2015年7月1日水曜日
謂ゆるスピノザの「神即自然」というガラパ学説 について
2015年7月8日水曜日
《知は力なり》という学説 というより慣用句
という表題でこの場に文章を書いてから、はや、ひと月以上が経過して、
スピノザが論点とした、デカルトの「思惟」と「延長」について、
あるいは、ベーコンやデカルトが、拠り所としようとした「自然の光」について、
もしくは、打ち破ろうとしたアリストテレス主義というものについて、
『アリストテレス全集』の解説でも触れられていたボエティウスから、
トマス・アクィナスに続く道が、ようやく見えてきたような感じです。
それに加えて、イスラム経由のアリストテレス哲学がなぜ危険視され、異端視されたか、
その理由もある程度、明確化された記述にも、行き当たることができました。
ぶっちゃけ、新しい思想は、その完成度が高ければ高いほど、
危険視され、排除されようとする、ということのようです。
それは、つまり、
旧(保守)勢力の既得権益がそれだけ阻害され、破壊されてしまう危険性が高くなるためなのです。
そしてそれと同じことは、アリストテレスがキリスト教神学の礎となった後[のち]にもまた、
繰り返されることになったのです。
異端視される者たちは、現在のように刷新された当時と同様の思想を「新しい言葉」で語り、
それが受け入れられた後には、もっと「新しい言葉」で語られた彼らの思想を、
異端として、敵視してしまうようなのです。
トマスもベーコンもデカルトも、「神の知」と「人の知」について、
結局は、同じことをいっているように思われます。
――すなわち、ひとは思い上がってはいけない、と。
デカルトの言葉を、『デカルト著作集 3』(P. 77) から引用してみましょう。
しかし、他のすべてに先立って、最高の規則として記憶に銘じておかなければならないことがある。それは、神によってわれわれに啓示されたことは、すべてのうちで最も確実なものであると信じなければならないということである。そして、たまたま理性の光が何かそれとは他のことを、このうえなく明晰で明証的なこととしてわれわれに暗示するように思われることがあっても、われわれ自身の判断によりもむしろ神の権威のみに、信を置くようにすべきである。~~。 〔第一部 76〕
ちなみに、トマス・アクィナスは『神学大全』第 3 問第 2 項で、「延長的量」に言及しており、
「延長的量」quantitas dimensiva とは、縦、横、高さの三次元に拡がる量である。
という解説が訳者により施されています。
〔再 (7月1日)〕 スピノザ ―― 《 自然という書物 》
http://theendoftakechan.web.fc2.com/nStage/LiberNaturae.html
〔再 (7月8日)〕 ベーコン ―― 自然の光 1
http://theendoftakechan.web.fc2.com/nStage/Bacon.html
自然の光 2
http://theendoftakechan.web.fc2.com/nStage/LumenNaturale.html
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