2022年10月18日火曜日

死海文書「巨人の書」のギルガメシュ

 ✐ 聖書の洪水伝説と同じような物語が、紀元前 7 世紀の粘土板に、楔形文字を用いたアッカド語で刻まれていたということが西欧諸国に知られるようになったのは 150 年前のことです。

 ロンドンでその発見が発表された際の経緯が、岡三郎氏の研究論文によって次のように語られています。


『人類史から読む『ギルガメシュ物語』』

〔岡三郎/著 2014年04月30日 国文社/発行〕


 第三部「第四章」 1872 年 12 月 3 日(火)午後 8 時半からのジョージ・スミスの研究発表の衝撃

 (p.307)

 さて、一八七二年十二月三日(火)午後八時半から、独学で楔形文字解読に取り組んでいた若きジョージ・スミスの発表がなされたのは、ロンドンの「聖書考古学会」(The Society of Biblical Archaeology) の席上である。

 (p.308)

 当時スミスが取り組んでいた楔形文字書板は「洪水書板」ともいわれるギルガメシュ第十一書板の第三欄であった。これは、すでに二十年も以前の一八五一年にホルムズ・ラッサム (Hormuzd Rassam) が発掘した書板であった。そこに読みとれ始めたのは、舟がニジール (Nizir) の山麓に停泊し、ハトを放ったが休息する止まり木一本見つけられずに戻ってきた。物語を聞いている人物の名前はイズドバル (Izdubar) 、のちギルガメシュと読むようになる名前であった。この書板は、紀元前七世紀、アッシリア王アシュルバニパル (Assurbanipal) の図書室に埋蔵されていたものである。物語の内容は、まさに「創世記」の大洪水物語に対応することが次第に疑う余地のないものになってきた。一説によると、この時スミスは息をのみ、興奮の余り言葉もなく、着ているものを脱ぎ捨てたという( E. A. W. Budge: The Rise and Progress of Assyriology, 1925, pp.152-3. 参照)。



 ◎ また、バビロニアの『ギルガメシュ叙事詩』に登場する、ギルガメシュとフンババの名が死海文書で発見されたことが、サタンに関連した文献で次のように解説されています。


“THE OLD ENEMY”

Satan & the Combat Myth

『古代悪魔学』

サタンと闘争神話

〔ニール・フォーサイス (Neil Forsyth) /著 野呂有子/監訳

倉恒澄子小山薫田中洋子圓月勝博/訳 2001年05月30日 法政大学出版局/発行


第一部「第一章」 フワワとギルガメシュ

 (pp.26-27)

 この洪水伝説とは対照的に、本項の主眼であるフワワとサタンとの関係には、今まで注意が向けられたことはなかった。両者の関連性は論証可能ではあるものの、かなり間接的で複雑な種類の関連性であるため、議論を重ねて解明してゆかねばならない。その中で、この連鎖を証明する一番明確な証拠は、ギルガメシュとフンババの名が死海文書のアラム語断片中に発見されたことであろう〔Milik 1976 : 313〕。さらに、そこに、パレスチナのメギドで発掘されたギルガメシュ叙事詩そのものの断片を加えてもよかろう。



◎ というわけで〔Milik 1976 : 313〕の記述を抜粋しておきます。


“The Books of Enoch: Aramaic Fragments of Qumrân Cave 4”

〔Edited by J. T. MILIK, Oxford: Clarendon, 1976.〕


THE BOOK OF GIANTS

4QEnGiants a 7 i (Pl. XXXI)

 (p.313)

We have seen (p. 306) that Mahawai had bird-like characteristics. 'Ohyah and Hahyah too could have been bird-men, if an expression of the Persian Kawân, ‘in their nest(?)’, is correctly translated by Henning (p. 61, fr. k, page 1). The giant Ḥôbabiš, if his name is composite, ḥôbab-(’)îš, may have united in his person human characteristics with those of the monster Ḫu(m)bab, the guardian of the Forest of Cedars and the adversary of Gilgamesh. The name of this last was borne by another giant, גלגמיס in 4QEnGiants b, ׀[ג]לג֯מיש in 4QEnGiants c (l. 12 of the fragment quoted on p. 307), incidentally the only mention of Gilgamesh outside the cuneiform literature.



 ⛞ さて上記引用文中に記されている 4QEnGiants b, 4QEnGiants c については、Milik 1976 と同様にダウンロード可能な PDF 版の資料に詳しく解説されているので、抜粋しておきます。


“The Book of Giants from Qumran”

Texts, Translation, and Commentary

〔Loren T. Stuckenbruck. – Tübingen : Mohr Siebeck, 1997〕


4Q530 = 4QEnGiants b – (20 Fragments)

4Q530 Reconstructed Column II, LL. 1–3A (Fragments 4 II, 5, 2  I):

The Giants are Reassured Through Gilgamesh

 (p.105)

[Fragment 4 ii, Line 2]

גלגמיס  ו֯

Gilgamesh had said to him

l. 2

The spelling “Gilgamesh” for גלגמיס is taken from the more conventional form with ש found in 4Q531=4QEnGiantsc 17, l. 12.


4Q531 = 4QEnGiantsc – (48 Fragments)

4Q531 17

 (p.162)

[Line 12]

ג]לג֯מיש  אמר  ח֯למכה֯

 (p.164)

Gi]gamesh, tell your dream

 (p.165)

Line 12: The giant Gilgamesh is asked (by 'Ohyah?) to describe what he has dreamed.



―― その他の資料を参照・引用したページを、以下のサイトで公開しています。


死海文書のギルガメシュ

http://theendoftakechan.web.fc2.com/eII/amrta/gilgamesh/index.html


2022年8月16日火曜日

日本語資料のヘロドトスと「王の目」「王の耳」に関する記述 のこと

 ◎ あくまで日本語文献の一例として、なのですけれども、記述の内容を引用させていただきますと、次のようになっています。


〈世界の歴史 4〉

『オリエント世界の発展』

〔小川英雄・山本由美子/著 1997年07月25日 中央公論社/発行〕


4 アケメネス朝ペルシアの成立と発展

 ペルシア帝国の体制の確立

 (pp.133-134)

 中央集権制

 ダレイオス一世は、キュロス大王によって建てられたペルシア帝国を、整備し完成させたといえるだろう。大王のもとにすべての権力や情報が集まったという点で、それは中央集権的であった。しかし、各地方はアッシリアの軍管区制にならって任じられたサトラップが支配し、かなりの自律性をもつ約二〇から二九のサトラペイアに分けられていた。サトラップは原則としてペルシア人が任命されたが、そうでないこともあった。それぞれのサトラップは、毎年きめられた貢ぎ物(税)をおさめ、大王の戦争には軍隊を率いて参集するという義務を負ったが、領内は独自の伝統や文化に基づいて自由に統治できた。もちろん自由とはいっても、「王の目」や「王の耳」といわれた王直属の官僚によって常に監視されていた。この「王の目」や「王の耳」という官職名はヘロドトスの記述にあるもので、ペルシア語でどのように呼ばれていたかは実はわかっていない。「王の目」とはおそらく監視官のようなものであったろう。それにあたるペルシア語として、さまざまな職名が想定されてはいるが、史料上断定しうるほど明確な職名は見出されていない。しかし「王の耳」については、おそらくスパイのようなものだろうが、ガウシャカつまり「聴く人」という意味の言葉が、パピルス文書にある。



 ◎ というわけで、ここに引用させていただいた文中に、


「王の目」や「王の耳」という官職名はヘロドトスの記述にある


と、明言されているのですが、それがヘロドトスの記述のどの個所なのかが、不明確なので、いろいろと調べてみたのですけれども、結局ヘロドトスの記述からは、判明しませんでした。


 また、このほかの文献・資料でも〈ヘロドトスと「王の目」「王の耳」〉を関連づけたものを、いろいろと探してみたのですけれども、結局ヘロドトスの記述では(官職名としての「王の耳」は)発見できませんでした。



◎ 前回にも紹介したように、ヘロドトスの『歴史』には、「王の目」に関しては次のような記述があるのですけれども。


ワイド版 岩波文庫 294

Herodotus HISTORIAE

『ヘロドトス 歴史』(上)〔全 3 冊〕

〔松平千秋/訳 2008年02月15日 岩波書店/発行〕


 巻一

 (pp.105-106)

 114 この子供が十歳になったとき、この子供の身に次のようなことが起って、その素姓が明るみにでることになった。ある日その子供は村の路上で ―― 牛飼たちの牛舎もその村にあったわけだが ―― 同じ年頃の子供たちと遊んでいた。そして遊びの間に子供たちは、牛飼の子ということになっていたこの子供を、自分たちの王様にえらんだのである。王様にえらばれたその子供は、子供たちの分担をきめ、家を建てるもの、王の護衛をするもの、また一人はいわば「王の目」となるもの、また王にいろいろな報告をする役のもの一人、というふうに子供ひとりひとりに役目を与えた。さて子供の中に、メディアでは名士であったアルテムバレスという者の子供も一緒に遊んでいたが、キュロスから言い付かったとおりしなかったので、キュロスはほかの子供たちにその子供を捕えさせ、捕えてくるとその子を鞭で打ってさんざんな目に遭わせた。やがてその子供は放してもらうと、自分のようなものが受けるはずでない仕打を受けたという気持から一層腹が立ち、町へ帰りキュロスからされたことごとを父に訴えたのである。もちろんキュロスはその頃はまだキュロスという名ではなかったから、アルテムバレスの子も、キュロスとはいわず、アステュアゲス王の牛飼の子だといったのである。アルテムバレスは怒ってその子供を連れてすぐさまアステュアゲスの許へゆき、怪しからぬ目に遭いました、といい、

 「王よ、私どもはお抱えの奴隷、牛飼奴の伜からかような狼藉に遭いました。」

と子供の両肩を示した。



―― その他の資料を参照・引用したページを、以下のサイトで公開しています。



サトラプ制と「王の目・王の耳」の関連資料

http://theendoftakechan.web.fc2.com/eII/amrta/satrap.html


2022年4月28日木曜日

『旧約聖書』の〈サタン〉と「王の目と耳」

 ―― 今回は、『旧約聖書』の〈サタン〉について、参考にした文献資料の引用を、ながながと、おこなってから、本題をはじめます。



“THE ORIGIN OF SATAN”

 by Elaine Pagels

Copyright © 1995 by Elaine Pagels.

『悪魔の起源』

〔エレーヌ・ペイゲルス/著 松田和也/訳 2000年02月28日第刷 青土社/発行〕

 (p.75)

 西欧キリスト教国に於いては、サタンは「悪の帝国」―― すなわち神と人類の双方に戦いを仕掛ける悪意ある霊の軍団 ―― の指導者ということになっているが、ヘブライ聖書に於いても、また今日のユダヤ教の主流派に於いても、サタンがそのような存在として描かれることはない(7)。ヘブライ聖書に最初に登場した時のサタンは、必ずしも悪ではないし、神に敵対しているなどということも全くない。それどころか、『民数記』や『ヨブ記』に於いては、彼は神の従順な従僕のひとりなのである――彼は神の使者、すなわち天使[エンジェル]なのだ。この angel という語は、ヘブライ語の「使者 (mal’āk)」をギリシア語 (angelos) に翻訳したものである。ヘブライ語では、天使たちはしばしば「神の息子たち」(benē’elōhīm) と呼ばれ、巨大な軍団、もしくは宮廷として描かれる。


 (p.76)

 物語の中にサタンを登場させることによって、予期せぬ障害や運命の逆転をうまく説明することができた。ヘブライの物語作者たちは、しばしば禍いの原因を人間の罪に帰す。だが中には、これを説明するためにサタンという超自然的な存在を登場させる場合もある。このサタンは、神自身の命令もしくは許可によって、人間の計画や希望を妨害したり、これと敵対したりする。とは言うものの、この使者自身は必ずしも悪意を持っているわけではない。死の天使と同様、ある特定の使命を果たさせるために、これを送り込むのは神なのである。ただ、その使命が人間にとっては歓迎されざるものであるというだけなのだ。学識深い研究家のニール・フォーサイスは、サタンについてこう述べている。「もしも道が悪であれば、そこにある障害物は善である(9)」。そこでサタンが主から使わされたのは、更なる禍いを防ぐためであったということもあるかもしれない。例えば『民数記』にあるバラムの物語は、神が行くなと命じたところに行こうとした男の物語である。バラムは驢馬に鞍をつけて出発するが、「彼が出発すると、神の怒りが燃え上がった。主の御使いは彼を妨げる者となって、道に立ちふさがった」。この「彼を妨げる者」が原語では le-śāṭān-lō なのである。すなわちここでの「サタン」とは、「妨げる者」の意味なのだ。この超自然的な使者の姿はバラムには見えないのだが、彼の驢馬はこの使者の姿を認め、立ち往生してしまう。


 (p.78)

『ヨブ記』に於いてもまた、サタンは超自然的な使者、神の宮廷の一員として描かれている(10)。だが、バラムのサタンが彼を禍いから守ったのに対して、ヨブのサタンはもう少し敵対的な役割を果たす。ここでのサタンは、神がヨブに対して禍いをもたらすように煽動する。そして神は自らその煽動に乗るのである(第二章三節)。物語はまず、サタンが天使すなわち「神の息子」(ben ’elōhīm) として登場するところから始まる。この言葉は、ヘブライ語のイディオムでは、しばしば「聖なる者のひとり」を意味する。ここで天使サタンは、「主の前に神の使いたちが集まる」とされていた日に、他の天使たちと共にやってくる。そこで主が、おまえはどこから来た、と尋ねると、サタンは答えて言う、「地上を巡回しておりました。ほうぼうを歩きまわっていました」。ここで作者は、ヘブライ語で「巡回する」を意味する shût という語と、サタンという語の音の類似を用いて言葉遊びを行ないながら、天の宮廷に於けるサタンの特別の役職を示している。すなわちそれは一種の巡回諜報部員であり、当時のユダヤ人の多くは、そうした役職の者を知り――そして嫌悪していた。当時のペルシアの王は、秘密警察と諜報局のシステムを高度に発達させていたからである。「王の目」「王の耳」として知られるこれら諜報部員は、帝国内を巡回しながら、人々の間に国王への謀反の徴候がないかどうか、監視していたのである(11)


原註

 7 多くの学者が、この事を指摘している。近年の研究の中では、Neil Forsyth, The Old Enemy: Satan and the Combat Myth (Prinseton: Princeton University Press, 1987), 107 に「キリスト教徒には ……『旧約聖書』として知られている文書群に於いては、この言葉[サタン]は … 敵の名前として登場することはない。…… むしろ、『旧約聖書』にサタンが登場するときは、彼は天の宮廷の一員であり、ただ特殊な任務を持っているというだけである」。〔以下略〕

 9 Forsyth, The Old Enemy, 113.

10 Day, An Adversary, 69‐106 に於ける論考を参照。

11 Forsyth, The Old Enemy, 114.



Neil Forsyth

“THE OLD ENEMY”

Satan & the Combat Myth

© 1987 by Princeton University Press

『古代悪魔学』

サタンと闘争神話

〔ニール・フォーサイス/著 野呂有子/監訳 倉恒澄子 小山薫 田中洋子 圓月勝博 /訳 2001年05月30日 財団法人 法政大学出版局/発行〕


 第五章 旧約聖書のサタン

 (p.147)

 ヘブルの宗教が「諸民族への光」としての新しい特質を持つに至ったのは、預言者である第二イザヤによるところが大きい。


 (p.149)

とにかく第二イザヤは、神は闇も光も造る、というひたむきな信仰を言明している。〔中略〕 ことに、ヤハウェは悪を生み出すのである。

 聖書の執筆者で、一神論の見解をこれほど徹底して支持しているのは、他にはヨブ記著者のみである。


 (pp.150-151)

 残念なことに、ヨブ記がいつ、どこで書かれたかについて、専門家はいかなる合意にも達していない。

〔中略〕

 ヨブ記の持つ哲学的深みにも、第二イザヤの持つ情熱のこもった明晰さにも、ヘブルの一神論はほとんど到達しなかった。〔中略〕 やがて、それ自身確かに悪である闇が独立した存在となり、それを造ったのは神であると第二イザヤが断言している、神そのものに敵対することになるだろう。

 われわれが知るとおり、ヨブ記のテクストは民話の枠組みで始まっているが、そこでの「サタン」が後に発展する根源を、われわれはヨブ記にも見いだすであろう。ヨブ記の大部分は完全に地上が舞台となっており、われわれはヨブ自身と友人たち、妻の視点からヨブの災いを見ることを許されるのだが、この書は短いプロローグの後、天の法廷での場面と、神とサタンとの賭けで始まっている。ここで「サタン」という単語は定冠詞を伴っているので、固有名詞というよりも称号であり、「司法長官」か「検察官」にほぼ相当するものである。ウガリト語のテクストによく出てきて、神の息子たちを表わし、ヘブル伝承ではおおむね天の法廷のメンバーであると考えられる「ベネ・エロヒーム」の一人として、「サタン」は描かれている。


 (p.154)

 ヘブル語の śṭn は母音がついて śāṭān となり、英語の opponent(敵対者)に近い意味を表わすが、その根本にある意味は「道をふさぐ」、「じゃまをする」ということである。例えば、バラムのロバについての奇妙な挿話において、ヤハウェの天使であるマラク・ヤハウェは、 le‑śāṭān‑lō ――「かれに対する障害物として」――道に立って、行く手をふさぐ。モアブへのバラムの旅は〔神に〕認められなかったので、この天使は神の意志を遂行しているにすぎない。そして思慮あるロバは、乗り手がこの障害物に気づかず、何度も促したにもかかわらず、障害物が目に入るだけの知覚をもっている。七〇人訳聖書[セプトゥアギンタ](ギリシア語訳)はここで endiaballein という語を用いているが、その根本にある意味はやはり「道をふさぐように何か置くこと」である。diabolos というのは、diaballein という動詞の表わす行為をなす人物である。śāṭān および diabolos という単語は、同様に不快な意味に進んでいったけれど、バラムのロバの挿話は、そのどちらの単語にも必要悪など付随しない、ということを示している。もし道が悪ければ、障害物はあってよいのだ。


 (pp.156-157)

 ここでのヘブル語の糸口は「行き巡る」をあらわす語 šûṭ である。ヘブル語もアラビア語も、英語よりずっと容易に語呂合わせの可能な言語だが、それは書きことばの古い形態に母音がなかったためである。よってわれわれは、こんなデリダ J。一九三〇年-、フランスの哲学者)風のことば遊びに遭遇するたびに、必ずしも何か深遠な意味を想定する必要はない。しかし少なくともこの場合、ヨブ記の著者は「敵対者」の一般的な概念と響き合うように、より限定された概念を持ち込んだのである。ヘロドトスが述べているが、ペルシアの勢力は、「王の眼」とか「王の耳」として知られる者もいた巧妙な諜報部員制度に大いに依存していたということである。この制度は Savak (イランの秘密警察組織、一九五七-七九年)KGB(旧ソ連国家保安委員会)にも似た、一種の秘密警察機構であり、その目的は地方総督の監視を続けること、いかなる暴動の動きもかぎつけて報告することであった。クセノフォン(前四三〇頃-三五四年頃、ギリシアの軍人、著述家)は「王には多くの耳と多くの眼がある」ということわざを引用している。だからこのヘブル語の語呂合わせは、偉大なる王の臣下を特に悩ませたに違いないある制度に言及しているのであって、少なくともヨブ記のサタンに関する部分はペルシア時代に書かれた、ということを暗示するのかもしれない。この šûṭ という単語に、これと類似した動詞「歩き回る」(hiṯhallēḵ) がつけ加えられているが、この語は、危害を加えようとして歩き回る邪眼や、悪霊に適用されるアッカド語の単語と、語源をともにしている。



 ―― 以上、ながながと、参考資料の引用をしましたけれど。ここから、本題となります。


⛞ さて、ニール・フォーサイス/著『古代悪魔学』 (p.156) の記述を、原注を含めてあらためて引用しますと、


ヘロドトスが述べているが、ペルシアの勢力は、「王の眼」とか「王の耳」として知られる者もいた巧妙な諜報部員制度に大いに依存していたということである。(29)

(29) How and Wells 1928 : vol.1, 108. この考え方を最初に展開したのは Tur‐Sinai 1957 である。


と、書かれていて、その本文の原文と原著参考文献は、次のとおりです。


Herodotus tells us that the power of Persia depended heavily on an elaborate system of intelligence agents, some of whom were known as “The King's Eye” or “The King's Ear.” 29


How and Wells 1928

 HOW, W. W., and WELLS, J. 1928. A Commentary on Herodotus. 2 vols. Oxford: Clarendon.


Tur‐Sinai 1957

 TUR‐SINAI, N. H. (Harry Torczyner). 1957. The Book of Job: A New Commentary. Jerusalem: Kiryath Sepher.


―― この点について、若干の考察を加えてみますと、


ペルシアの勢力は、「王の眼」とか「王の耳」として知られる者もいた巧妙な諜報部員制度に大いに依存していたということをヘロドトスが述べているという情報は、


 HOW, W. W., and WELLS, J. 1928. A Commentary on Herodotus. 2 vols. Oxford: Clarendon.


に記されている内容を参考にしたものである、と読めます。

 その原著参考文献 HOW, W. W., and WELLS, J. 1928. A Commentary on Herodotus. 2 vols. Oxford: Clarendon. の記述については、1912 年の版で、原文の内容確認ができました。


“A COMMENTARY ON HERODOTUS”

WITH INTRODUCTION AND APPENDIXES

 by W. W. HOW and J. WELLS

IN TWO VOLUMES

VOLUME I (BOOKS I-IV)

OXFORD AT THE CLARENDON PRESS 1912


BOOK I

 (p.108)

114 2

 ὀφθαλμόν. The ‘eyes and ears’ of the Great King (cf. Xen. Cyr. viii. 2. 10) were thought by the Greeks to be a sort of spy system (cf. 100. 2), but this is an exaggeration. The ‘eye of the king’, however, was a real officer, in constant attendance on him (cf. Aesch. Pers. 980, and ‘Pseudartabas’ in Arist. Ach. 92).



⛞ この引用文中の、(cf. Xen. Cyr. viii. 2. 10) とは、Xen = Xenophon’, ‘Cyr = Cyropaedia で、つまり、


“Cyropaedia of Xenophon” 邦題『キュロスの教育』 8 巻・第 2 章・第 10 節を参照


という、意味になります。


⛞ またギリシャ語の、ὀφθαλμόν という語句について、辞書には、


ὀφθαλμός ①眼、視力、視界、

ὀ. βασιλέως 大王の眼=ペルシャ王の目付役


と、記されています。


 ◎ それでは、今回最後の引用としてここで、ヘロドトスの『歴史』および、クセノフォン (Xenophōn) の著作『キュロスの教育』の該当個所と、その第 11 節・第 12 節を続けて参照しておきましょう。



ワイド版 岩波文庫 294

Herodotus HISTORIAE

『ヘロドトス 歴史』(上)〔全 3 冊〕

〔松平千秋[まつだいら・ちあき]/訳 2008年02月15日 岩波書店/発行〕


 巻一

 (p.95)

 100 彼〔デイオケス〕はこのような諸制規を定め、独裁権をふるって自己の地位を強化したのち、治安(正義)を守るのに極めて峻厳な態度をもって臨んだ。訴訟は文書にして彼の許へ届けると、それに裁定を下して返すのである。訴訟については右のようにしたが、その他の事柄については次のように処理した。不法な行為をしたものがあるときくと、その者を連れてこさせ、そのときどきの罪に応じて処罰した。そして全領にわたって監視探知のための密偵をめぐらしていた。

 101 デイオケスはメディア民族のみを統一し、これを統治したのであった。メディア民族の中には、ブサイ、パレタケノイ、ストルカテス、アリザントイ、ブディオイ、マゴイなどの部族がある。メディアにはこれだけの部族があるのであるが、さて ――

 (pp.105-106)

 114 この子供が十歳になったとき、この子供の身に次のようなことが起って、その素姓が明るみにでることになった。ある日その子供は村の路上で ―― 牛飼たちの牛舎もその村にあったわけだが ―― 同じ年頃の子供たちと遊んでいた。そして遊びの間に子供たちは、牛飼の子ということになっていたこの子供を、自分たちの王様にえらんだのである。王様にえらばれたその子供は、子供たちの分担をきめ、家を建てるもの、王の護衛をするもの、また一人はいわば「王の目」となるもの、また王にいろいろな報告をする役のもの一人、というふうに子供ひとりひとりに役目を与えた。さて子供の中に、メディアでは名士であったアルテムバレスという者の子供も一緒に遊んでいたが、キュロスから言い付かったとおりしなかったので、キュロスはほかの子供たちにその子供を捕えさせ、捕えてくるとその子を鞭で打ってさんざんな目に遭わせた。やがてその子供は放してもらうと、自分のようなものが受けるはずでない仕打を受けたという気持から一層腹が立ち、町へ帰りキュロスからされたことごとを父に訴えたのである。もちろんキュロスはその頃はまだキュロスという名ではなかったから、アルテムバレスの子も、キュロスとはいわず、アステュアゲス王の牛飼の子だといったのである。アルテムバレスは怒ってその子供を連れてすぐさまアステュアゲスの許へゆき、怪しからぬ目に遭いました、といい、

 「王よ、私どもはお抱えの奴隷、牛飼奴の伜からかような狼藉に遭いました。」

と子供の両肩を示した。



『キュロスの教育』

﹝クセノポン (Xenophōn) /著 松本仁助[まつもと・にすけ]/訳 2004年02月15日 京都大学学術出版会/発行〕


 第 8 巻 「第 2 章」

 (p.354)

10 いわゆる王の目、王の耳と呼ばれる者たちを彼は贈り物や名誉を与える以外の方法で獲得しなかったのを、われわれは知っていた。すなわち、王にとって重要なことを知ってほしいと願って知らせてくれた者たちにおおいに報いることで、王に役立つのには何を知らせたらよいのか、と多くの者に彼は聞き耳を立てさせたり、探らせたりしたのである。11 この結果、多くの目と多くの耳が王のものである、と見なされた。王は一人の目を選ぶべきだという考えの者がいるなら、その者は正しい考えをしていない。一人ならわずかのことしか見えないし、聞けないからである。また、一人だけにそのようなことが命じられると、他の者はいわば注意を払わなくてよい、と命令されているようなものである。そうでなく、何か注意をする価値のあることを聞くか見るかした者すべての言うことに王は耳を傾けるのである。12 このようにしているからこそ、王は多くの耳と多くの目を持っている、と信じられている。また、人々はどこにいても王が聞いているかのように王に不都合なことを言ったり、王が側にいるかのように王に不都合なことをするのを恐れたのである。したがって、キュロスの悪口を人に言うようなことを誰もあえてしないばかりか、常に側にいる者がすべて王の目であり、耳であるように各人は振る舞った。人々が彼にこのような態度をとったのには、彼が小さな功績にも大きく報いる気持を持っていたことが、もっとも大きな原因である、とわたしは見ている。



⛞ この第 11 節・第 12 節に多くの目と多くの耳が王のものであるあるいは王は多くの耳と多くの目を持っているという、記述もあるわけです。


  というわけで、以上の参考文献の内容に、若干の考察を加えて、今回の最後に判明したのは、ヘロドトスが述べているが、ペルシアの勢力は、「王の眼」とか「王の耳」として知られる者もいた巧妙な諜報部員制度に大いに依存していたという、ニール・フォーサイス氏の記述は、何らかの誤解を招いているようにも思われるということなのです。


―― その他の資料を参照・引用したページを、以下のサイトで公開しています。


ヨブ記のサタンとキュロス王の目と耳

http://theendoftakechan.web.fc2.com/eII/amrta/iob.html


2022年3月11日金曜日

旧約聖書の救世主キュロス王

 前回(2021年12月25日土曜日)には「ミトラス教と冬至の救世主伝説とマギ」として、次のように書きましたが……。


――――

 その昔、ローマ帝国では、

274 年に、アウレリアヌス帝が太陽神の宗教を国教化し、

12 月 25 日「不敗なる者の生誕の日」(Dies Natalis Invicti) が国の祭日とされて、

これが、クリスマスの起源となりました。


 そして紛れもなく、クリスマスの日付設定には、ミトラス教の太陽神の誕生日が用いられているということなのです。


 ◎ ここでマギの立場を考慮するなら、救世主として、ミトラ神を想定していたようでもあります。

――――


 とかいうわけで。

 救世主伝説はどうやら、キリスト教よりも先に、ミトラス教で盛んだったようです。


 ⛞ また以前にも触れたことがあるのですけれども、そもそも、旧約聖書時代の(ユダヤ教の)救世主伝説というのは、ペルシャの王から始まったようなのです。



『聖書 新共同訳』

 旧約聖書「イザヤ書」

45. 1

 (p.1135)

 主が油を注がれた人キュロスについて

 主はこう言われる。



『新共同訳 旧約聖書注解Ⅱ』

〔1994年11月20日 日本基督教団出版局/発行〕

 「イザヤ書」 注 解

 四四・二四-四五・一三 キュロスによる解放

 (p.337)

このうち特にキュロスに対して四五・一では改めて《油を注がれた人〔マーシーアハ〕》という呼称が与えられ、その戦勝が約束される。マーシーアハは新約聖書ではメシアースと音訳され(新共同訳は《メシア》)、キリストを指す(ヨハ一・四一、四・二五)が、旧約聖書では終末論的救済者を表すことはない。むしろ現実の王(サム上二・一〇、一二・三、五、詩一八・五一など)、祭司(レビ四・三、五、一六など)、預言者(詩一〇五・一五)などの称号である。



『歴史学事典』【第 11 巻 宗教と学問】

〔平成16年02月15日 弘文堂/発行〕

 (P. 635)

メシア

[ヘブライ] māšîaḥ [希] Christōs

 メシアとは、ヘブライ語聖書(旧約聖書)で頻出するヘブライ語「マシーアハ」に由来する言葉で「油注がれた(人あるいは物)」を意味する。七十人訳ギリシャ語聖書では「クリストス」となる。また、ヘブライ語の音表記をそのままギリシャ語に用いた例として、新約聖書の『ヨハネ福音書』で、最初の弟子がイエスをメシアと呼ぶ記述がある (1 : 41)。この語の元来の意味は、古代イスラエルにおいて、何らかの人や物を神聖なものとして公共の目的のために聖別する儀礼において、その人や物にオリーブ油を注いだことを指す。



―― その他の資料を参照・引用したページを、以下のサイトで公開しています。


旧約聖書の《メシア》キュロス王

http://theendoftakechan.web.fc2.com/eII/amrta/messias.html


2021年12月25日土曜日

ミトラス教と冬至の救世主伝説とマギ

 その昔、ローマ帝国では、

274 年に、アウレリアヌス帝が太陽神の宗教を国教化し、

12 月 25 日「不敗なる者の生誕の日」(Dies Natalis Invicti) が国の祭日とされて、

これが、クリスマスの起源となりました。


 当時のローマ周辺で、太陽神の宗教であるミトラス教が盛んだったのです。が、

その後、コンスタンティヌス帝は政治的な理由で、キリスト教徒を弾圧するのはやめて、

313 年に「ミラノ勅令」によりキリスト教信仰の自由を保証。

325 年に「ニカイア公会議」を招集。


 そしてついに「ニカイア公会議」の結果を得て、

354 年には、ミトラス太陽神誕生の日と伝承される冬至が、キリストの誕生日として制度化されたようです。


12 月 25 日は「不滅の太陽の生誕日」(Natalis Solis Invicti) とも、いわれています。


 やがてローマ帝国を再統一したテオドシウス帝が、キリスト教をローマの国教にしたのは、392 年のことでした。


 ◯ ここに登場する〈ミトラス神 (Mithras) とは、

ゾロアスター教では〈ミスラ (Mithra) とも〈ミフル (Mihr) ともいわれ、

インドの『リグ・ヴェーダ』では〈ミトラ (Mitra) と、呼ばれる神のことになります。


 そしてローマの「ミトラス教(ミトラ教)」は、『プルタルコス英雄伝』に最初の記述があります。

―― 引用します。



ちくま学芸文庫

『プルタルコス英雄伝』

〔プルタルコス/著 村川堅太郎/編 1996年10月09日 筑摩書房/発行〕


ポンペイウス 〔吉村忠典/訳〕

 (p.94)

また彼らはオリュンポス(1)で異国風の犠牲式をとり行ない、さまざまな密教の祭祀をも行なったが、なかんずくミトラ教は、彼らが最初に輸入したもので、今の世にまで伝えられている。

 (1) 有名なオリュンピアでもオリュンポス山でもなく、小アジア南岸のリュキア地方にある小邑。



 ◎ この記述の前後に「ミトリダテス戦争」と呼ばれる戦争の様子が描かれており、それは紀元前 1 世紀のこととされています。



中公新書 2523

『古代オリエントの神々』

〔小林登志子/著 2019年01月25日 中央公論新社/発行〕


 第一章「 4 ミトラス神 ―― 変容した太陽神」

 (pp.86-87)

 前一世紀前半には、アナトリアの地中海岸、特にその東部に位置したキリキア地方には海賊たちの拠点があった。多くの海賊たちの出自はヘレニズム諸王国の軍人たちであって、彼らが仕えた王国は紀元後一世紀までにはローマ帝国領に組み込まれてしまい、軍隊は散り散りになってしまう。敗残兵たちの中には身分の高い、教養のある者もいたが、アナトリア高原の盗賊や地中海東部の海賊となりはて、ローマ軍と戦った。

 中でも、ポントス王国(前三世紀前半~前六四年)のミトリダテス六世(在位前一二〇~前六三年)はローマのアジア侵攻に抵抗し、しぶとく戦った。この戦いはミトリダテス戦争(前八八~前八五、前八三~前八二、前七四~前六四年)と呼ばれ、三次にわたる長期戦だった。一時は挽回したものの、ポンペイウスの前に敗退し、ミトリダテスは自殺した。



 さて、新約聖書の「マタイによる福音書」で星に導かれてエルサレムにやってくる

占星術の学者たち》というのは、ラテン語聖書では《 Magi 》と書かれていて、

原典のギリシャ語聖書では、《 μάγοι 》と記述されています。



『聖書 新共同訳』

 新約聖書「マタイによる福音書

2. 1-2

 (p.2)

 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」



『ギリシア語 新約聖書釈義事典 Ⅱ』

〔新井献 H.J. マルクス /監修 1994年05月10日 教文館/発行〕

 (p.433)

μάγος, ~ου, ὁ [magos] 魔術師、占い師、占星術師、博士

 新約に 6 回見られる。マタイの幼な子[イエス]の物語( 2:1, 7, 16[ 2 回])によれば、「占星術の学者たち/賢者たちが東の方から (μάγοι ἀπὸ ἀνατολῶν) 」( 1 節)、生れたばかりの幼な子を拝むためにエルサレムに来る( 2 節)。

 μάγοι は、ペルシアの宗教の中で祭司の職に就き(ヘロドトス Ⅰ 101 )、天文学ないしは占星術に携っていたメディアの一部族の名前に溯る。



NESTLE-ALAND “ NOVUM TESTAMENTUM LATINE ”

EVANGELIUM

SECUNDUM MATTHAEUM 2, 1–2

 (P. 3)

 Cum autem natus esset Iesus in Bethlehem Iudaeae in diebus Herodis regis, ecce Magi ab oriente venerunt Hierosolymam 2 dicentes: «Ubi est, qui natus est, rex Iudaeorum? Vidimus enim stellam eius in oriente et venimus adorare eum».




 ◎ ここでマギの立場を考慮するなら、救世主として、ミトラ神を想定していたようでもあります。

 そして紛れもなく、クリスマスの日付設定には、ミトラス教の太陽神の誕生日が用いられているということなのです。



―― その他の資料を参照・引用したページを、以下のサイトで公開しています。


ミスラとミトラとミトラス教

http://theendoftakechan.web.fc2.com/eII/amrta/mithra.html


2021年11月28日日曜日

紀元前 5 世紀「王の道」を早馬の伝令が駆け抜ける

 紀元前 480 年に、ダレイオス 1 世の子で、ペルシャ王のクセルクセス 1 世がギリシャに遠征するのですけれど、サラミスの海戦で大敗して帰国します。その際に、真っ先に急を告げる騎馬伝令がペルシャに向けて走破したのは「王の道」と呼ばれる公道でした。

◎「王の道」とは、アケメネス朝ペルシャで中央集権を確立したダレイオス 1 世 の時代に整備された、スサからサルディスに至る 2400 km に及ぶ帝国の大幹線です。

 紀元前 5 世紀のギリシャの歴史家ヘロドトスは、「王の道」を駆け抜ける騎馬伝令を〈アンガレイオン〉の名で次のように紹介しています。



ワイド版 岩波文庫 296ヘロドトス 歴史』(下)

〔松平千秋/訳 2008年04月16日 岩波書店/発行〕


 巻八

 サラミスの海戦~クセルクセスの退却

 (p.237)

 九八 クセルクセスは右のように行動すると同時に、現在の苦境を伝える飛脚をペルシアに送った。さておよそこの世に生をうけたもので、このペルシアの飛脚より早く目的地に達しうるものはない。これはペルシア人独自の考案によるものである。全行程に要する日数と同じ数の馬と人員が各所に配置され、一日の行程に馬一頭、人員一人が割当てられているという。雪も雨も炎暑も暗夜も、この飛脚たちが全速で各自分担の区間を疾走し終るのを妨げることはできない。最初の走者が走り終えて託された伝達事項を第二の走者に引き継ぐと、第二走者は第三走者へというふうにして、ちょうどギリシアでヘパイストスの祭礼に行なう松明 [たいまつ] 競争のように、次から次へと中継されて目的地に届くのである。この早馬の飛脚制度のことをペルシア語ではアンガレイオンという。



―― 先月分も含めて、その他資料を参照・引用したページを、以下のサイトで公開しています。


有角神と一角獣の紋章

http://theendoftakechan.web.fc2.com/eII/amrta/horn.html


2021年10月29日金曜日

有角神と一角獣の紋章

◎ インダス文明の出土品について、前回の最後に参照した資料からあらためて抜粋しておきましょう。



『インダスの考古学』

〔近藤英夫/著 2011年01月20日 同成社/発行〕


 第 5 草 文明の精神世界 ―― 支配者の姿

「1 文明期の神々」

 (pp.77-80)

 インダス文明では、メソポタミアとは異なり信仰・宗教に関する文献資料が欠如している。そのために信仰に関する図柄を手がかりとして、文明期の宗教について検討していく。

 印章や銅製護符や土製護符に刻された文明の信仰図柄は、以ドのⅠ~Ⅸに分けることができる。すなわち、


Ⅰ)有角神(頭部にスイギュウの角と植物を生やす)

Ⅱ)半人半獣神(捻れたヤギの角と植物を生やす)

Ⅲ)牛男(有角)

Ⅳ)一角獣

Ⅴ)有角獣(複合獣)

Ⅵ)スイギュウ

Ⅶ)複頭獣

Ⅷ)トラと闘う神

Ⅸ)ボダイジュ


 以ド、個別にその特徴をみていく。


Ⅰ)有角神

 跏跌座像と立像とがある。いずれの場合も大きく湾曲した角をもち、両角の間には植物表現がなされている。湾曲した角はスイギュウの角を模したものと推定される。また、上・下腕いっぱいに腕輪をつけていることも特徴の一つである。

 跏跌座像は、多くは牀(胡坐用の台)の上に乗っている。三面の顔をもつといわれている。頭部には角と植物を生やし、両手を広げて膝にあて牀に座している。人物の周囲には動物が描かれている。

 もっともよく知られているのは、モヘンジョ・ダロ出土の印章に刻された有角神像である(図 24-1 )。〔略〕中央の人物がこれらの動物を従えていると解釈でき、ここからこの人物像は「獣王」の性格を有しているとされ、〝シヴァ神の祖型〟と考えられてもいる。しかし、シヴァ神の成立は文明期よりも 1000 年近くの後であり、ただちに祖型としてよいかどうかは疑問である。この人物像は周囲に動物を配さずに単体で描かれることもある。また、ハラッパー出土の土製護符には、人物像の前でスイギュウを屠っている場面が描かれている。供儀のシーンである。

 立像の場合は、頭部に角と植物を生やした長い後ろ髪の人物がボダイジュの樹の間に立つ姿であらわされる。モヘンジョ・ダロから出土の印章は、儀礼的シーンを描いたものである(図 24-2 )。〔略〕儀礼的シーンではなく、人物像が単体で描かれる場合もある(図 24-3 )。この場合も、樹の間に人物が表現されている。ドーラーヴィーラー出土の印章にもその例がある。



Ⅱ)半人半獣神

 頭部にヤギ科の動物の角と植物を生やし、下半身がトラで上半身は人間である。角は、頭部には角と植物、そして編んだ後ろ髪が表現されており、腕いっぱいに腕輪をつけている。

 〔略〕


 (p.81)

Ⅳ)一角獣(図 27 )

 想像上の有角動物である。印章に刻された全図柄の 60% がこの一角獣である。



Ⅴ)有角獣(複合獣)

 トラ、ゾウなどに角をつけて表現されたものである。これも神格の表現と考える。〔略〕


 (pp.82-83)

Ⅶ)複頭獣

 複数の首部をもつキメラ。〔略〕


Ⅷ)トラと闘う神

 中央に立つ人物が、後ろ足で立つ左右のトラをおさえている図柄である。印章・護符にみられる。人物像には角がみられず、また腕輪もつけていない。モヘンジョ・ダロ出土の印章の図柄では(図 31 )、このシーンのみであるが、ハラッパー出土の土製護符では、足下にゾウが描かれている。

 このモチーフはメソポタミアに起源するとされている。メソポタミアの場合は、両側の獣はライオンであることが多く、インダス的に変容したものと考えられる。



Ⅸ)ボダイジュ

 ボダイジュを中央におき、シンメトリーに動物などを配する図柄がある。ボダイジュと一角獣が組み合わさったものと、ボダイジュが中心で両サイドに人物が配されているものとがある。初期ハラッパー文化期以来の植物信仰の伝統が、文明期に引き継がれたととらえてよい。

 樹木を中央におき、シンメトリーに動物などを配する描き方はメソポタミア起源の生命の樹の描き方に通ずるが、彼我の関係は不明である。


「2 神々のつくり出す世界 ―― 在地の神と外来の神 ――」

 (p.83)

 以上が文明の信仰表現である。基本的には、初期ハラッパー文化期からの角と植物の信仰伝統を引き継いでいるとみてとれる。ただ、初期ハラッパー文化期と違って、文明期には信仰表現が多様化する。おそらくは、Ⅰ)有角神(図 24 )が主神であろうが、それ以外にもさまざまな神が登場する。

 (pp.84-85)

 文明は近隣の、そして遠隔のさまざまな地域と交渉をもつ。その過程で、インダス平原の信仰伝統から逸脱した神もまた文明期に現れる。そしてそれをも含み込んで、文明の神々の世界は展開する。文明期には、初期ハラッパー文化期の伝統から逸脱したものもパンテオンに加わる。

 〔略〕

 Ⅶ)複頭獣であるが、いくつもの首を描く表現は、湾岸式の印章の図柄の表現にある。モヘンジョ・ダロ出土の円形印章では、六つの有角動物の首のみが同心円上に描かれている。この動物は、丸い大きな目をもつことも特徴としてあげられる。こうした図柄の起源は、ペルシャ湾岸のバハレーン島を中心に展開したティルムン(ディルムン)文明の湾岸式印章の図柄に求めることができる。これらから考えて筆者は、湾岸の影響を受けてインダス文明版図内で成立した図柄と推測している。また、三つの首をもつウシ科の動物は、元来湾岸起源の図柄がインダス的に変容したものと考えたい。

 Ⅷ)トラと闘う神も文明圏外に起源が求められる神である。図柄の中央に描かれている人物像は角をもたない点で、インダス文明の基本的な信仰からは異質な神である。パルポラによれば、「中央の人物が左右の猛獣を抑えている」図柄はメソポタミア起源のものであり、中央の人物が猛獣を押さえるという図柄はメソポタミア、イランの諸遺跡に広く分布しているという。猛獣は、メソポタミアの場合はライオンであり、イランでは想像上の動物になる。〔略〕

 初期ハラッパー文化期以来の伝統にもとづく「スイギュウの角と植物」の有角神が在地の神とすれば、「半人半獣神」「複合獣」そして「トラと闘う神」は外来の神である。メソポタミアや湾岸に起源をもつ神が、文明のパンテオンに組み込まれたとしてよい。アフガニスタン、イラン、湾岸、メソポタミア各地域と深くかかわるグループが、文明に存在した証しであるとしたい。



◎ というわけで、

中央の人物が猛獣を押さえるという図柄はメソポタミア、イランの諸遺跡に広く分布しているという

ことと、

猛獣は、メソポタミアの場合はライオンであり、イランでは想像上の動物になる

ということが、あらためて確認できた次第です。


2021年9月1日水曜日

エジプトとインダスと英雄ギルガメシュ

 ◎ ライオンを制圧する伝説のギルガメシュ王を表現したと思われる、有名な図柄がありますが、その絵柄と同じような構図を持つ出土品が、メソポタミア以外で、エジプトとインダスの遺跡からも発見されています。


『五〇〇〇年前の日常』シュメル人たちの物語

〔小林登志子/著 2007年02月22日 新潮社/発行〕

 Ⅳ 商人が往来する世界

エジプト人と戦ったシュメル人

 (pp.162-163)

 古代のシュメル人とエジプト人との交流を示す手掛かりが残っている。たとえば、エジプトでは、先王朝時代(前五五〇〇~前三一〇〇年頃)後期の遺跡からはシュメルの円筒印章が出土しているし、同じ時期に作られた「ジェベル・エル・アラクのナイフ」は一九世紀末にフランスの考古学者 G・ベネディトが中部エジプトのジェベル・エル・アラクで購入し、ルーヴル美術館に収蔵された。フリント(火打石)製ナイフの柄は河馬の牙製で両面に装飾が施されているが、その中にメソポタミアとエジプトとの交流を物語る面白い図柄がある。一方の面には、メソポタミアにおけるウルク文化期(前三五〇〇~前三一〇〇年頃)後期の円筒印章印影図などに見られる王の姿とそっくりの人物が前後にライオンを御している。

 もう一方の面は船戦[ふないくさ]の場面で、二種類の船が見える。

 柄の真ん中よりも少し下に見える船は船首、船尾ともに垂直に持ち上がった形で、この形の船はウルク文化期の円筒印章印影図に見え、シュメルの船である。また、下の方の船はエジプト先王朝時代の土器に描かれている船と同じ形で、エジプトの船である。これはシュメル人とエジプト人が戦った記録で、エジプト人はシュメル人に勝ったことを伝えたかったにちがいない。負け戦は記録に残さないだろう。



 ◎ このナイフは、

『世界美術大全集 第 2 巻』〔 1994 年 4 月 10 日 小学館発行〕

「エジプト美術」(p.344) では、


  ナイフ

  先王朝 ナカーダⅢ期 前 3200 年頃

  伝ジャバル・アル=アラク出土

  フリント 河馬の牙 長さ 25.5 cm

  Knife with relief

  Probably from Jabal al-Arak.


と記録され、また他の文献で、次の記事とともに紹介されています。


『NHK ルーブル美術館 Ⅰ』

文明の曙光 古代エジプト/オリエント

〔高階秀爾/監修 青柳正規/責任編集 昭和60年05月20日 日本放送出版協会/発行〕

 (p.21)

ゲベル・エル・アラクのナイフ

 上エジプトのゲベル・エル・アラクから出土したのでこの名がある。先史時代紀元前 3400 年頃の重要な遺品で、淡褐色の燧石に刻まれた刃は金の薄片で固定されていたが、その跡を残すだけである。象牙製の柄の両面に精巧な浮彫が刻まれている。

 戦闘場面は、坊主頭の民族と、長く編んだ髪を垂らした民族とが、ナイル河の上で戦闘している。人物はすべて裸体で、戦死した兵士の遺体が船の間に横たわっている。坊主頭の民族は、おそらく侵入したアジア人で、他がエジプト人であろう。

 ライオンの面は、中央の突起部の周囲に、家畜がライオンに襲われている場面が展開し、首輪をつけた番犬が見られる。上方の 2 頭のライオンを締めつけているひげの男は、メソポタミアの伝説上の英雄ギルガメシュを想起させる。この浮彫は美術的にも優れているが、先王朝時代すでにエジプトとメソポタミアの交流が平和と軍事の両面で存在したことを物語る。先王朝時代。燧石・象牙製。



 ◎ インダス文明の遺跡からの出土品については、次の資料から抜粋しておきましょう。


世界の考古学 18『インダスの考古学』

〔近藤英夫[こんどう・ひでお]/著 2011年01月20日 同成社/発行〕

 第 5 草 文明の精神世界

1 文明期の神々

 (p.82)

Ⅷ)トラと闘う神

 中央に立つ人物が、後ろ足で立つ左右のトラをおさえている図柄である。印章・護符にみられる。人物像には角がみられず、また腕輪もつけていない。モヘンジョ・ダロ出土の印章の図柄では(図 31 )、このシーンのみであるが、ハラッパー出土の土製護符では、足下にゾウが描かれている。

 このモチーフはメソポタミアに起源するとされている。メソポタミアの場合は、両側の獣はライオンであることが多く、インダス的に変容したものと考えられる。



 ⛞ という次第で、上記引用文中に「人物像には角がみられず」とありますけれども、インダス文明の遺跡から出土する〝角のある人物像〟の図柄は、〈シヴァ神〉と関連づけて考えられることが多いようです。―― 有角神その他の項目、等々については、あらためて参照する予定です。



―― その他の資料を、参照・引用したページを、以下のサイトで公開しています。


須弥山は〈スメール Sumeru 〉

http://theendoftakechan.web.fc2.com/eII/amrta/sumeru.html


2021年8月26日木曜日

アレクサンドロス大王のインド攻略以降の文化交流

アレクサンドロス大王のペルシア進軍から死去まで

紀元前 334 年、アレクサンドロス大王、ペルシア征討のため、小アジアに進軍する。

紀元前 330 年、アケメネス朝ペルシアの滅亡。

紀元前 326 年、アレクサンドロス大王、さらに東方へと侵攻し、西部インドを攻略する。

紀元前 323 年、アレクサンドロス大王、東方遠征からバビロンへの帰還後に、急逝する。


 アレクサンドロス大王がペルシアに向けて進軍したのは、紀元前 4 世紀末のことでした。

 アレクサンドロス大王のインド侵攻後、インド西部はしばし、ギリシア人の軍事的制圧下にあったといわれます。

 ギリシア人のメガステネース(メガステネス)は、紀元前 300 年頃に、大使としてインドに駐在し、帰国後に『インド誌』という記録を残しました。


 また『ミリンダ王の問い』(全 3 巻)〔中村元・早島鏡正/訳 1963~1964 年 平凡社/発行〕の第 3 巻にある早島鏡正氏の解説 (pp.324-325) には、次のように記されています。


『ミリンダ王の問い』という題は、翻訳名であって、Milindapañhā あるいは Milindapañho が原名である。パーリ語で書かれた聖典の一つである。

〔中略〕

『ミリンダ王の問い』は、紀元前二世紀の後半、すなわち紀元前一五〇年ごろに、西北インドを支配したギリシアの王メナンドロス(インド名をミリンダという)と、仏教の経典に精通した学僧ナーガセーナとの間にかわされた対論の書である。



 ◎ さてアレクサンドロス大王によるインド遠征以降のインドに関する記録については、次のような文献が参考になると思われ、ここにその一部を抜粋し、紹介しておきたく思います。


『インド史Ⅱ』(中村元選集〔決定版〕 第 6 巻)

 〔中村元/著 1997年09月10日 春秋社/発行〕


 〔付篇 1 〕 マウリヤ王朝時代研究資料

 四 文献資料

 ㈠ ギリシア・ローマの記録

  ⑵ メガステネースの『インド誌』

 (pp.557-559)

 インドとギリシアとの接触を真に密接にしたのは、アレクサンドロスの遠征であった。ヘレニズムおよびローマ時代のギリシア人がインドについて知っていた主要点はメガステネース Megasthenēs 前三五〇~二九〇年ころ)の言明にもとづくものである。彼はもとは小アジアのイオーニア人であるが、『インド誌』(Indika) と称する四巻の書を著わした。この書はチャンドラグプタ王時代のインドの実情を伝えているものとしてきわめて重要である。

 アレクサンドロス大王は西紀前三二六年にインドに侵入し、西部インドを攻略したが、翌年西方に帰還し、三二三年七月バビロンで客死した。その後、西北インドはしばらくのあいだギリシア人の軍事的制圧下にあった。西紀前三一七年頃にチャンドラグプタ (Candragupta) という一青年が挙兵して、マガダ王となりマウリヤ (Maurya) 王朝を創始したが、彼は西北インドからギリシア人の軍事的勢力を一掃し、インド史上初めてインド全体を統一した。たまたまシリア王セレウコス・ニカトール (Seleukos Nikatōr) がアレクサンドロスの故地回復を志して、三〇五年にインダス河を越えて侵入して来たが、チャンドラグプタはその軍隊を撃破した。両王の講和が成立してのち、セレウコスの大使としてチャンドラグプタ王の宮廷に派遣されたのが、このメガステネースである。彼についてシャントレーヌは論じる。――

 メガステネースはギリシア人であり、イオーニアの純粋のギリシア人の家系の出身である。彼はシリア王セレウコス・ニカトールの使臣としてアラコーシア (Arachōsia) の太守 (Satrapēs) であるシビュルティオス (Sibyrtios) の宮廷に来たり、次にそこから王の大使としてパータリプトラ (Pāṭaliputra) のチャンドラグプタ王の宮廷に派遣された。インドに滞在していた期間は不明であるが、チャンドラグプタ王とセレウコスとの講和は西紀前三〇四年または三〇三年であるから、そののちまもなくインドに派遣され、西紀前二九二年ころにインドを去った。彼はおそらく西紀前三五〇~二九〇年のあいだの人であるから、したがって、後人の記すように、セレウコス・ニカトール(西紀前三五八~二八〇年)とほぼ同時代の人である。

 メガステネースはつねに首都パータリプトラに滞在し、しばしばチャンドラグプタ王と会見したが、また閑暇には視察・調査の小旅行を行なっていた。ただしこの小旅行も、今日のビハール以外の土地には及ばなかったらしい。ガンジス河以東については、彼は何も知っていない。また西方地域については、せいぜい往復の途中通過する際に皮相の観察を行なったにとどまる。デカン地方に関する記述もきわめて乏しい。メガステネースは、さほど広範囲の旅行は行なわなかった、とアリアノスは批評している。


2021年7月22日木曜日

絲綢之路/絹の道/瑠璃の道

 絲綢之路がシルクロード(絹の道)の中国語であることはよく知られています。

 ラピスラズリ(青金石)ともいわれる瑠璃は「吠瑠璃」の略で、サンスクリット語の音写による漢訳語です。

 さて。

 古代のメソポタミアを中心に流通していた宝石ラピスラズリは、現在のアフガニスタン北東部ヒンドゥクシュ山脈北側のバダフシャーン(バダクシャン)地方を原産地とするようです。

 紀元前 3500 年頃には、アフガニスタン産のラピスラズリの交易路は、遠くエジプトにまで達していたとされます。

 またいっぽうで、ヒンドゥクシュ山脈の東側にはシルクロードの天山南路があり、そのキジルでは壁画にラピスラズリが青の顔料としてふんだんに用いられているために、「青の石窟」という別名があるようです。



 ◯ 次の資料でシルクロード以前の「ラピスラズリの路」について、詳しく語られていましたので抜粋して紹介しておきたく思います。



『漢代以前のシルクロード』運ばれた馬とラピスラズリ

〔川又正智/著 2006年10月05日 雄山閣/発行〕


 第Ⅲ章 ラピスラズリの路 ― 遠距離交渉の確認 ―

 a くりかえされる交易 ― 原料獲得の路

 (pp.39-40)

 シルクロードという名は絹を交易品代表として命名したものであり、また、絹馬交易・玉[ぎょく]ロードなどの名称もあり、宝貝・ラピスラズリ・ガラス・琥珀・毛皮なども遠距離交易のテーマとしてかたられることがおおいが、これらは生活上いわゆる贅沢品・奢侈品である。そのなかには産地を限定できるものがある。動植物・鉱物には原産地を特定できるものがあり、人工物には製作技術やデザインから生産地を決定できるものがある。ある地域に産しないものがそこにあれば、他地域から持ちこんだものにちがいなく、交易、すくなくとも何か関係のあった証拠である。

 かんがえてみれば、生物はもともと食料の確保できる地に棲息するもので、いわば自給自足で、これは人類も生物である以上おなじである。ただ、人類はある時から、実用品以外の奢侈品、あるいは実用品でもより良い物を、始めは少量であったかもしれないが段々多量に必要とするようになり、また生活技術の進歩によりそれまで知らなかった実用品を必要とする新時代になることもある。金属や石油はその代表である。その類のものはそれまで生きてきた生活圏にあるとはかぎらないし、さらに地球上の資源存在は均一ではなく偏在しているのだから、これを他地域・遠方から入手する必要にせまられるのである。

 実用品でふるくから到来品であったものは石器材料の石である。石などどこにでもあるようにおもうが、メソポタミア下流のような巨大な沖積地には無い。それに、石器はどの石でもおなじようにできるわけではなく、石器としてのよい石・わるい石がある。たとえば新石器時代の西アジアでは、現在のトルコ中・東部産の黒曜石がひろくイスラエルやイラク南部にまで分布している。とおい所は産地から、1000 km ちかくはある[ローフ 1994 pp.34‐35]。交場の実態は不明である。黒曜石は天然の火山ガラスで、非常に鋭利な刃をつくることができる。化学成分によって産地を同定できることがある。

 石器のひろがりが何故なのかはわかる。形によって機能がちがう。あの形につくればこういう場合に便利なのだ、あの形にするにはこうしてつくるのだ、とおもうだろう。それにはあの石質がよいのだ、ともおもうであろう。石器製作方法や石材はひろがっていく。

 土器の紋様のひろがりは何故であろうか。形や質は機能・つかい勝手と関係があるが、紋様まで他の村とおなじにするのは何故か。単に気に入ったデザインだから流行して行くというのか。土器はこの紋様、と決まっているのか(製作者が村々を巡回して行くとか、婚姻で入り込むとか、の説明がある)。我々はこのデザイン、という他族と区別する集団意識のようなものがあるのか。つまり、流行の範囲のことであるが、これがどう決まるのかは不思議である。


 b 〝遠方〟という意識 ― 他世界との交流

 (p.40)

 東西交渉とかシルクロードという言いかたは、文明圏・生活圏・政治圏などを超える他地域・他世界との交流・交渉ということが第一義なので、単に遠距離ということが問題なのではない。結果として遠距離交易などと言い換えることができるだけである。しかし、人は遠古からそんなに遠方と関係をもつものであろうか、ということは当然基本的な疑問としてある。もとより人類はアフリカに発生しそこから世界各地への拡散と推定されており、現生人類もその系統にはまだ諸説あるようであるが、どの説に立っても遠距離のグレイトジャーニーを成し遂げたにはちがいない。しかしこれは無意識の結果としての遠距離である。本書で問題にするのは、人類の拡散よりはずっと後の時代であり、〝遠方〟という意識がともなっている時代である。そこでまず、遠方・遠距離自体ということはやはり重要な要素であるのでそれをかんがえてみよう。〝距離〟は人間活動の上で、歴史の上で意味のあることである。


 c 宝貝の路

 (p.41)

 最古の遠距離到来奢侈品代表は宝貝(子安貝)であろう。

 (p.42)

石器時代から現代までながく、ひろく移動している物質である。

 ラピスラズリもそうであるが、現代の我々はこのような宝貝等を単なる王侯の贅沢品と解釈しがちであるが、当時は、いわば社会的宝物であったので、王侯個人の贅沢・宝物のみではなかったようである。漢字の貝字は宝貝の象形字である。これが貨・貯・財・寶など現在の意味では経済関係の文字にのこっているのは今いう通貨であったからではなくて、文字以前からもっと別な役割をになっていた名残である。


 d 金属器時代への変化

 (p.43)

 金属器時代になると、先に述べたように、金属は生物としてもともと何らかかわりのあった物質ではない新物質であり、さらに実用品でもあるので、金属は細々としたルートによる入手のみでは足らず、大量かつ継続的に原料を確保する必要が生じてくる。金属の入手は社会や経済の仕組をおおきく変えることになる。

 最近の学界では、初期金属器時代の変化としてメソポタミアのウルクや黄河流域の鄭州二里崗が大勢力化することをとりあげて、ウルクエキスパンション・二里崗インパクトなどと呼ばれる用語がつくられて議論されている。これは金属器時代に入った初期に勢力を持ち、大規模な資源探索部隊を遠征させた状況を代表する都市である。これらの都市こそが、金属のみならずラピスラズリや玉をもとめて遠距離交易を促進したのである。


 e ラピスラズリとは

 (p.44)

 ラピスラズリの古代における産地は、現在のアフガニスターン東北部ヒンドゥークシュ山脈北側バダフシャーン地方、ファイザーバード市南方コクチャ河(アム河の支流)ケラノムンジャン渓谷のサルイサング谷周辺に限定でき、現在も採掘している。


 f ラピスラズリの路

 (p.48)

 ラピスラズリの他に紅玉髄[カーネリアン]・トルコ石・容器をつくる凍石[クロライト]などの石も西アジア一帯を運ばれたものであることが最近わかっている[大津・後藤 1999 ; 後藤 2000]。またこれらは、エジプトからインダスにかけて出土するので、いわゆる古代四大文明のうちインダス・メソポタミア・エジプトはつながりのあることがわかるのである、農牧文化複合がおなじ西アジア型であることとともに。

 (pp.48-49)

 ラピスラズリの路については、関係報告書も見がたい本がおおいが、要点は『ラピスラズリの路』[堀・石田 1986]・『古代オリエント商人の世界』[クレンゲル 1983]にまとめてある。


引用・参考文献

[ローフ 1994 pp.34‐35]

  ローフ、マイケル 1994『図説世界文化地理大百科 古代のメソポタミア』(松谷敏雄監訳)朝倉書店

[大津・後藤 1999 ; 後藤 2000]

  大津忠彦・後藤健 1999『石器と石製容器 石にみる中近東の歴史』中近東文化センター

  後藤健 2000『インダスとメソポタミアの間」『NHK スペシャル 四大文明 インダス』(近藤英夫編)日本放送出版協会

[堀・石田 1986]

  堀晄・石田恵子 1986『ラピスラズリの路』古代オリエント博物館

[クレンゲル 1983]

  クレンゲル 1983「古代オリエント商人の世界」(江上・五味訳)山川出版社



―― その他の関連資料を、参照・引用したページを、以下のサイトで公開しています。


〈シルクロード Silk Road 〉の彼方より

http://theendoftakechan.web.fc2.com/eII/amrta/silkroad.html


2021年6月17日木曜日

薬師十二神将のサンスクリット語

 薬師如来の眷属である〝十二神将〟とは、12 の夜叉(薬叉)の大将のことでした。

 前回、中村元著『佛教語大辞典 縮刷版』を参照し、読み仮名を列記しましたけれども、今回はそれぞれのサンスクリット語を転記して、もとの意味をできる範囲で調べてみました。


使用した主な辞書は次のとおりです。


『佛教語大辞典』 縮刷版

中村元[なかむら・はじめ]/著

昭和56年05月20日 東京書籍/発行


『漢訳対照 梵和大辞典』 増補改訂版

財団法人鈴木学術財団/編

財団法人鈴木学術財団/刊

昭和54年08月20日 講談社/発売


Prin. Vaman Shivaram Apte,

THE PRACTICAL SANSKRIT-ENGLISH DICTIONARY

(Revised & Enlarged Edition)

V. S. アプテ『梵英辞典』(改訂増補版)

昭和53年04月15日 複製第1刷 臨川書店/発行


▣ 宮毘羅大將(くびらだいしょう)

kuṃbhīro nāma mahā-yakṣa-senāpatiḥ

kumbhīra 鰐魚(蛟・蛟龍) ⇨ 【漢訳】金毘羅

 कुम् भीरः ⇒ A shark, Crocodile

nāma ⇨ 【漢訳】雖已見、或見

 नाम ⇒ Named, called, by name

nāman ⇨ 【漢訳】名、名号

 नामन्  ⇒ A name, appellation, personal name

mahā (mahat) ⇨ 【漢訳】大、広大

 महा ⇒ The substitute महत्

yakṣa 超自然的存在 ⇨ 【漢訳】鬼神、夜叉、薬叉

 यक्षः ⇒

 N. of a class of demigods who are described as attendants of Kubera

senā-patiḥ 将軍 ⇨ 【漢訳】大将

 सेनापतिः ⇒ a general


▣ 伐折羅大將(ばざらだいしょう)

Vajro nāma mahāyakṣasenāpatiḥ

vajra 雷電;金剛石 ⇨ 【漢訳】金剛、金剛杵

 वज्र ⇒ adamantine, A thunderbolt, the weapon od Indra


▣ 迷企羅大將(めいきらだいしょう)

Mekhilo nāma mahā-yakṣa-senāpatiḥ

mekhalā 腰帯、帯[取り巻くまたは囲むものの譬喩にもちいる] ⇨ 【漢訳】帯、腰帯、宝帯

 मेखला ⇒ A belt, girdle, waist-band, zone in general


▣ 安底羅大將(あんちらだいしょう)

Antiro nāma mahāyakṣa-senāpatiḥ

anti 反対して、前に;近く

 अन्ति ⇒ Near, before, in the presence of

antika 近き ⇨ 【漢訳】近、所、処

 अन्तिक ⇒ Near, proximate

antima 最後の、最終の ⇨ 【漢訳】最後

 अन्तिम ⇒ Immediately following ; Last, final, ultimate


▣ 頞儞羅大將(あにらたいしょう)

anilonāma mahāyakṣa-senāpatiḥ

anila 風、Vāyu 神;生気 ⇨ 【漢訳】風

 अनिलः ⇒ Wind ; The god of wind


▣ 珊底羅大將(さんちらだいしょう)

Saṃthilo nāma mahāyakṣa-senāpati


▣ 因達羅大將(いんだらだいしょう)

indālo nāma mahāyakṣa-senāpatiḥ


▣ 波夷羅大將(はいらだいしょう)

Pāyilo nāma mahā-yakṣa-senāpatiḥ


▣ 摩虎羅大將(まごらだいしょう)

mahālo nāma mahāyakṣa-senāpati


▣ 眞達羅大將(しんだらだいしょう)

cindālo nāma mahāyakṣa-senāpatiḥ


▣ 招杜羅大將(しょうどらだいしょう)

caundhulo nāma mahāyakṣa-senāpatiḥ


▣ 毘羯羅大將(びぎゃらだいしょう)

Vikālo nāma mahāyakṣa-senāpatiḥ

vikāla 夕方 ⇨ 【漢訳】夜、暮、日暮、非時

 विकालः, -विकालकः ⇒

 1 Evening, evening twilight, the close of day.

 -2 Improper time, unseasonable hour



―― これまでに調べたものを含めて、それなりにまとめたページを、以下のサイトで公開しています。


Sanskrit सन्स्क्रित्

http://theendoftakechan.web.fc2.com/eII/amrta/sanskrit/index.html


2021年6月5日土曜日

夜叉(薬叉)大将と八部衆

 薬師如来の眷属である〝十二神将〟とは、12 の夜叉(薬叉)の大将のことです。〈夜叉(ヤシャ)〉は「仏説薬師如来本願経」などにある表記で、また〈薬叉(ヤクシャ)〉は「薬師琉璃光如来本願功徳経」などの表記で、いずれも〝超自然的存在〟を意味するサンスクリット語の音写文字となります。

 サンスクリット語では、


यक्ष yakṣa


なので、これをカタカナで書くと〈ヤクシャ〉に近い発音になるようです。

 漢訳された仏教経典には、〝十二神将〟は、次のように名称が列記されています。


『大正新脩大藏經』第十四卷


「佛說藥師如來本願經」隋天竺三藏達摩笈多譯

 (p.404)

宮毘羅大將  跋折羅大將

迷佉羅大將  安捺羅大將

安怛羅大將  摩涅羅大將

因陀羅大將  波異羅大將

摩呼羅大將  眞達羅大將

招度羅大將  鼻羯羅大將


「藥師琉璃光如來本願功德經」大唐三藏法師玄奘奉 詔譯

 (p.408)

宮毘羅大將  伐折羅大將

迷企羅大將  安底羅大將

頞儞羅大將  珊底羅大將

因達羅大將  波夷羅大將

摩虎羅大將  眞達羅大將

招杜羅大將  毘羯羅大將



 かくして翻訳者によって漢字の選び方に流儀があり、またこれらの漢字の読み方にも複数の流派があるようです。

 今回、中村元著『佛教語大辞典 縮刷版』の記述にしたがって読めば、


宮毘羅大將(くびらだいしょう)

伐折羅大將(ばざらだいしょう)

迷企羅大將(めいきらだいしょう)

安底羅大將(あんちらだいしょう)

頞儞羅大將(あにらたいしょう)

珊底羅大將(さんちらだいしょう)

因達羅大將(いんだらだいしょう)

波夷羅大將(はいらだいしょう)

摩虎羅大將(まごらだいしょう)

眞達羅大將(しんだらだいしょう)

招杜羅大將(しょうどらだいしょう)

毘羯羅大將(びぎゃらだいしょう)


と、なります。

 さて、眷属(けんぞく)には「つき従うもの」という意味がありますが、これら〝十二神将〟は仏法僧に帰依することを宣言するだけじゃおさまらず、仏法の修行僧を守護する役目を負うことまで、この経典中で宣誓しています。

 ところで先だっては、〈阿修羅(アスラ)〉について調べておったのですけれども、その〈阿修羅〉と今回の〈夜叉〉は、ともに〝八部衆〟の一員に名を連ねているのでした。

 〝八部衆〟は「天・龍」にはじまる鬼神の名称で、〝天龍八部衆〟とも称されます。『広辞苑』には次のように書かれていました。


てんりゅうはちぶしゅう【天竜八部衆】

仏法を守護するとされる八種の異類。天・竜・夜叉・乾闥婆(ケンダツバ)・阿修羅・迦楼羅(カルラ)・緊那羅(キンナラ)・摩睺羅迦(マゴラガ)のこと。もと古代インドの神々で鬼竜の類。八部。八部衆。竜神八部。


 でもって〝八部衆〟のメンバーについては、仏教辞典から抜粋してみました。


『岩波 仏教辞典』 第二版

〔中村元福永光司田村芳朗今野達末木文美士/編 2002年10月30日 第2版第1刷 岩波書店/発行〕


 天 てん

 (p.733)

 サンスクリット語 deva の訳で、神を意味する。神の概念は仏教の救済論には本来不必要であるが、バラモン(婆羅門)文化の影響下に仏教にとりいれられた。バラモン教(婆羅門教)においては『リグ‐ヴェーダ』以来 33 神、あるいは 3339 神ともいわれる多数の神が信仰されたが、その多くは自然現象が神格化されたものである。deva(本来、輝くもの、の意)は、ギリシア語 zeus やラテン語 deus と語源を同じくし、したがってバラモン教の神の概念はギリシア神話やローマ神話のそれと共通するところがある。


 竜 りゅう [s: nāga]

 (pp.1044-1045)

 〈那伽 なが〉と音写。蛇に似た形の一種の鬼神 きしん。天竜八部衆の一つ。インド神話におけるナーガは、蛇(特にコブラ)を神格化したもので、大海あるいは地底の世界に住むとされる人面蛇身の半神。彼等の長である〈竜王〉(nāga-rāja) は巨大で猛毒をもつものとして恐れられた半面、降雨を招き大地に豊穣をもたらす恩恵の授与者として信仰を集めた。特にインドの原住民部族の間では古くからナーガ信仰が盛んであった。

 ナーガは仏教でも初期聖典以来知られ、特に仏伝 ぶつでん 文学には仏陀 ぶっだ を豪雨より護った竜王の話などが見られて、早くから仏教彫刻などの題材ともされた。後にはインド神話の上で天敵とされていたガルダ鳥(迦楼羅 かるら・金翅鳥 こんじちょう)とともに八部衆に組み入れられ、また仏法の聴聞者として〈八大竜王〉なども立てられた。中国では〈竜〉と漢訳された。中国の竜は、鳳・麟・亀とともに四霊の一つで神聖視された。角、四足、長いひげのある鱗虫の長で、雲を起し雨を降らせ、春分に天に昇り秋分に淵に隠れるといわれる。そこで仏教の竜も中国的な竜のイメージで思い浮かベられるなど、大きく変容した。わが国の竜神 りゅうじん 信仰は中国の竜と日本の蛇=水神との習合であるが、雨乞 あまごい の神、豊漁の神、海の神として信仰された。


 夜叉 やしゃ

 (p.1015)

 サンスクリット語 yakṣa に相当する音写。ヤクシャ。〈薬叉 やくしゃ〉と音写されることもある。主として森林に住む神霊である。鬼神として恐しい半面、人に大なる恩恵をもたらすともされた。ヤクシャは樹木と関係が深く、しばしば聖樹と共に図像化されている。女性のヤクシャ(ヤクシー、ヤクシニー)の像も数多く残っている。水との縁も深く、「水を崇拝する (yakṣ-) 」といったので yakṣa と名づけられたという語源解釈も存する。仏教に取り入れられて、八部衆の一つとなった。なお、〈夜叉〉は特定の神格ではなく、北方守護の毘沙門天 びしゃもんてん の眷属である鬼神の総称。またわが国では古来、夜叉に帰依して新生児の無事を祈願し、名をもらい受ける習俗があり、その名の代表的なものが女子名の〈あぐり〉である。


 乾闥婆 けんだつば

 (p.291)

 サンスクリット語 gandharva の音写。〈香神 こうじん〉〈食香 じきこう〉などと漢訳し、また〈犍達婆〉〈健闥縛〉〈乾沓和 けんとうわ〉などとも音写する。1) 天上の音楽師、楽神ガンダルヴァ。2) 中有 ちゅうう の身体。

 インド神話におけるガンダルヴァは、古くは神々の飲料であるソーマ酒を守り、医薬に通暁した空中の半神とされ、また特に女性に対して神秘的な力を及ぼす霊的存在とも考えられていたが、後には天女アプサラスを伴侶として、インドラ(帝釈天 たいしゃくてん)に仕える天上の楽師として知られるようになった。仏教では、この楽師としての半神ガンダルヴァが、歌神の緊那羅 きんなら とともに天竜八部衆の一つに数えられる一方で、また女性の懐妊・出産などにかかわるその神秘的性格のゆえか、輪廻転生 りんねてんしょう に不可欠な霊的存在とも見なされ、肉体が滅びてのちに新たな肉体を獲得するまでの一種の霊魂、すなわち微細な五蘊 ごうん からなる〈中有の身体〉を意味するという特殊な用法も生んだ。胎児や幼児を悪鬼から守るといわれる密教の(栴檀 せんだん)乾闥婆神王 けんだつばしんのう は、人間の再生に不可欠なこの中有の身体としてのガンダルヴァが神格化されたものであろう。

 なお、インドの古典文学において〈ガンダルヴァの都〉(gandharva-nagara) は蜃気楼 しんきろう を意味し、実在しない虚妄なもののたとえに用いられるが、この表現は仏典でも好んで使用された。〈乾闥婆城〉〈尋香城 じんこうじょう〉などと漢訳される。


 阿修羅 あしゅら

 (p.10)

 サンスクリット語 asura の音写。略して〈修羅 しゅら〉。〈阿素羅 あそら〉〈阿須倫 あしゅりん〉などとも音写し、また〈非天 ひてん〉〈無酒神 むしゅしん〉(いずれも通俗的な語源解釈に基づく)などの漢訳語もある。血気さかんで、闘争を好む鬼神の一種。原語の asura は古代イラン語の ahura に対応し、元来は ahura と同じく〈善神〉を意味していた。しかしのちインドラ神(帝釈天 たいしゃくてん)などの台頭とともに彼等の敵とみなされるようになり、常に彼等に戦いを挑む悪魔・鬼神の類へと追いやられた。原語を〈神 (sura) ならざる(否定辞 a )もの〉と解する通俗的な語源解釈(漢訳:非天)も、恐らくその地位の格下げと悪神のイメージの定着に一役買ったと思われる。

 仏教の輪廻転生 りんねてんしょう 説のうち、五趣(五道)説では独立して立てられないが、六道説では阿修羅の生存状態、もしくはその住む世界が〈(阿)修羅道〉として、三善道の一つに加えられている。仏教ではまた、天竜八部衆(八部衆)にも組み入れられて、仏法の守護神の地位も与えられた。また密教の胎蔵界曼荼羅 たいぞうかいまんだら では、外金剛部院にその姿を見ることもできる。図像学的には三面六臂 さんめんろっぴ で表されることが多く、興福寺の阿修羅像(天平時代)はその代表例である。

 戦闘を好む阿修羅神は、古来仏教説話などを通じてわが国にも広く知られ、悲惨な闘争の繰り広げられる場所や状況を〈修羅場 しゅらば・しゅらじょう〉、戦闘を筋とする能楽の脚本を〈修羅物 しゅらもの〉、また争いの止まない世間を〈修羅の巷 ちまた〉と呼ぶなど、多くの比喩表現も生んだ。なお、阿修羅の好戦を象徴する阿修羅王と帝釈天の戦闘は『俱舎論 くしゃろん』や正法念処経の所説に由来するもので、そのとき帝釈天宮に攻め上った阿修羅王が日月をつかみ、手で覆うことから日蝕・月蝕が発生するとも説かれる。


 迦楼羅 かるら

 (p.165)

 サンスクリット語 garuḍa に相当する音写。ガルダ。〈金翅鳥 こんじちょう〉と訳される。伝説上の巨鳥。ガルダは竜(蛇)の一族の奴隷となった母を救うために、神々と争って不死の飲料であるアムリタ(甘露 かんろ)を手に入れ、母を解放した。竜を憎んで食べるとされる。ヴィシュヌ神と親交を結び、その乗物となったという。仏教にも取り入れられて、八部衆の一つとされる。『リグ‐ヴェーダ』において、神酒ソーマを地上にもたらした鷲(スパルナ)と同一視される。


 緊那羅 きんなら

 (pp.235-236)

 サンスクリット語 kiṃnara の音写。〈人非人 にんぴにん〉〈疑神〉の漢訳語もある。歌神。天界の楽師で、特に美しい歌声をもつことで知られる。もとインドの物語文学では、ヒマラヤ山のクベーラ神の世界の住人で、歌舞音曲に秀でた半人半獣(馬首人身)の生き物として知られたが、仏教では乾闥婆 けんだつば とともに天竜八部衆に組み入れられ、仏法を守護する神となった。人非人(人とも人でないともいえないもの)や疑神の漢訳語は、この語の通俗的な語源解釈(人間 (nara) だろうか?)に基づいている。密教の胎蔵界曼荼羅 たいぞうかいまんだら では外金剛部院の北方にその姿が見える。なおわが国では、香山 こうせん の大樹 だいじゅ 緊那羅が仏前で 8 万 4 千の音楽を奏し、摩訶迦葉 まかかしょう がその妙音に威儀を忘れて立ち踊ったという故事(大樹緊那羅王所間経 1、『法華文句』2)で著名。


 摩睺羅迦 まごらが

 (p.954)

 サンスクリット語 mahoraga に相当する音写。大蛇の意。蛇神。仏教に取り入れられて、仏法を守護する 8 種の半神的存在(八部衆 はちぶしゅう または天竜八部)の一つに数えられる。密教の胎蔵界曼荼羅 たいぞうかいまんだら では外金剛部院の北方に姿が見える。


 ようするに、おおよそ〈阿修羅〉を「鬼神」の代表格にみるとして、〈夜叉〉には「自然の精霊・森の鬼神」などのイメージがあり、天女アプサラスの伴侶でもある〈乾闥婆〉は「音楽師・音楽の神」で、〈迦楼羅〉は「不死の飲料であるアムリタ」に関係のある「伝説上の巨鳥」、《人非人》とも漢訳される〈緊那羅〉は「美しい歌声」の「天界の楽師」、〈摩睺羅迦〉は「大蛇・蛇神」ということになります。


―― その他の原典等を含めて、参照・引用したページを、以下のサイトで公開しています。


夜叉十二大将と天龍八部衆

http://theendoftakechan.web.fc2.com/eII/amrta/yaksha.html


2021年5月19日水曜日

弥勒菩薩が〈毘盧遮那〉という名の転輪聖王だった話

 前回は、「照らす」とか「太陽神」を意味する〈ヴィローチャナ〉というサンスクリット語が〈阿修羅(アスラ)〉の名前に使われていて、また

〝インドの古典『マハーバーラタ』でも、〈ヴィローチャナ〉は〈アスラ〉の名前なのですけれども、〈ヴィローチャナ〉の息子を〈バリ〉といい、〈バリ〉は〈ヴァイローチャナ〉とも呼ばれるようです。〟

とかなんとか書いた最後に、

〝続けて調べていくと、未来の救世主〈弥勒菩薩〉まで出てきて、話が転転 ……〈転輪聖王〉は「てんりんじょうおう」と読むらしいのですけれど。〟

とも書きましたが、〈転輪聖王〉とは〝世界を治める理想的な正義の王〟らしいです。

 というわけで今回は、〈弥勒(マイトレーヤ)〉が〈毘盧遮那(ヴァイローチャナ)〉という名前の〈転輪聖王〉であったことが述べられている仏教経典を参照いたしましょう。


 現在のところサンスクリット語のみで伝わっている『マハーヴァストゥ (Mahāvastu) 』という仏教の経典は、『岩波 仏教辞典 第二版』(p.957) に、

「〈大事 だいじ〉と訳される大衆部 だいしゅぶ の説出世部所伝の釈尊 しゃくそん の伝記を伝える経典」

等と説明されていて、またその内容の一部が漢訳仏典の『仏本行集経(ぶつほんぎょうじっきょう)』に一致することが知られています。

 その『マハーヴァストゥ』第 1 巻 59 ページの内容が、次のように紹介されており、それは漢訳経典では『大正新脩大蔵経』第 3 巻 656 ページの中断に該当するようです。



『渡辺照宏 仏教学論集』

〔渡辺照宏/著 昭和57年07月30日 筑摩書房/発行〕

 XIX VirocanaVairocana ―― 研究序説 ――

〔 1965 年 12 月、高野山開創千百五十年記念「密教学密教史論文集」(高野山大学)pp. 371‑390 〕

 (p.420)

 Mahāvastu I, p. 59: “Suprabhāso nāma Mahāmaudgalyāyana tathāgato ’rhaṃ samyaksaṃbuddho yatra Maitreyeṇa bodhisatvena prathamaṃ kuśalamūlāny avaropitāni rājñā Vairocanena cakravarti-bhūtena āyatiṃ saṃbodhiṃ prārthayamānena //”



『大正新脩大藏經』 第三卷 本緣部上

「佛本行集經卷第一」

 (p.656)

目揵連。我念往昔。有一如來。號曰善思多陀阿伽度阿羅訶三藐三佛陀。於彼佛所。彌勒菩薩。最初發心。種諸善根。求阿耨多羅三藐三菩提。時彌勒菩薩。身作轉輪聖王。名毘盧遮那。



『國譯一切經』 本緣部 二

〔常盤大定・美濃晃順/譯 昭和06年12月15日 大東出版社/發行〕

「佛本行集經」卷の第一

 (p.6)

 (16) 目揵連よ、我念ずるに、往昔、一如來の號して [34] 善思 (Sucinta?) 多陀阿伽度・阿羅訶・三藐三佛陀と曰へるありき。彼の佛の所に於て、彌勒菩薩、最初に發心し、諸の善根を種ゑて阿耨多羅三藐三菩提を求めき。時に彌勒菩薩、身、轉輪聖王と作りて毘盧遮那 (Vairocana) と名く。


【34】 善思、三本に「善念」に造り、大事 (Vol. I. 59) には Suprabhāsa(善光)とす。以下、彌勒及牢弓王に關する傳、大事卷一、五九~六〇頁に一致す。



✎ 引用に際しての付記:〝牢弓王に関する伝〟は、次のように始められています。


 (17) 目揵連よ、我念ずるに、往昔、一佛あり、示誨幢如來 (Aparājita-dhvaja) と名く。目揵連よ、我、彼の佛國土の中に於て轉輪聖王と作り、名けて窂弓 (Dṛḍhadhanu) と曰ふ。初めて道心を發し、諸の善根を種ゑて阿耨多羅三藐三菩提を求めき。


✐ 上の弥勒菩薩についての内容の一部をもう少しわかりやすい日本語で書くと

「彌勒菩薩、最初に發心し、諸の善根を種ゑて阿耨多羅三藐三菩提を求めき。時に彌勒菩薩、身、轉輪聖王と作りて毘盧遮那 (Vairocana) と名く。」

は、

「弥勒菩薩が最初に菩提心を起して、種々の善因・善根を積んで《阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)》すなわち《無上の真実なる完全な悟り (anuttarā samyaksaṃbodhiḥ) 》を求めた時、弥勒菩薩は毘盧遮那(ヴァイローチャナ)という名前の転輪聖王となったのでした。」

というあたりでしょうか。


―― その他の原典等を含めて、参照・引用したページを、以下のサイトで公開していますので、引用した資料の詳しい内容は、そちらをご覧くださいませ。


リグ・ヴェーダのアスラ

http://theendoftakechan.web.fc2.com/eII/amrta/asura.html


2021年5月14日金曜日

アヴェスターのアフラ/ヴェーダのアスラ

 ヴェーダの〈アスラ〉は、仏典で〈阿修羅〉という漢字が多く用いられ「あしゅら」と呼ばれています。


 ゾロアスター教やバラモン教についての解説書などを紐解きますれば、その昔イラン高原を目指したアーリア人が聖典として『アヴェスター』を残し、インドに進出した別のグループが聖典として『ヴェーダ』を残したと、おおむねそのように説かれています。

 イラン高原の聖典『アヴェスター』における最強の光の神が〈アフラ・マズダー〉で、その神格は「アフラ(主)」と「マズダー(叡智)」の、ふたつの語によって示されるといいます。

 かたやインドの聖典『ヴェーダ』では、〈アフラ〉と語源を同じくする〈アスラ〉はいつしか神々に敵対する側の勢力、すなわち魔軍の名前とされ、悪魔の一族とみなされるように変遷していきます。

 そしてそれらの神話を構成する、原始アーリア人社会には厳格な階級の区別があって、最上位に神官階級が設定されていたわけです。

 ひとまずここでそのあたりの事情を解説書から抜粋しておきましょう。


『新ゾロアスター教史』

〔青木健/著 2019年03月28日 刀水書房/発行〕


「プロローグ 原始アーリア人の民族移動」

 第一節

 (p.11)

 マルギアナ・バクトリアまで南下した原始アーリア人は、紀元前一五〇〇年ころに再びなんらかの理由で第二次民族移動を開始し、東方のインド亜大陸をめざすグループと西方のイラン高原をめざすグループに分かれた。前者は、インダス文明を築いたとみられる先住のドラヴィダ人の居住空間に入りこみ、インド亜大陸の支配者となった。インダス文明の滅亡と原始アーリア人の侵入の時期は微妙に重なるものの、両者の間に因果関係があったとは証明されていない。ともかく、地味豊穣のインド亜大陸に定住したアーリア人は、先住民族ドラヴィダ人の宗教を吸収してバラモン教を創案し、後世それをヒンドゥー教へと脱皮させながら、長くインド亜大陸の文化的規範を創りあげた。


 第二節

 (pp.14-15)

 神官階級が祈りを捧げるべき神格は多岐にわたるが、大別すれば、倫理的機能を司るアフラ神群(サンスクリット語でアスラ神群)と、自然的機能を司るダエーヴァ神群(サンスクリット語でデーヴァ神群)に二分することができる。

  • アフラ神群 ―― ミスラ、ヴァルナ、アルヤマンなど
  • ダエーヴァ神群 ―― インドラ、ナーサティヤなど

 のちに、原始アーリア人がイラン高原とインド亜大陸に分かれると、どちらの神群を重視するかの取捨選択がはっきりと分かれた。イラン高原のアーリア人は、アフラ神群を尊んで人間の倫理的規範を重視し、善と悪を峻別した。この選択で損をしたのはダエーヴァ神群で、本来はアフラ神群と対立するような存在ではない別系統の神々だったのが、一転して悪魔の地位にまで貶[おとし]められた。ゾロアスター教の善悪二元論の教えも、起源をさかのぼればこの選択の中に胚胎している。これに対し、インド亜大陸のアーリア人は、デーヴァ神群を尊んだものの、アフラ神群を排斥したわけではなかった。その結果、ヴェーダの宗教から、バラモン教、ヒンドゥー教へと、多神教的な発展を遂げていくことになる。



―― 勝てば神軍、負ければ魔軍、なのは世の常、神話の常。つまるところ、もともとは対等の神々だったふたつの神群が、その後の事情で、片方が〝悪いヤツ〟にされてしまったということのようです。

 ようするに仏教経典にも登場して、のちに《天龍八部衆》の一員にあげられる〈阿修羅〉は、そもそも単独の神ではなく、神々の派閥の名でした。バラモン教の『リグ・ヴェーダ』では、霊力の強い神々〈アスラ〉の代表として、ヴァルナとミトラが特に讃えられています。また初期の仏典でもいろいろな名前の「阿修羅王」が話題の中心にしばしば出てきます。

 そして、興味深いことには、イラン高原において〝光の神々〟であった〈アフラ〉の位置づけは、インドでも〈アスラ〉にその影響を残していたらしく、「照らす」とか「太陽神」を意味する〈ヴィローチャナ〉というサンスクリット語が、『チャーンドーグヤ=ウパニシャッド』で〈アスラ〉一族の代表者の名に用いられています。「ウパニシャッド」というのは『ヴェーダ』の〝奥義書〟とされる文献です。


 ここでさらに興味深いことにインドの古典『マハーバーラタ』でも、〈ヴィローチャナ〉は〈アスラ〉の名前なのですけれども、〈ヴィローチャナ〉の息子を〈バリ〉といい、〈バリ〉は〈ヴァイローチャナ〉とも呼ばれるようです。

 でもって、奈良・東大寺の大仏〔奈良大仏〕を〈盧舎那仏(るしゃなぶつ)〉といい、これは〈毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)〉に同じであるとされていて、〈毘盧遮那仏〉は最終如来である〈大日如来〉の別名なのですね。

 そしてこの漢訳された〈毘盧遮那〉は、サンスクリット語の〈ヴァイローチャナ〉であるという次第です。


 続けて調べていくと、未来の救世主〈弥勒菩薩〉まで出てきて、話が転転 ……〈転輪聖王〉は「てんりんじょうおう」と読むらしいのですけれど。


2021年5月7日金曜日

ウルヴァシーとフラワシもしくは魂のウルヴァン

 もはや先月のことになりますけれども、仏教経典の『大智度論』に〈ジャータカ〉として、《一角仙人》の物語が記述されている、ということを書きました。〈ジャータカ (jātaka) 〉というのは、もともとサンスクリット語で、一般には〈本生譚(ほんじょうたん)〉という和訳も多く用いられるわけです。

 この、《一角仙人》の物語はインドの古典『マハーバーラタ』では、次のようになっています。


『マハーバーラタ』 第二巻

〔山際素男/編訳 1992年05月15日 三一書房/発行〕

 森の巻 ❖ ヴァナ・パルヴァン[第三巻]

「ユディシュティラの巡礼」 角のある聖仙の話

 (pp.144-145)

 更に彼らは、大聖仙カシュヤパの息子であるヴィバーンダカの子、リシュヤシュリンガ(かもしかの角をもつものの意、仏教では一角仙人といわれる)聖仙の隠棲地に辿りついた。

 ローマシャは、そこでリシュヤシュリンガの行った奇跡について物語った。

「昔、聖仙ヴィバーンダカが長く厳しい苦行を行い、疲れた体を癒そうと湖に行き、体を洗った。その時、天界一の美女と謳[うた]われたアプサラス、ウルヴァシーの姿を見、欲情を覚え思わず水中に射精してしまった。ちょうどその時梵天ブラフマーの命[めい]で牝鹿になったウルヴァシーが渇きを癒そうと、その水を飲み聖仙[リシ]の精液も一緒に飲んでしまったのだ。そして身籠[みごも]ったのがリシュヤシュリンガである。生れつき彼の額には小さな角がありそのためリシュヤシュリンガ(鹿の角を持つ者)と呼ばれるようになった。



 ここで物語の舞台はインドを離れて、その西側の、とある湖へと移ります。

 興味深いことには、ゾロアスター教の伝説によると、ザラスシュトラ(ゾロアスター)の末裔が、救世主として 3 人生まれるというのです。

 というのは現在ではハームーン湖と呼ばれる湖(伝承ではカンス海)に、ザラスシュトラの精子がおそらくは〝冷凍保存〟されているからであって、世界が終末期を迎えると、その始まりから 1000 年ごとに、由緒ある 15 才の少女が、その湖の水を飲んでサオシュヤントと呼ばれる救世主をそれぞれ受胎するからなのでした。


 ⛞ そして、そのザラスシュトラの精子をフラワシ(守護霊・守護天使)がその間ずっと守り続けているということが、ゾロアスター教の聖典『アヴェスター』の「フラワルディーン・ヤシュト」に記述されているのでした。


『ゾロアスター教』神々への讃歌

〔岡田明憲/著 1982年10月25日初刷 1998年04月30日四刷新装版三刷 平河出版社/発行〕

「フラワルディーン・ヤシュト」 第二十節

 (pp.284-285)

62

義なる者たちの、善き、強き、聖なるフラワシを我らは祭る。

彼らは、彼の義なるスピターマ・ザラスシュトラの精子を見守る〔註150〕

九万九千九百九十九〔柱のフラワシ〕は。


註150 中世ペルシア語書『ブンダヒシュン』によれば、ザラスシュトラが彼の第三夫人たるフウォーウィーに近づいた際に大地に落ちた精子を、ナルヨー・サンハが受け、アナーヒターがカンス海へ運んだとされる。そして、このカンス海で水浴したる乙女によってサオシュヤントが出生するのである。



 ⛞ いっぽう、漢訳された仏教経典では「天女」などとされている、サンスクリット語のアプサラス (apsaras) の、もともとの意味は「天上の水精女」であることが辞書に書かれています。

 そして、『マハーバーラタ』の物語において、湖の水を飲み、一角仙人を生んだ、ウルヴァシー (Urvaśī) は、そのアプサラスたちの中でも特別扱いされていて、リグ・ヴェーダにも登場して半神族のガンダルヴァらと人間界をつなぐ役目をする、代表的な存在でした。


  そして「フラワルディーン・ヤシュト (§62) 」で、救世主の誕生までを見守るフラワシ (fravaši) は、


 フラワシを祭るハマスパスマエーダヤ(万霊節)は、ゾロアスター教の七大祭の一つであった。一年の最後に祝われるこの祭りの夜、フラワシは生ける人びとのうちに帰ってくるのである。

〔ちくま学芸文庫『宗祖ゾロアスター』前田耕作/著 2003年07月09日 筑摩書房/発行 p.216〕


と、位置づけられ、イランの言語で「霊魂」を意味するウルヴァン urvan(ソグド語 rw’n, ’rw’n )は《盂蘭盆》の原語であったとも考えられている、という次第であることが、そのほかのさまざまな文献からみえてきたのでした。


―― でもって、和訳された原典等を参照・引用したページを、以下のサイトで公開しています。


アヴェスターの救世主サオシュヤント

http://theendoftakechan.web.fc2.com/eII/amrta/avesta.html