再生にほかならぬことをこのようにはっきりと示すことばはない。
 そうしてあの世からこの世に生まれ移るためには、あの世とこの世との境目に産屋がもうけられねばならなかった。

神と魔
 医学のすすんでいない時代の人間にとっては、死から生への継ぎ目を無事に移行できるかどうかということは大きな問題であった。そのためには産神[うぶかみ]の加護が何としても必要であった。出産のために命を落とす産婦は多く、誕生してもながく生きられない子どもの数はおびただしかった。
…………
 平城天皇の大同二年(八〇七)に斎部[いむべ]広成が著述した『古語拾遺』には次の文章がある。

天祖彦火尊、海神之女豊玉姫命にみあひまして、彦瀲尊をあれましき。誕育之日、海浜に室をたてたまひき。その時、掃守連遠祖、天忍人命、供へ奉り侍りしに、箒を作りて蟹を掃ひたまひき。かれ鋪設をつかさどれり。それ遂に職と為りて、号をも蟹守とは曰ひき。(今の俗に之を掃守と謂ふは、彼詞の転れる也。)
あまつみおやひこほのみこと、わたつみのむすめとよたまひめのみことにみあひまして、ひこなぎさのみことをあれましき。ひたしまつりたもふとき、うみべたにうぶやをたてたまひき。そのとき、かむもりのむらじがとほつおや、あまのおしひとのみこと、つかへまつりはべりしに、ははきをつくりてかにをはらひたまひき。かれしきものをつかさどれり。それつひにわざとなりて、なをもかにもりとはいひき。(いまのよにこれをかむもりといふは、かのことばのうつれるなり。)

 この文章にみる通り、産屋を海辺に建てたので、産屋の中に蟹が入りこんだ。そこで箒[ほうき]で掃ったというのは、産屋の床に砂が敷いてあったことを推定させる。また産屋と箒とが密接な関係をもっていることが語られている。
 コズエババ(産婆)が箒で産婦の腹をなでて、「はよう安うもたせて下さいまっせ」と安産を箒神に頼む所が九州にあった。箒神を産神とみなす習俗は各地にあり、産室の隅に箒を立てて安産のまじないとする所は多い。
 朝鮮には産室の隅に藁の束を立てる習俗があるが、日本にもおなじような風習があり、産神さまがこれに腰をかけるといっている。また藁の束を産神さまとしてまつるばあいもみられる。これらのことを思いあわせてみると、箒神は、もとは藁の束ではなかったかという推測が成り立つ。産婦がすわって産をするときに、藁の束をつくってその腰にあてる風習は敦賀の立石半島にみられる。あるいは砂の上に積み重ねた敷藁を束ねて、それを産神とみなしたかも知れない。産屋の藁はたんなる藁ではなく産婦とその子どもをまもってくれる神なのである。
 それは産屋のまわりに母と子の生命をうかがう邪神がたえずうろついているからであった。産屋の生活は生と死とのたたかいであり、それは同時に産神と邪神とのたたかいの場でもあった。……
〔『谷川健一全集 2』(p. 469, pp. 476-477)

『日本民俗語大辞典』

ははき 菷

ははきがみ・ははきもち・ホウキ・掃クに関係する語。ワラシベ・モロコシの穂・シュロの葉鞘からとった繊維・竹の枝、菷草の茎を乾かし束ねた物など ―― 現在は掃除道具となっている。
…………
「古事記」・上巻で、「天若日子」の死の喪屋で、八日間、鷺が「菷持[ははきもち]」となっているのは、白い鳥が、霊魂の保管者であるという古い信仰と、殯宮での蘇生・転生を願う、招魂呪法役を、菷が期待されたのである。
〔石上堅/著『日本民俗語大辞典』(p. 1071, p. 1072)

◈ 次に、日本書紀「神代上 第五段一書〔第十〕」の記事、

乃ち唾く神を、號けて速玉之男と曰す。次に掃ふ神を、泉津事解之男と號く。
(すなはちつはくかみを、なづけてはやたまのをとまうす。つぎにはらふかみを、よもつことさかのをとなづく。)

のことであるが、その文脈から〈速玉之男〉〈泉津事解之男〉は、両方ともヨモツヒラサカにおいて、イザナミを《黄泉の国》に封じるための、結界と祓いの神だとわかる。―― その神々が、出雲の比婆山久米神社などでは、イザナミの両脇に祀られているという次第なのだ。

The End of Takechan

御墓山の安産信仰


 ○ 大正年間を編集に費やしたという地誌『日野郡史』は、大正十五年 (1926) に鳥取県の日野郡自治協会から発行された。

『日野郡史』(前篇)

 第三章 沿革「第四節 太古傳說地」

…… 遼遠の世、傳へられたる說話すら少けれども、阿毘緣(出雲風土記の伯耆國日野郡の堺阿志毘緣山とある所)の御墓山傳說の如きは、尤も有力なるものにして、將來の研究に俟つべきもの多し。左に日野郡野史中より抄錄す。……

阿毘緣の御墓山
阿毘緣村の大菅字大墓山は、出雲國能義郡と伯耆國日野郡との境に聳ゆる名山なり。上古伊邪那美尊を葬り奉りし由云ひ傳ふ。其事跡と古事記にある所と照令して考ふる時は、信憑すべき點尠からず。依て左に之を併記して尙後世探究の參考に資せんとす。
…………
故其祟避りまして伊邪那美の神は、出雲國と伯岐國との境比婆の山に葬[カク]しまつりき。 古事記

米山曰出雲國能義郡と伯耆國日野郡阿毘緣村の內大菅との間に聳ゆる字御墓山に伊邪那美尊を葬し奉れる由昔より云ひ傳ふ。同地內の井垣が塔[サコ]に其神靈を奉祀せしも、深雪の地にて里人冬期參拜に困しみ、中古より同村地內字宮の下に移し奉り、熊野神社と稱へ、伊弉冊命に事解[サカ]男命速玉男命を合祭し、古來產婦主護の御神とて遠近の崇敬甚だ厚し。此御墓山及近地を日向[ヒナ]山と總稱す。比姿山の轉訛なるべし。云々
…………

 第四章 神社「第四節 村社」

  九、熊野神社
三、記錄
 口碑傳說
二 神 社 ノ 來 歷
(口碑傳說)伊弉冊命ハ神避リマセシ時出雲國ト伯耆國トノ境ナル比婆山ニ葬ルト舊事記古事記ノ兩書ニ顯然トコレアリ然ルニ往古ヨリ現今ノ社地ヲ隔ツル事拾餘町ナル雲伯ノ境ニ比那山御墓ト唱フル山アリ(比那山ハ比婆山ナルヲ後世ノ人誤リテ比那山ト申セシナラン)~~
三、神社及祭神ト其地方トノ關係
當神社ノ社地ハ往古ハ前項比那山御墓ニアリシモ中古(年代詳カナラズ)參拜者ノ便利ヲ圖リ現今ノ社地ニ移シ氏神トシテ奉祀セシモノナリト殊ニ伊弉冊命ノ安產ノ守護神トシテ著シキ靈顯アリトテ村民ハ勿論附近ノ村落ヨリ參詣スルモノ少ナカラズ
 明治四十三年六月
社掌 木山昌精調査
〔『日野郡史』(前篇)(pp. 36-37, pp. 411-412)

◈ 上記引用文中米山曰として、深雪の地にて里人冬期參拜に困しみ、中古より同村地內字宮の下に移し奉り、熊野神社と稱へ、伊弉冊命に事解男命速玉男命を合祭し、古來產婦主護の御神とて遠近の崇敬甚だ厚し。と語られた一文は興味深く、これは明治四十三年六月 社掌 木山昌精調査とあるものと同内容でもあり、それは明治四十五年の『鳥取縣日野郡阿毘緣村是』(p. 2) に、

殊に伊弉册命は安產の守護神として靈顯ありとて村民は勿論附近の村落より參詣するもの少からず 云々

と記述されているのであるが、ここに安産信仰すなわち箒神の信仰が垣間見えるようだ。果たして、いにしえの《伯耆の国》とは、ユング的《太母の国》であると同時に、箒神の国 ――《箒の国》であったか?

The End of Takechan

比婆山の神々


◉ 島根県の、式内社久米神社(比婆山久米神社熊野三社大権現)の記録にある信仰内容の記述、

【祭祀】 例祭は五月九日で、秋祭は九月九日で、規定の祭典である。當日は姙娠・安産・子育ての祈願や、開願御禮詣りの御祈禱が非常に多い。
〔『式内社調査報告 20 』(p. 183)

と比較するとき、鳥取県の『伯耆志』(p. 587) に記録された產土神熊野權現 社方五尺 祭日九月九日という祭日も秋祭の日と一致し ―― のみならず、祭神と信仰も同じなのだけれども ―― たとえばこのあたり一帯を全体として神代の比婆山と想定するなら、いまは出雲と伯耆に区分されて所在するそれぞれの〈熊野権現〉は、もとは同じ神社(かみのやしろ)であったとして、不自然ではない。
 島根県の〈比婆山久米神社熊野三社大権現〉の縁起巻に、延宝三年 (1675) の写本「比婆山三所大権現縁記」があり、鳥取県の旧くは〈熊野大権現〉と称した〈熊野神社〉の棟札には、延宝八年以後のものがあるというけれど、そのころにいわゆる「比那山御墓」の地に、出雲と伯耆の国境(くにざかい)の峰に、〈熊野大権現〉として勧請されたのではなかろうか。まさしくそれを江戸時代の終わりに『伯耆志』(pp. 587-588) は、

當社出雲國能儀郡 比婆山熊野神社に同し 彼社は延喜式に久米神社と見えたるを後世熊野に作れり 云々 古事記に出雲與伯耆境とある伊弉冊尊の葬地は此地ならんといへる一說なとありて爰にも熊野神社を祭れるものにや何れにても後世の勸請なる事は論なし

という文章で記述したのであろう。

◎ そして太古は線引きがなかったはずの、国々の境についてであるが、645 年の大化改新(たいかのかいしん)以降に国境が定められた際には、出雲国風土記に記された、意宇郡の〈久米社〉は出雲の国に、粟嶋と関連の深い〈夜見嶋〉は伯耆の国に編入されることとなった、という想定は可能だし、無理がないように思われる。

◉ 国境がそのように定められたので、712 年成立の古事記におけるその場所の表現は必然として、

故、其の神避りし伊邪那美の神は、出雲の國と伯伎の國との堺の比婆の山に葬りき。

という記述となった。―― と、そのような、経緯もあっただろうか?

◈ 次に。ではなぜその場所が、出雲と伯耆の国境付近であったのか。

 阿毘縁地区は古くから、良質な鉄の産地として知られ、〈印賀鋼〉の刀剣は明治の末期にも、「明治四十年五月吉日久松山麓に於て兼次作」の銘を残したと、記録されている。
〔『山陰道行啓錄』「鳥取縣」(p. 74) 参照(国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧可能)〕


 日本の中央から遠望して、阿毘縁地区を山嶺の南に擁する地帯、比婆の山は《死と転生の呪術》の象徴だったのではあるまいか。

◉ エリアーデの著書に、こう書かれていた。

「鍛冶師とシャーマンは同じ巣からやってくる」とヤクート族の俚諺はいっている。
〔『鍛冶師と錬金術師』(p. 95)

◉ また、康忠熙「古代朝鮮の製鉄技術」には、紀元前の頃のこととして次の記述があった。

朝鮮の古代製鉄技術発展のなかでもう一つ注目されることは、鋼材の質を高めるための熱処理がなされていたことである。
〔『朝鮮古代中世科学技術史研究』(p. 81)

 比婆の山の横屋には、いにしへの時代より、日本海の朝日を目指し渡来した神々とシャーマンが宿り、そこでは新しい神々の秘術を駆使した製鉄と鍛冶の技術を通じて、新しい世を築こうとする〝鉄と火の新時代に向かう生誕の儀式〟が行なわれていたのだ。
 そしてその最大の象徴となる剣(つるぎ)が、ヤマト朝廷の神璽のひとつとされ、〈草薙剣〉またの名を〈天叢雲剣〉として、スサノヲとヤマトタケルの名とともに、日本神話に記され日本人の記憶に刻まれたのだった。


Google サイト で、本日、もう少し詳しい内容のものを公開しました。

比婆の山 / 妣の国
https://sites.google.com/view/emergence2/tsuge/hiba-yama

バックアップ・ページでは、パソコン用に見た目のわかりやすいレイアウトを工夫しています。

比婆之山 / 妣(はは)の国 バックアップ・ページ
http://theendoftakechan.web.fc2.com/eII/tsurugi/hiba-yama.html

0 件のコメント:

コメントを投稿