…… とは言い切れないかも知れない。
2021年4月1日木曜日
2021年3月26日金曜日
太陽と地平線の彼方の文化
⛞ 前回に、「機械式の時計(自鳴鐘)を中国の皇帝が手にしたのは、17 世紀の最初の年の 1 月」(1601) であることを紹介しました。中国の明王朝 (1368~1644) の時代に、キリスト教の宣教師が中心となって、西洋の文明を東洋にもたらしたわけですが、日本への布教では、フランシスコ・ザビエルによって、大内義隆に自鳴鐘が献上されたのは 1551 年のことです。
✐ その後、イギリスとのアヘン戦争 (1840~1842) の敗戦によって中国は開国を余儀なくされ、すると中国語を学習したキリスト教の宣教師たちの往来が活発となって、さらに多くの新しい科学が、清王朝 (1616~1912) にもたらされることになるわけです。
▣ 日本へは、弘化三年 (1846) に、アメリカ東インド艦隊司令長官ビッドルが、浦賀にやってきます。それからややあって浦賀沖に、ペリー率いる黒船が来航したのは、嘉永六年 (1853) のことになります。
▣ 慶応二年 (1866) に徳川慶喜が将軍職を継いで、江戸幕府第十五代将軍となります。そして慶応三年に「大政奉還」の上表を朝廷に提出した翌年には、明治元年 (1868) となるのです。
○ 中国語の刊行物を日本語訳した文献から、当時の科学書翻訳の状況を参照できます。
『中国科学技術史』 下
〔中国科学技術史稿 下冊 科学出版社(北京、中華人民共和国)、1982〕
杜石然・范楚玉・陳美東・金秋鵬・周世徳・曹婉如/編著
川原秀城・日原伝・長谷部英一・藤井隆・近藤浩之/訳
〔1997年03月20日 財団法人 東京大学出版会/発行〕
第 10 章 2. 洋務運動と西洋科学技術知識の大量流人
「科学技術書の翻訳」
(pp.573-574)
科学技術書の編訳・出版が、ヨーロッパの先進科学技術を学ぶ手段の 1 つとして、きわめて重要であることは改めていうまでもない。事実、アヘン戦争前後、ことに 1860 年代後半ごろから、ヨーロッパの科学技術書がつぎつぎと翻訳紹介された。
1862 年、清朝政府は“同文館”の設立を決定、最初は外国語課程のみでスタートした[朝廷が外国語人材の養成のため機関を設立した例として最も早いのは、明初 [1638] 設立の“四夷館”である。“四夷館”は清朝に入ると、“四訳館”と改称された。また乾隆年間には、“俄羅斯館”も増設された。だが“四訳館”や“俄羅斯館”の実際の教育効果はほとんどなく、これら館員のほとんどは俸禄をうけるだけの閑職にすぎず、たとえば俄羅斯館で試験を実施したところ、講習[教師]のなかでロシア語を知っている者はわずか 1 人のみてあり、学生のなかには誰 1 人としてロシア語を解する者はいなかった。両機関はのち、同文館に吸収された]。1866 年には、“機器を製造するには必ず須らく天文算学を講求すべきに因りて、同文館内に一館を添設するを議し”、“天文算学館”を附設し、著名な数学者の李善蘭を総教習として招聘した。同時にヨーロッパに人員を派遣し、外国籍の化学・天文学・生理学などの教師を招聘した。また北京以外においても、清朝政府は 1863 年、上海に京師同文館に倣って“上海広方言館”を設立し、翌年、広州に“広州同文館”、1868 年、江南製造局に翻訳館を設置した。これらの機関は科学技術書をつぎつぎと翻訳出版した。洋務派官僚の工場経営と同じく、これらの機関もそのほとんどが外国人によって管理運営された。たとえば、同文館はアメリカの宣教師マーチン[ William A. P. Martin(中国名、丁韙良)、1827‐1916 ]が運営し、上海の江南製造局訳書館はイギリス人のフライヤー[ John Fryer(中国名、傅蘭雅)、1839‐1928 ]が運営した。
○ このことは、つぎのようにも語られています。
『中国語における東西言語文化交流』
〔千葉謙悟/著 2010年02月20日 三省堂/発行〕
「序論」 近代翻訳語の創出と交流
(pp.9-10)
西洋の諸言語を学ぶことが公式には禁じられていた時代から外国語の知識が蓄財や官途に結びつくようになる時代に至るまで、中国側における西洋言語の運用力は極少数の例外を除けば総じて低かった。当時中国の知識人のほとんどは外国への関心が低く、外国語の学習の必要性を感じていなかった。従って西欧の新知識は中国語で表現されなければ中国では理解されようがなかった。そこで西欧言語から中国語へ翻訳する努力が払われることになる。それはいわば一つの文明を丸ごと翻訳する試みに近いものとなった。
欧米人 ― 特に 19 世紀初頭に来華したイギリス人宣教師ロバート・モリソン( Robert Morrison、中国名馬礼遜)をはじめとするプロテスタント宣教師 ― は中国人に中華世界以外の「文明世界」が存在するということを知らしめる必要があった。彼らの宗教が尊崇され改宗するに値する価値を持つことは、キリスト教を基礎に発展した科学とそれを応用した技術を認めさせることによってこそ示しうると彼らは考えた。同じ道理から、中国を中心とした世界地理の認識を改めさせることも彼らの任務の一部分となった。特に 19 世紀においては布教に際しキリスト教の教義が「夷人」の妄言にすぎないという偏見を打破しなければならなかったのである。
○ いっぽうで、中国の科学技術については、つぎのような研究もあります。
『中国の科学と文明』 第5巻 天の科学
ジョゼフ・ニーダム (Joseph Needham) /著
吉田忠・高柳雄一・宮島一彦・橋本敬造・中山茂・山田慶児/訳
〔1991年09月20日 新版 思索社/発行〕
第 20 章 天文学 (g) 天文器具の発達
(6) 渾儀と他の大きな観測機械 (i) 渾儀の一般的発展
(p.216)
張衡の時代以後のほとんどの説明用渾儀 ―― すなわち望筒の代わりに中心に地の模型を置き、後には地平線を示す上端の平たい箱の中に埋められた渾儀 ―― は、水力によって回転された。この動かし方は初めはかなり粗雑なものであったに違いない、しかし一行と梁令瓚が脱進機の形式を発明し、さまざまの種類のジャッキの作用を渾儀の回転と結び付け、本質的な意味ですべての機械時計の第 1 号をつくった +725 年がひとつの転機となった(第 27 章 h を参照)。その後の時計、張思訓の +979 年の時計は動力としては水の代わりに水銀を使用した。
そのむかし、キリスト教の布教と同様に、中国への仏教の布教においても、西域からの仏教僧が多くの仏教経典を漢訳しています。そのはじめは、2 世紀のことだとされています。
しばらくは、そのようなキリスト教の布教状況と同様の時代が経過したのち、中国人僧侶の法顕が天竺めざして、400 年ころに中国と西域を往復した記録が残されています。
そして日本への仏教の伝来と同時期の 6 世紀には、中国の漢字文化のみならず科学的な技術が百済を経由して(奈良県の明日香村に)到来したことが、日本最初の本格的寺院である飛鳥寺(あすかでら)の発掘調査によって知られているのです。
『飛鳥寺』
〔坪井清足/著 昭和39年02月10日 初版 中央公論美術出版/発行〕
「4 百済の工人の指導のもとに」
(pp.20-21)
さきに南の石敷広場の北縁が、伽藍中心線と七度ずれていることを注意したが、飛鳥寺伽藍の中軸線は、実測の結果ほぼ真北をさしており、その誤差は分以下の単位であることがわかった。これは飛鳥寺の造営にあたって、その地割りの基本線を天測による真南北線にもとめたことを物語っており、これと直角にまじわる東西の線は、各建物によって一度ないし一度半もくるっている。このようなことは奈良の薬師寺でも例があって、地割りをした人と、建物を建築した技術者がちがっていたことを示すものであろうと考えている。
「7 歴史の中の飛鳥寺」
(pp.34-35)
わが国に仏教が伝えられたのは、六世紀の中頃のことで、帰化系の人々を中心としてその信仰がひろまり、一部に尼寺がつくられはじめた。ところが、新来の異国の宗教と、古来の神道のいずれをとるべきかという論争がはげしくなり、やがて当時の進歩勢力の代表である蘇我氏と、旧守勢力の代表である物部氏の政治的闘争となり、数十年の長きにわたって争うことになった。
この争いが、物部氏の敗戦によって仏教派の勝利に帰した翌年、すなわち崇峻天皇元年 (588) に、本格的な僧寺の建立が計画され、これに必要な指導をあおぐために、はじめて百済国に僧侶や技術者の派遣が要請された。こうして百済から派遣された六名の僧侶をはじめとし、大工、塔の屋上にとりつける露盤つくり、瓦師などの指導によって本格的な工事がはじめられた。つまり法興寺(飛鳥の地につくられたため一般には飛鳥寺とよばれている)の建立である。この造営は蘇我馬子によって命ぜられ、帰化系の山東漢直麻高垢鬼[やまとあやのあたいまこくき]や意等加斯[おとかし]らが多数の部民を使役しておこなわれたことが、『日本書紀』と『元興寺縁起』にみえている。また、崇峻天皇三年 (590) には、山に入って寺の材をとり、五年 (592) に仏堂、歩廊(回廊)などを建てはじめ、翌推古天皇元年正月十五日に、塔の心礎に舎利をおさめ、翌日心柱をその上に建てた。推古天皇四年 (596) に塔が完成し、寺僧が住みはじめたと記されている。推古天皇十三年 (605) に、天皇は聖徳太子はじめ馬子大臣以下に、銅製と刺繡製の丈六仏をつくるようにとの詔勅をだされ、鞍作鳥を造仏工に任ぜられた。
✥ 飛鳥寺の発掘調査は、昭和 31~32 年 (1956~1957) に、行われました。
―― その他の各種資料を参照したページを、以下のサイトで公開しています。
http://theendoftakechan.web.fc2.com/eII/hitsuge/horizon.html
2021年3月3日水曜日
自鳴鐘:西欧の機械式時計
記録によれば、中国の皇帝がキリスト教宣教師からの贈り物として、渡来の「時を告げる時計(自鳴鐘)」を手にしたのは、明の万暦 28 年 12 月(西暦 1601 年 1 月)で、これは 17 世紀の最初の年の 1 月となるのですけれども、日本への西欧時計の伝来は、それよりも半世紀早い 16 世紀の中頃で、フランシスコ・ザビエルによって、大内義隆に献上された 1551 年(天文 20 年)が最初とされています。
その後、慶長 17 年 (1612) の『異国日記』に記された、徳川家康へのノビスパニヤ国主からの贈り物の目録に「斗景」とあり、この〈トケイ〉を新井白石が享保 4 年 (1719) の『東雅』で、「斗鶏」と記して紹介したわけです。
現代まで用いられている「時計」の文字の登場については、その間の貞享 2 年 (1685) の日付がある『京羽二重』に「時計師」という職人が記録されています。
つまり、西暦 1680 年代には、日本で、西欧式の時計の製作などが行われていたようなのですけれども、これは振子時計であることが、西鶴の作品によって推定されます。
井原西鶴の「好色一代男」は天和 2 年 (1682) の処女作、「日本永代蔵」は貞享 5 年 (1688) の刊行です。
日本古典文学大系 47
『西鶴集 上』
〔麻生磯次・板坂元・堤精二/校注 1957年11月05日 岩波書店/発行〕
「好色一代男 卷五」
(p.131)
[原文] 里へ帰[かへ]る御名殘[なごり]に、昔[むか]しを今に一ふしをうたへばきえ入[いる]斗[ばかり]、琴彈[ことひき]歌[うた]をよみ、茶[ちや]はしほらしくたてなし、花[はな]を生替[いけかえ]土圭[とけい]を仕懸[しかけ]なをし、
(頭注)
土圭を仕懸なをし 当時昼夜の時間の長短があったので毎日分銅を調節する必要があった。
日本古典文学大系 48
『西鶴集 下』
〔野間光辰・/校注 1960年08月05日 岩波書店/発行〕
「日本永代藏 卷五」
(p.141)
[原文] 年[ねん]中工夫[くふう]にかゝり、昼夜[ちうや]の枕[まくら]にひゞく時計[とけい]の細工[さいく]仕掛置[しかけをき]しに、
◎ ようするに、オランダとの交易が行われていたその当時《不定時法》を用いていた日本では、早くも 1680 年代にはすでに、ある程度の振子時計が国内生産されていたらしいのです。
《不定時法》というのは、日の出とともに朝が始まり、日の入りで夜の時間帯となる、つまり生活が太陽とともにある、自然のリズムを基調とするものです。
そのため、季節によって昼夜の時間の長さが変化するので、時間間隔が一定しない、という問題が発生するわけです。また、昼と夜の長さが同じなのは、一年で春分と秋分の日だけなので、振子の長さを調整することで時計の時間間隔を変化させることのできる振子時計は、大変有効なものであったと思われます。
―― ところで、〝早くも 1680 年代には〟という表現を、ここで使ったのには次のような理由があります。
ヨーロッパに、最初の機械式時計が登場したのは、西暦 1300 年頃といわれます。それから 100 年余が経過して 1400 年代の 15 世紀には、時計の小型化が進みますが、その正確さはいまひとつでした。
ガリレオがイタリアで振子の等時性を発見したのは、伝説的記録によって、1583 年頃 19 才のときであるとされるようです。その後、1656 年から時計の研究をはじめたオランダ人ホイヘンスは、翌 1657 年には振子時計を設計しています。それからまもなく、完全な等時曲線は〈サイクロイド〉であることが、1659 年にホイヘンスによって発見されることになるのです。
つまり、1657 年にホイヘンスによって設計された振子時計はリアルタイムで船舶に搭載されたでしょうし、そのようにして舶来しただけでなく、1680 年代の日本の市中に、恐らくは国産品として出回っていたことが日本の刊行物の記録によって理解できるわけです。
のみならず、日本独自の工夫として、振子に調節のための尺度が描かれたものを、尺度計(尺時計)と称したことが、知られています。
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2021年2月18日木曜日
漏刻(トキノキザミ)と斗鷄(トケイ)
✥ 新井白石 (1657~1725) は、享保四年 (1719) の『東雅』に、「漏刻」の項を設けて「トキノキザミ」とカナを振っています。
『新井白石全集 第四』 〔新井白石/著・市島謙吉/編輯兼校訂〕
明治39年04月25日 吉川半七/發行
「東雅卷之七」器用第七
(p.132)
漏刻 トキノキザミ
我國漏刻の制。いづれの頃ほひにや始りぬらむ。國史には天智天皇の太子にておはしませし時に。始て親所制造也。と見えたれば。此事をもて。其始とやなすべき。トキノキザミとは。時刻也。其制度の如きは不詳。後代に及びて其博士を置れしも。如何なる制をや用ひたりけむ。これも不詳。
慶長年中に。西洋人トケイといふ者をまいらせし事あり。其制に傚ひて作れる物。今は盛に世に行はれぬ。トケイといふ事は蕃語にはあらず。其時の事しるせし日記には。斗雞としるしたりけり。これは明の人して其蕃語を譯せしめてまいらせし所也。其器の制。北斗のかたちの如くなる者ありて。其指す所に隨ひて其時を知り。おのづから鳴りて時を報する事。雞の如くなれば。かくは名づけしにや。其器の妙用にかたとりいひし事。只二字に盡きぬ。今は其字を用ひざるにや。
✍ 新井白石は『東雅』で、江戸時代が始まった慶長年間 (1596~1615) の舶来品に「トケイ」というものがあったことを述べるに際して、新井白石自身が発見したという、当時の日記を引用して「斗雞」の語を記しています。その文章の最後に「今は其字を用ひざるにや」と書き添えているのは、「時計」という文字による表現が当時すでに世間に流布していたためでしょう。
―― ちなみに新井白石が発見した慶長の日記というのは『異国日記』と題されたものです。また「時計」の表記は、貞享五年 (1688) に刊行された井原西鶴の「日本永代蔵」で確認することができます。
新井白石が用いた「斗雞」の語は、宝暦十二年 (1762) に刊行された谷川士清の『日本書紀通証』で引用されたこともあってか、その後、明治期から昭和に至るまで長く用いられることになります。
◎ 谷川士清は、新井白石の記述を次のように引用しています。
『日本書紀通證』 〔谷川士清/撰述〕
寳暦十二年壬午冬刻也 五條天神宮藏版
「日本書紀通證巻三十一」齊明天皇紀
(p.10)
初造漏尅 トキノキサミ
荒井氏謂慶長中日記作斗雞此明人所譯番語也葢此器有如北斗象者故曰斗自鳴而報時無差故曰雞
◯ 昭和になってから折口信夫が「斗鶏」という表現を使っています。
『折口信夫全集』 2 〔折口信夫/著・折口信夫全集刊行会/編纂〕
1995年03月10日 中央公論社/発行
「山のことぶれ」 〔初出:昭和二年一月「改造」第九巻第一号〕
(p.430)
鶏犬の遠音を、里あるしるしとした詩人も、実は、浮世知らずであつた。其口癖文句にも勘定に入れて居ない用途の為に、乏しい村人の喰ひ分を裾分けられた家畜が、斗鶏[トケイ]や寝ずの番以外に、山の生活を刺戟して居た。
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2021年2月9日火曜日
常世(とこよ)の長鳴鳥
「鶏鳴(けいめい)」という言葉の意味を『広辞苑』で見ると、
① 鶏の鳴くこと。鶏の鳴き声。
②(一番どりの鳴く頃であるからいう)丑(ウシ)の時、すなわち今の午前二時頃。
③ 明けがた。夜明け。
とあります。ようするに鶏が鳴けば朝が来て、一日が始まる、という、古い時代からの日常基本の概念がここに網羅されているわけです。
丑の刻は〈午前 1 時〉から〈午前 3 時〉までで、平安時代の頃は、丑の次の、寅(トラ)の刻から一日が始まったようです。
今回のタイトルの〝常世の長鳴鳥〟というのは、「天の石屋戸」事件の際に、八百万の神が行った〝日神招喚の儀式〟のため集められた〝鳥〟のことで、これは〝鶏〟であると一般的に解釈されています。
いまも伊勢神宮では、遷宮の際は「鶏鳴三声」を合図に、遷御の儀が行われるそうです。
〝常世〟は、終らない世界を表現したもので、中国の神話伝説では、不死の仙人が住む〝蓬莱山(ほうらいさん)〟が、該当するでしょう。ちなみに中国の仙人は不死ではあっても、多くはどうやら不老ではないように思われます。
中国の史書の記述には、秦の始皇帝が〝蓬莱山〟にあるという秘薬を求めて「徐福(じょふく)」〔史記に「徐市(じょふつ)」とも〕を派遣したとあり、また漢の武帝はリアルに不死の秘薬を得るため、神仙の術すなわち方術を使う方士を海上に派遣したようです。
日本の伝説にも〔古事記と日本書紀で表現された文字は多少違いますけれど〕、
垂仁天皇の時代に、
古事記では〝常世国(とこよのくに)〟にある「登岐士玖能迦玖能木実(ときじくのかくのこのみ)」を求めるため、「多遅摩毛理(たぢまもり)」を派遣し、
日本書紀では同じく〝常世国(とこよのくに)〟にある「非時香菓(ときじくのかくのみ)」を求めるため、「田道間守(たぢまもり)」を派遣しています。
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2021年1月27日水曜日
唐獅子の〈宝珠〉・ 高麗犬の〈一角〉
たとえば、ネパールの獅子像にあって最も注目に値する特色は、頭上にある「宝珠」だろう。
―― というのは、『獅子』
〔荒俣宏/著・大村次郷/写真 2000年12月27日 集英社/発行〕
「ネパールの宝珠を冠った獅子」(p.56) にある一文です。
日本の神社に鎮座する《狛犬(こまいぬ)》は《高麗(こま)犬》のことだとされますが、お寺にある仁王像のように「阿吽(あうん)」が一対となっていて、そもそもは口を開けた「阿」が《獅子》で閉じた「吽」が《狛犬》という役割分担があって《獅子・狛犬》と呼ばれていました。
そして古くは、《獅子》には頭頂に〈宝珠〉があって、《狛犬》の頭頂には〈一角〉がある場合が多いのです。
頭頂に〈一角〉をもつ《一角獣》は、西洋ではユニコーンとして知られていますけれども、日本には、《狛犬》のほかに幻獣《麒麟》とか《麒麟獅子(きりんじし)》とかがいるわけです。
日本への伝来以前を考えると、中国に野生のライオンはいないため、漢の時代に《獅子》を語る中国人にとって《獅子》は幻想動物に近かったかもしれません。
また幻想動物(合成獣)である《麒麟》の最大の特徴としては、『大漢和辞典』でも「頭上肉に包まれた一角あり」と解説されるように、〝角の先端が肉に覆われている一角獣〟ということでしょう。
この〝角の先端が肉に覆われている〟状態は、ネパールにある獅子像の〈宝珠〉と見た目は同じであるともいえます。
実際に、その見た印象は、ネパールの獅子像と同じような〈宝珠〉だったとしても、〈一角〉を持つ青銅の鍍金像が中国の河南省から出土した際には、後漢の時代の《麒麟》の像であるとされるわけです。
頭頂にあるのが〈宝珠〉ならば《獅子》で、〈一角〉ならば《麒麟》であると前提するなら、もしかして《狛犬》はもともと《麒麟》の担当であったかもしれないと、空想は飛翔していきますが。
中国では、いまも各地に残る、角や翼のある巨大な霊獣の像を麒麟像と呼ぶ場合があるようです。
そこから時空を超え、西域から渡ってきた霊獣《獅子》と、中国の《麒麟》伝説が融合した千年以上も先の未来、日本の江戸時代に〝麒麟獅子舞〟が因幡国で行われるようになった次第でありましょうか。
✥ ところで、ライオンを表す漢語は〝獅子〟ですが、〝獅〟という文字は、ペルシャ語の「シール (shīr) 」の音写であるとも、サンスクリット語の「シンハ (shṃha = shṁha) 」を翻訳したものであるともいわれています。
サンスクリット語に近いパーリ語では、ライオンは「シーハ (sīha) 」で、それと似た発音の「シンガ (siṅga) 」では「角、角笛、角の容器」とか「若獣、子牛」の意味になります。
〔水野弘元/著『増補改訂パーリ語辞典』(p.357, p.354)〕
また、玉を持つタイプの唐獅子を「狻猊(さんげい)」といって、この言葉はチベット語「センゲ」“seṅ ge (seng ge)” の音写であるともいわれます。
⛞ チベット語の〝獅子〟“seṅ ge” は、次のように記述されます。
〔〝獅子座〟“seṅ geḥi khri” は、仏陀の座る場所のことになります。〕
『チベット語字典』 草稿本(縮刷版)
〔芳村修基/編 法蔵館/発行〕
(p.1021)
སེང་གེ ① siṁha 狮子
(p.1022)
སེང་གེའི་ཁྲི (日)狮子座
⛞ サンスクリット語の〝獅子〟「シンハ “siṁha” 」は、次のように記述されます。
V. S. アプテ『梵英辞典』(改訂増補版)
〔昭和53年04月15日 複製第1刷 臨川書店/発行〕
(p.1679)
सिंहः 1. A lion
✥ そして、興味深いことには、「ライオン」の意味をもつスワヒリ語が「シンバ(スィンバ)」という発音なのでした。
ちなみに、現実の《一角獣》は、インド原産の「一角犀」しか存在しないといわれています。
―― 各種資料を参照した詳しい内容のページを、以下のサイトで公開しています。
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2020年12月21日月曜日
幻獣《麒麟》は乱世に立つ
鳥取県の東部「(旧)因幡国」には、2019 年(令和元年)に文化庁から日本遺産に認定された〈麒麟獅子舞〉の伝統行事があります。
その始まりは、江戸時代にあり、岡山から鳥取に国替えとなった池田光仲公が創始したとされます。
鳥取大学の教授であった当時に研究成果を発表されていた、野津龍(のつ・とおる)氏が一般向けに簡潔に述べた文献から、〈麒麟獅子舞〉発祥の経緯を、ここに適宜抜粋して紹介したく思います。
『獅子の文化と因幡の麒麟獅子舞』
第十七回国民文化祭・とっとり2002アジア獅子舞大会資料
野津龍/監修
第17回国民文化祭鳥取県・郡家町実行委員会/発行
「因幡の麒麟獅子舞」
(pp.11-13)
それでは、なぜ江戸時代の初期に、鳥取藩主池田光仲によって麒麟獅子舞が創始されたのであろうか。要約して述べると以下のようになる。
池田光仲は、寛永七年(一六三〇)六月十八日、岡山城主池田忠雄の嫡子として江戸に生まれた。ところが、寛永九年四月三日、父忠雄が病死し、光仲はわずか三歳で家を嗣いだが、徳川幕府は当時鳥取城主で十六年間藩政を執りしきっていた池田光政と交替転封を命じた。祖父輝政を同じくする光仲は、このとき備前岡山から因幡・伯耆の三十二万石への転封を余儀なくされるが、これがいわゆる岡山・鳥取のお国替えであった。
この交替転封が行われる前、光仲が幼少であったため、二十万石に減封されることが取り沙汰されたらしい。しかし、幕府は光仲に家督を許すとともに、備前岡山を転じて因・伯三十二万石を領することを命じた。減封されることなく光政と所領の交換だけという結論が出されたのは、光仲と徳川家との深い血縁関係によるものといわれている。したがって、この血縁関係は、光仲が因・伯を統治するにあたって、藩主権力を確立させるための格好の材料になった。
ところで、光仲が実際に鳥取に正式帰国するのは、慶安元年(一六四八)十九歳になってからである。そのとき、光仲が第一に心掛けたことは、お国替え以来十五年も続いた家老政治から、藩主親政への転換であった。そのためには、何よりも自らの出自を権威づける必要があった。光仲は外様大名ではあるが、祖母に家康の娘普宇姫(富姫とも督姫ともいう)を戴くので、これを利用しないはずはなかった。
そこで、鳥取に入国した光仲は、家康につながる自分の血統を内外に知らせるために、まず樗谿に鳥取東照宮を建てて、慶安三年(一六五〇)家康の御神霊を日光東照宮から勧請するのであった。このことは、同時に江戸時代の徳川幕府体制に忠節の誠を尽くす証にもなったのである。
さて、この鳥取東照宮、また別に東照大権現ともいわれた現在の樗谿神社の祭礼の「権現祭」を、光仲はこの上なく盛大に行おうとした。あまりにもその意気込みが激しかったので、御神霊は慶安三年に勧請したにもかかわらず、盛大な神幸行列を伴う「権現祭」が執行されたのは、勧請の年から二年遅れる承応元年(一六五二)であった。
そして、このときの神幸行列に、光仲は本邦初の麒麟獅子舞を考案して、参列させたのである。すなわち、従来の神幸行列では、神楽獅子があやし役の天狗によって誘導されるのが普通であったが、光仲はその神楽獅子の「頭」を一角の「麒麟」にすげかえ、あやし役に能の「猩々」を持ってきたのである。
どうして、光仲はこのようなことをしたのであろうか。それは「麒麟」という聖獣が、日光東照宮の彫刻・絵画でもわかるように、家康と親近関係にあったこと。その「麒麟」は中国古代から「王者至りて仁なれば則ち出づ」と、信仰されていたからである。
光仲は前者はもとより、後者の「麒麟」信仰のことを知っていたらしい。すなわち「すぐれた為政者がこの世に現れて、儒教の最高の徳目である『仁』によって政治を行うとき、麒麟はその為政者をあたかも祝福するかのように出現するし、そうした為政者が登場する前兆にも、この動物は出現する」という信仰である。
そこで、光仲は鳥取東照宮の「権現祭」に麒麟獅子舞を出してきて、一見、家康を讃えるかのように見せかけて、実はその王者は家康の血を引く自分でもあると、ひそかに誇示・宣伝したのである。
ここに麒麟獅子の「舞」が、因幡の国に起こってくる大きな原因があったが、その発生の根幹のところには、中国古代からの麒麟信仰が大きく存在していたことを忘れてはならない。
―― さてこの引用文中の「中国古代からの麒麟信仰」というのは、もともとは『春秋公羊伝』に語られている伝説で、紀元前 481 年(哀公十四年)に、聖なる獣《麒麟》が捕獲されて、乱世の最中に現れて死んでいくその聖獣を見て、孔子が「吾道窮矣(私の道は窮まった)」つまり「(なんてこった!)わしもこれまでなのだ」と嘆いた、という内容です。
聖人孔子の末路と聖獣麒麟の姿が、『春秋公羊伝』作者の目には、二重写しになっていたようで、感慨無量な物語なのです。
実は、かの『論語』に、これと似たような孔子の発言が残されています。貝塚茂樹氏の訳で、引用しておきましょう。
『世界の名著 3』 孔子 孟子
貝塚茂樹/責任編集
昭和41年03月19日 初版 中央公論社/発行
論語「第五巻」 第九 子罕篇 (9)
(p.196)
子曰わく、鳳鳥[ほうちょう]至らず、河[か]、図[と]を出[い]ださず。吾已[や]んぬるかな。
子曰、鳳鳥不至、河不出圖、吾已矣夫、
先生がいわれた。
「めでたい鳳凰[ほうおう]の鳥は舞い下りて来ない。黄河[こうが]からだれも神秘の図書を背負って出て来ない。わたしの運命もこれでおしまいだ」
麒麟も鳳凰も、中国では古き時代から、瑞祥の象徴とされてきました。
そんな「めでたい徴(しるし)」が現れても現れなくても、年を取ったので「わしもおしまいなのだ」ということのようです。
なにはともあれ、
「すぐれた為政者がこの世に現れて、儒教の最高の徳目である『仁』によって政治を行うとき、麒麟はその為政者をあたかも祝福するかのように出現するし、そうした為政者が登場する前兆にも、この動物は出現する」と、野津龍氏によって語られているように、やがて《麒麟》は平和を祈念する際の、象徴ともなったのです。
乱世の末期には、聖なる《麒麟》幻想が病んだ世を疾駆し、やがてトリックスター的な《麒麟》の申し子が、世界を変革していくのでしょう。
ちなみに国語辞典にも載っている言葉ですけれども、漢語で、ずば抜けて明知(明智・めいち)の秀でた少年を〈麒麟児(きりんじ)〉といいます。
かくのごとき《麒麟》に関する伝説は、漢の時代に確立したといわれています。漢の武帝は蓬莱山と不死の仙人を夢想する、秦の始皇帝以来の神仙思想最優先の皇帝でしたが、その挙げ句かどうか、紀元前 122 年(漢の武帝の元狩元年)には、またも《麒麟》が捕獲されてしまうのです。
このところ有名になったその物語は、司馬遷の『史記』に簡潔に語られています。
『史記』 縮刷版 二十四史 1 〔中華書局〕
「史記卷十二」 孝武本紀第十二
(p.120 [457-458])
其明年、郊雍、獲一角獸、若麃然。有司曰‥「陛下肅祗郊祀、上帝報享、錫一角獸、蓋麟云。」於是以薦五畤、畤加一牛以燎。賜諸侯白金、以風符應合于天地。
―― 各種資料を参照した詳しい内容のページを、以下のサイトで公開しています。
http://theendoftakechan.web.fc2.com/eII/hitsuge/kirin.html