2018年6月18日月曜日

八岐大蛇 と 踏鞴

八岐大蛇(やまたのおろち)とは〝踏鞴(たたら)の炎〟である、とも伝承される。

八岐大蛇とは、何であったのか。
スサノヲの蛇退治の神話にまつわる外伝がある。蛇を斬った〈剣〉の伝承を調べていくと、さまざまの資料から、別の物語が新たに見えてきた。
スサノヲの〈斬蛇剣〉の行方を追うきっかけとなった最初の文献から、以下に引用する。

〔参考資料〕
『三種の神器』〔稲田智宏/著 2007年06月15日 学習研究社刊〕 より引用

第二章 三種神器の神話的な背景
 宝剣
 (pp. 122-123)
 ① 大蛇を斬った剣
 素戔嗚尊が出雲の地で八岐大蛇を斬ったという剣は伝承によって相違が見られ、『古事記』および『日本書紀』本文では十拳剣(十握剣)、紀第二の一書で蛇の麁正、第三の一書では蛇韓鋤[おろちからさひ]の剣、第四の一書では天蠅斫剣、『古語拾遺』では天羽々斬という名の天十握剣だとされる。~~。
 また後に蛇の麁正は「石上に在す」、蛇韓鋤の剣は「吉備の神部の許に在り」、天羽々斬は「石上神宮に在り」といった相違も見られる。これらの所在地については、備前国に石上布都之魂[いそのかみふつのみたま]神社があるので、石上または石上神宮というのは大和国のそれではなく、備前国の石上布都之魂神社を指しているのだという意見もある。しかし大和国の石上神宮は古代にあって神宮の号が付される数少ない神社であることから、石上神宮と表記されていればやはり大和国の石上神宮のことで、備前国の石上布都之魂神社とは別だろうと思われる。したがって八岐大蛇を斬った十握剣の所在地は吉備国とする伝承と石上神宮とする伝承の二つが古典に見られるということだが、『新撰姓氏録[しんせんしょうじろく]』には仁徳天皇の御代に市川臣[いちかわのおみ]が布都努斯[ふつぬし]神社を「石上の御布瑠邑[みふるのむら]の高庭」に祀って神主となったとあり、石上神宮の文献にはより具体的に、仁徳天皇の五十六年に市川臣が備前国の石上社から剣を遷して祀ったという。


EMERGENCE II として新しい試みを模索中
Google サイト で、本日、同一内容を公開しました。

The End of Takechan
八岐大蛇 と 踏鞴
https://sites.google.com/view/theendoftakechan

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