2018年5月15日火曜日

ユング派的「竜との戦い」

 スサノヲの物語をきっかけとして〝蛇退治〟とか〝竜殺し〟ないしは〝神殺し〟の神話を追っていて、このたびは自己言及的〈ウロボロス〉の物語に行きついた。ご存知かと思うが〈ウロボロス〉は自分の尾をくわえた蛇の形象で表現される。
 旅のはじまりは、そもそもはどのようであったか、少々振り返れば。

奇稲田姫(クシナダヒメ)と たなばた伝説
――(2018年3月29日木曜日)から抜粋 ――

 日本で神々を天神地祇(てんじんちぎ)という。〝天の神、地の神〟の意味になるのだけど、〝天神〟が〈天つ神〉ならば、〝地祇〟は〈国つ神〉に相当する。
 土地に根差した固有の支配と信仰があって、祀り(まつり)が正しければ、豊年は保たれる。
 けれども、どんな支配や秩序も、やがては疲弊していく。
 そこへ新しい〈力〉を携えて、なにかがやってくるのだ。

 さて。出雲の地に素戔嗚(スサノヲ)が降り立った時、その土地は〈力〉を失いつつあった。斐伊川(ヒノ川)の〈国つ神〉は、大蛇(ヲロチ)だったけれども、このままではもはや田に、来年の稔りは期待できなくなっていた。
 日本書紀の一書によれば、天神スサノヲは、地祇であるヲロチにこういったという。
「汝は、畏(かしこ)き神なり」

 この物語はいわゆるアンドロメダ型の、英雄譚であるといわれる。
 が、単純な英雄譚とは異質だという気もする。このストーリーで、奇稲田姫(くしいなだひめ)は、〈櫛(くし)〉に変化(へんげ)して、スサノヲとともにヲロチと対峙するのであるから、アンドロメダ型のただの〝捕われの姫〟ではありえない。

 クシナダヒメが、巫女であったという推論は、調べてみると、昭和 30 年の文献にすでにあった。
 松村武雄『日本神話の研究 第三巻』〔1955年 培風館〕で詳細に論じられていて、同書では、八乙女(やおとめ)という「八人一組の巫女を認取する」〔同 (p.198) 〕という視点からまず、論が展開されていく。

―― 抜粋終わり ――

 ここに「アンドロメダ型」としたものは、いわゆる「ペルセウス・アンドロメダ型」と呼ばれる神話のことだ。
―― この神話型について、昭和 51 年に刊行された本に、簡潔な説明があった。

 八岐大蛇退治のスサノオは、神というよりは、むしろ民に危害を加える怪物を殺して、乙女を救う青年英雄である。オリエントやヨーロッパなどの叙事詩や伝説に出てくる英雄は、そうした人身御供に捧げられた乙女を救い、怪物や悪龍を退治し、乙女と結婚するという筋を持っていることが多い。いわゆる「ペルセウス・アンドロメダ型」と呼ばれる民譚がこれである。ギリシアのペルセウスが、海の怪物の餌食[えじき]にされようとしたアンドロメダ姫を救う話は有名であるが、イギリスのベオウルフ、聖ジョージ、ドイツのジーグフリートなどみなそうした英雄である。これはユーラシア大陸に広く分布する、世界拡布[かくふ]型の説話であるが、東アジアでは、中国、朝鮮、インドシナ、ボルネオ、フィリピン、アイヌ、ギリヤークなどに分布し、大林太良氏などは、これを文化文明の影響下の産物であろうと述べている(『日本神話の起源』)。
〔松前健/著『出雲神話』1976年 講談社現代新書 (pp.88-89)

 最初に書いたようにこの神話の旅は巡り巡って、とうとう〈ウロボロス〉の物語に行きついたのだった。
 エーリッヒ・ノイマン/著意識の起源史』〈改訂新装版〉(“URSPRUNGSGESCHICHTE DES BEWUSSTSEINS” 1971) は、冒頭に置かれたカール・グスタフ・ユングの「序文」(1949年3月)にも書かれているように、全編が〈ウロボロス〉で貫かれている。
 実にその後半部で唐突に、〝八岐大蛇退治〟の物語が図版で登場する。図柄の右半分に英雄と姫が配置され、向かい合わせとなる左側に、大蛇(竜)が描かれているものだ。
―― 歌川豊国筆「素盞嗚命・八岐大蛇」(東京国立博物館)の絵であり、そこに添えられた説明文は、次のごとくである。

図 75 八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を退治するスサノヲ。その結果、非人格的で不滅な草薙の剣と、アニマとしての櫛名田姫を得る
〔改訂新装版『意識の起源史』林道義/訳 2006年 紀伊國屋書店 (p.389)

―― その図が指示されている本文の個所には次のように記されている。

神話の元型的諸段階を踏んでいくこうした自我の発達は、「竜との戦い」〔図 75〕の目的として明らかとなった方向・すなわち不死と永生の獲得・に向かっている。「竜との戦い」において超個人的で壊れないものを獲得することこそ、人格発達に関する限り、獲得された宝のもつ、究極の最も深い意味である。
〔同上 (p.388)

 この引用文の前後を見渡しても本文には、スサノヲは、登場しない、にもかかわらず、〝八岐大蛇退治〟をテーマとした図版がページを飾っている。
―― どういう次第であるのか、「訳者あとがき」を読むにいたって、原著にこの図はないことが明らかとなる。

 なお本文中には、イメージによる理解を助けるために原著にはない図版を挿入した。
〔同上「改訂版 訳者あとがき」 (p.612)

―― にわかに腑に落ちたところで、さて本文の全容は訳者の「解説」によっても概観できる。たとえば ……

 ウロボロスは蛇が自らの尾を食べていることによって自足を表わし、また円をなすことによって完全な一体化の状態、すべてのものが未分離のうちに融合し、渾然一体をなしていることを象徴している。したがって意識と無意識、母と子が一体となっている「原-関係」を表わすのにまことにふさわしいシンボルと言うことができる。
…………
 思春期になると元型がにわかに活性化する。元型はいろいろな具体的な姿をとって若者を襲う。あたかも英雄神話に登場するような多様なイメージをもって意識に対して出現する。これを著者は元型が分解・細分化・形象化して個人に体験される、と表現している。その最初の現われが原両親の分離であり、太母も細分化して、お伴の動物、迫害の手先である伯父・雄猪・野牛など、魔女やその姉妹、といった多様な姿をとるようになる。これはじつは自我が強化されたことに対応しており、自我が元型の世界を具体的に区別し、その中の対立を体験し認識できるようになったことを示しているのである。
…………
 ユングを多少とも学んだ者は「竜」が太母を意味し、「竜との戦い」が太母との戦いであると思っているので、父との戦いも「竜との戦い」の中に入ると言われると、いささかとまどいを感ずるかもしれない。しかしノイマンは「竜」を単に太母とのみは見ないで、ウロボロスが原両親となって、父と母とが分離してくる段階のものと捉え、その分離に応じて「竜との戦い」も重層的・段階的になっていると見ているのである。いわばこの段階の理論的整理は著者自身のよく発達した自我-意識の機能を使って綿密になされているのであり、その意味ではこの部分を十分に理解できるかどうかによって読む側の意識の発達度が測られるとさえ言えるかもしれない。ここではフロイトとユングの仮説との対決がなされ、ノイマンの独特の仮説が提示されているのである。
〔同上「解説」 (p.583, p.589, p. 593)

 ここで太母と称されるのは、ユングの〝元型論〟に登場する概念だ。
 ユング自身の論考の邦訳書元型論母元型の心理学的諸側面という論文が収録されているので、それが参考になろうかと思われる。試しにその索引でを探して該当ページを見れば、竜(すべての呑みこみ巻きつく動物、たとえば大魚と蛇)と本文中にあった。
 ユングによれば母元型の、特徴の一部であるらしい。

 そしてノイマンによれば、竜との戦いは、親から自立するための一歩のようだ。
 始源の〈ウロボロス〉がふたつに解体されることで、対立が発生し、世界に境界があらわれて、秩序づけられていく。
 すなわち対立とは、
より高い質的に異なる統一体の一部となる」〔同上 (p. 166)
ための、基礎らしいのだ。
 これは他者と相互関係にありつつ自己の内部における対立物との闘争を構想する弁証法と思われる。
 ただしここには、生命の特性であり、〈ウロボロス〉のもうひとつの根本的性質であるところの、自己言及の円環は見えない。
 この円環は、自己言及の最中にはじけて回帰すべき形を見失い、螺旋(らせん)を描きはじめる。
 全体だったはずの円形の時間は、自己言及することで同じ状態には戻れなくなるのだ。
 こうして旅は円環の回帰から螺旋へ捩れる。


ウロボロス
http://theendoftakechan.web.fc2.com/ess/emergence/uroboros.html

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