2022年4月28日木曜日

『旧約聖書』の〈サタン〉と「王の目と耳」

 ―― 今回は、『旧約聖書』の〈サタン〉について、参考にした文献資料の引用を、ながながと、おこなってから、本題をはじめます。



“THE ORIGIN OF SATAN”

 by Elaine Pagels

Copyright © 1995 by Elaine Pagels.

『悪魔の起源』

〔エレーヌ・ペイゲルス/著 松田和也/訳 2000年02月28日第刷 青土社/発行〕

 (p.75)

 西欧キリスト教国に於いては、サタンは「悪の帝国」―― すなわち神と人類の双方に戦いを仕掛ける悪意ある霊の軍団 ―― の指導者ということになっているが、ヘブライ聖書に於いても、また今日のユダヤ教の主流派に於いても、サタンがそのような存在として描かれることはない(7)。ヘブライ聖書に最初に登場した時のサタンは、必ずしも悪ではないし、神に敵対しているなどということも全くない。それどころか、『民数記』や『ヨブ記』に於いては、彼は神の従順な従僕のひとりなのである――彼は神の使者、すなわち天使[エンジェル]なのだ。この angel という語は、ヘブライ語の「使者 (mal’āk)」をギリシア語 (angelos) に翻訳したものである。ヘブライ語では、天使たちはしばしば「神の息子たち」(benē’elōhīm) と呼ばれ、巨大な軍団、もしくは宮廷として描かれる。


 (p.76)

 物語の中にサタンを登場させることによって、予期せぬ障害や運命の逆転をうまく説明することができた。ヘブライの物語作者たちは、しばしば禍いの原因を人間の罪に帰す。だが中には、これを説明するためにサタンという超自然的な存在を登場させる場合もある。このサタンは、神自身の命令もしくは許可によって、人間の計画や希望を妨害したり、これと敵対したりする。とは言うものの、この使者自身は必ずしも悪意を持っているわけではない。死の天使と同様、ある特定の使命を果たさせるために、これを送り込むのは神なのである。ただ、その使命が人間にとっては歓迎されざるものであるというだけなのだ。学識深い研究家のニール・フォーサイスは、サタンについてこう述べている。「もしも道が悪であれば、そこにある障害物は善である(9)」。そこでサタンが主から使わされたのは、更なる禍いを防ぐためであったということもあるかもしれない。例えば『民数記』にあるバラムの物語は、神が行くなと命じたところに行こうとした男の物語である。バラムは驢馬に鞍をつけて出発するが、「彼が出発すると、神の怒りが燃え上がった。主の御使いは彼を妨げる者となって、道に立ちふさがった」。この「彼を妨げる者」が原語では le-śāṭān-lō なのである。すなわちここでの「サタン」とは、「妨げる者」の意味なのだ。この超自然的な使者の姿はバラムには見えないのだが、彼の驢馬はこの使者の姿を認め、立ち往生してしまう。


 (p.78)

『ヨブ記』に於いてもまた、サタンは超自然的な使者、神の宮廷の一員として描かれている(10)。だが、バラムのサタンが彼を禍いから守ったのに対して、ヨブのサタンはもう少し敵対的な役割を果たす。ここでのサタンは、神がヨブに対して禍いをもたらすように煽動する。そして神は自らその煽動に乗るのである(第二章三節)。物語はまず、サタンが天使すなわち「神の息子」(ben ’elōhīm) として登場するところから始まる。この言葉は、ヘブライ語のイディオムでは、しばしば「聖なる者のひとり」を意味する。ここで天使サタンは、「主の前に神の使いたちが集まる」とされていた日に、他の天使たちと共にやってくる。そこで主が、おまえはどこから来た、と尋ねると、サタンは答えて言う、「地上を巡回しておりました。ほうぼうを歩きまわっていました」。ここで作者は、ヘブライ語で「巡回する」を意味する shût という語と、サタンという語の音の類似を用いて言葉遊びを行ないながら、天の宮廷に於けるサタンの特別の役職を示している。すなわちそれは一種の巡回諜報部員であり、当時のユダヤ人の多くは、そうした役職の者を知り――そして嫌悪していた。当時のペルシアの王は、秘密警察と諜報局のシステムを高度に発達させていたからである。「王の目」「王の耳」として知られるこれら諜報部員は、帝国内を巡回しながら、人々の間に国王への謀反の徴候がないかどうか、監視していたのである(11)


原註

 7 多くの学者が、この事を指摘している。近年の研究の中では、Neil Forsyth, The Old Enemy: Satan and the Combat Myth (Prinseton: Princeton University Press, 1987), 107 に「キリスト教徒には ……『旧約聖書』として知られている文書群に於いては、この言葉[サタン]は … 敵の名前として登場することはない。…… むしろ、『旧約聖書』にサタンが登場するときは、彼は天の宮廷の一員であり、ただ特殊な任務を持っているというだけである」。〔以下略〕

 9 Forsyth, The Old Enemy, 113.

10 Day, An Adversary, 69‐106 に於ける論考を参照。

11 Forsyth, The Old Enemy, 114.



Neil Forsyth

“THE OLD ENEMY”

Satan & the Combat Myth

© 1987 by Princeton University Press

『古代悪魔学』

サタンと闘争神話

〔ニール・フォーサイス/著 野呂有子/監訳 倉恒澄子 小山薫 田中洋子 圓月勝博 /訳 2001年05月30日 財団法人 法政大学出版局/発行〕


 第五章 旧約聖書のサタン

 (p.147)

 ヘブルの宗教が「諸民族への光」としての新しい特質を持つに至ったのは、預言者である第二イザヤによるところが大きい。


 (p.149)

とにかく第二イザヤは、神は闇も光も造る、というひたむきな信仰を言明している。〔中略〕 ことに、ヤハウェは悪を生み出すのである。

 聖書の執筆者で、一神論の見解をこれほど徹底して支持しているのは、他にはヨブ記著者のみである。


 (pp.150-151)

 残念なことに、ヨブ記がいつ、どこで書かれたかについて、専門家はいかなる合意にも達していない。

〔中略〕

 ヨブ記の持つ哲学的深みにも、第二イザヤの持つ情熱のこもった明晰さにも、ヘブルの一神論はほとんど到達しなかった。〔中略〕 やがて、それ自身確かに悪である闇が独立した存在となり、それを造ったのは神であると第二イザヤが断言している、神そのものに敵対することになるだろう。

 われわれが知るとおり、ヨブ記のテクストは民話の枠組みで始まっているが、そこでの「サタン」が後に発展する根源を、われわれはヨブ記にも見いだすであろう。ヨブ記の大部分は完全に地上が舞台となっており、われわれはヨブ自身と友人たち、妻の視点からヨブの災いを見ることを許されるのだが、この書は短いプロローグの後、天の法廷での場面と、神とサタンとの賭けで始まっている。ここで「サタン」という単語は定冠詞を伴っているので、固有名詞というよりも称号であり、「司法長官」か「検察官」にほぼ相当するものである。ウガリト語のテクストによく出てきて、神の息子たちを表わし、ヘブル伝承ではおおむね天の法廷のメンバーであると考えられる「ベネ・エロヒーム」の一人として、「サタン」は描かれている。


 (p.154)

 ヘブル語の śṭn は母音がついて śāṭān となり、英語の opponent(敵対者)に近い意味を表わすが、その根本にある意味は「道をふさぐ」、「じゃまをする」ということである。例えば、バラムのロバについての奇妙な挿話において、ヤハウェの天使であるマラク・ヤハウェは、 le‑śāṭān‑lō ――「かれに対する障害物として」――道に立って、行く手をふさぐ。モアブへのバラムの旅は〔神に〕認められなかったので、この天使は神の意志を遂行しているにすぎない。そして思慮あるロバは、乗り手がこの障害物に気づかず、何度も促したにもかかわらず、障害物が目に入るだけの知覚をもっている。七〇人訳聖書[セプトゥアギンタ](ギリシア語訳)はここで endiaballein という語を用いているが、その根本にある意味はやはり「道をふさぐように何か置くこと」である。diabolos というのは、diaballein という動詞の表わす行為をなす人物である。śāṭān および diabolos という単語は、同様に不快な意味に進んでいったけれど、バラムのロバの挿話は、そのどちらの単語にも必要悪など付随しない、ということを示している。もし道が悪ければ、障害物はあってよいのだ。


 (pp.156-157)

 ここでのヘブル語の糸口は「行き巡る」をあらわす語 šûṭ である。ヘブル語もアラビア語も、英語よりずっと容易に語呂合わせの可能な言語だが、それは書きことばの古い形態に母音がなかったためである。よってわれわれは、こんなデリダ J。一九三〇年-、フランスの哲学者)風のことば遊びに遭遇するたびに、必ずしも何か深遠な意味を想定する必要はない。しかし少なくともこの場合、ヨブ記の著者は「敵対者」の一般的な概念と響き合うように、より限定された概念を持ち込んだのである。ヘロドトスが述べているが、ペルシアの勢力は、「王の眼」とか「王の耳」として知られる者もいた巧妙な諜報部員制度に大いに依存していたということである。この制度は Savak (イランの秘密警察組織、一九五七-七九年)KGB(旧ソ連国家保安委員会)にも似た、一種の秘密警察機構であり、その目的は地方総督の監視を続けること、いかなる暴動の動きもかぎつけて報告することであった。クセノフォン(前四三〇頃-三五四年頃、ギリシアの軍人、著述家)は「王には多くの耳と多くの眼がある」ということわざを引用している。だからこのヘブル語の語呂合わせは、偉大なる王の臣下を特に悩ませたに違いないある制度に言及しているのであって、少なくともヨブ記のサタンに関する部分はペルシア時代に書かれた、ということを暗示するのかもしれない。この šûṭ という単語に、これと類似した動詞「歩き回る」(hiṯhallēḵ) がつけ加えられているが、この語は、危害を加えようとして歩き回る邪眼や、悪霊に適用されるアッカド語の単語と、語源をともにしている。



 ―― 以上、ながながと、参考資料の引用をしましたけれど。ここから、本題となります。


⛞ さて、ニール・フォーサイス/著『古代悪魔学』 (p.156) の記述を、原注を含めてあらためて引用しますと、


ヘロドトスが述べているが、ペルシアの勢力は、「王の眼」とか「王の耳」として知られる者もいた巧妙な諜報部員制度に大いに依存していたということである。(29)

(29) How and Wells 1928 : vol.1, 108. この考え方を最初に展開したのは Tur‐Sinai 1957 である。


と、書かれていて、その本文の原文と原著参考文献は、次のとおりです。


Herodotus tells us that the power of Persia depended heavily on an elaborate system of intelligence agents, some of whom were known as “The King's Eye” or “The King's Ear.” 29


How and Wells 1928

 HOW, W. W., and WELLS, J. 1928. A Commentary on Herodotus. 2 vols. Oxford: Clarendon.


Tur‐Sinai 1957

 TUR‐SINAI, N. H. (Harry Torczyner). 1957. The Book of Job: A New Commentary. Jerusalem: Kiryath Sepher.


―― この点について、若干の考察を加えてみますと、


ペルシアの勢力は、「王の眼」とか「王の耳」として知られる者もいた巧妙な諜報部員制度に大いに依存していたということをヘロドトスが述べているという情報は、


 HOW, W. W., and WELLS, J. 1928. A Commentary on Herodotus. 2 vols. Oxford: Clarendon.


に記されている内容を参考にしたものである、と読めます。

 その原著参考文献 HOW, W. W., and WELLS, J. 1928. A Commentary on Herodotus. 2 vols. Oxford: Clarendon. の記述については、1912 年の版で、原文の内容確認ができました。


“A COMMENTARY ON HERODOTUS”

WITH INTRODUCTION AND APPENDIXES

 by W. W. HOW and J. WELLS

IN TWO VOLUMES

VOLUME I (BOOKS I-IV)

OXFORD AT THE CLARENDON PRESS 1912


BOOK I

 (p.108)

114 2

 ὀφθαλμόν. The ‘eyes and ears’ of the Great King (cf. Xen. Cyr. viii. 2. 10) were thought by the Greeks to be a sort of spy system (cf. 100. 2), but this is an exaggeration. The ‘eye of the king’, however, was a real officer, in constant attendance on him (cf. Aesch. Pers. 980, and ‘Pseudartabas’ in Arist. Ach. 92).



⛞ この引用文中の、(cf. Xen. Cyr. viii. 2. 10) とは、Xen = Xenophon’, ‘Cyr = Cyropaedia で、つまり、


“Cyropaedia of Xenophon” 邦題『キュロスの教育』 8 巻・第 2 章・第 10 節を参照


という、意味になります。


⛞ またギリシャ語の、ὀφθαλμόν という語句について、辞書には、


ὀφθαλμός ①眼、視力、視界、

ὀ. βασιλέως 大王の眼=ペルシャ王の目付役


と、記されています。


 ◎ それでは、今回最後の引用としてここで、ヘロドトスの『歴史』および、クセノフォン (Xenophōn) の著作『キュロスの教育』の該当個所と、その第 11 節・第 12 節を続けて参照しておきましょう。



ワイド版 岩波文庫 294

Herodotus HISTORIAE

『ヘロドトス 歴史』(上)〔全 3 冊〕

〔松平千秋[まつだいら・ちあき]/訳 2008年02月15日 岩波書店/発行〕


 巻一

 (p.95)

 100 彼〔デイオケス〕はこのような諸制規を定め、独裁権をふるって自己の地位を強化したのち、治安(正義)を守るのに極めて峻厳な態度をもって臨んだ。訴訟は文書にして彼の許へ届けると、それに裁定を下して返すのである。訴訟については右のようにしたが、その他の事柄については次のように処理した。不法な行為をしたものがあるときくと、その者を連れてこさせ、そのときどきの罪に応じて処罰した。そして全領にわたって監視探知のための密偵をめぐらしていた。

 101 デイオケスはメディア民族のみを統一し、これを統治したのであった。メディア民族の中には、ブサイ、パレタケノイ、ストルカテス、アリザントイ、ブディオイ、マゴイなどの部族がある。メディアにはこれだけの部族があるのであるが、さて ――

 (pp.105-106)

 114 この子供が十歳になったとき、この子供の身に次のようなことが起って、その素姓が明るみにでることになった。ある日その子供は村の路上で ―― 牛飼たちの牛舎もその村にあったわけだが ―― 同じ年頃の子供たちと遊んでいた。そして遊びの間に子供たちは、牛飼の子ということになっていたこの子供を、自分たちの王様にえらんだのである。王様にえらばれたその子供は、子供たちの分担をきめ、家を建てるもの、王の護衛をするもの、また一人はいわば「王の目」となるもの、また王にいろいろな報告をする役のもの一人、というふうに子供ひとりひとりに役目を与えた。さて子供の中に、メディアでは名士であったアルテムバレスという者の子供も一緒に遊んでいたが、キュロスから言い付かったとおりしなかったので、キュロスはほかの子供たちにその子供を捕えさせ、捕えてくるとその子を鞭で打ってさんざんな目に遭わせた。やがてその子供は放してもらうと、自分のようなものが受けるはずでない仕打を受けたという気持から一層腹が立ち、町へ帰りキュロスからされたことごとを父に訴えたのである。もちろんキュロスはその頃はまだキュロスという名ではなかったから、アルテムバレスの子も、キュロスとはいわず、アステュアゲス王の牛飼の子だといったのである。アルテムバレスは怒ってその子供を連れてすぐさまアステュアゲスの許へゆき、怪しからぬ目に遭いました、といい、

 「王よ、私どもはお抱えの奴隷、牛飼奴の伜からかような狼藉に遭いました。」

と子供の両肩を示した。



『キュロスの教育』

﹝クセノポン (Xenophōn) /著 松本仁助[まつもと・にすけ]/訳 2004年02月15日 京都大学学術出版会/発行〕


 第 8 巻 「第 2 章」

 (p.354)

10 いわゆる王の目、王の耳と呼ばれる者たちを彼は贈り物や名誉を与える以外の方法で獲得しなかったのを、われわれは知っていた。すなわち、王にとって重要なことを知ってほしいと願って知らせてくれた者たちにおおいに報いることで、王に役立つのには何を知らせたらよいのか、と多くの者に彼は聞き耳を立てさせたり、探らせたりしたのである。11 この結果、多くの目と多くの耳が王のものである、と見なされた。王は一人の目を選ぶべきだという考えの者がいるなら、その者は正しい考えをしていない。一人ならわずかのことしか見えないし、聞けないからである。また、一人だけにそのようなことが命じられると、他の者はいわば注意を払わなくてよい、と命令されているようなものである。そうでなく、何か注意をする価値のあることを聞くか見るかした者すべての言うことに王は耳を傾けるのである。12 このようにしているからこそ、王は多くの耳と多くの目を持っている、と信じられている。また、人々はどこにいても王が聞いているかのように王に不都合なことを言ったり、王が側にいるかのように王に不都合なことをするのを恐れたのである。したがって、キュロスの悪口を人に言うようなことを誰もあえてしないばかりか、常に側にいる者がすべて王の目であり、耳であるように各人は振る舞った。人々が彼にこのような態度をとったのには、彼が小さな功績にも大きく報いる気持を持っていたことが、もっとも大きな原因である、とわたしは見ている。



⛞ この第 11 節・第 12 節に多くの目と多くの耳が王のものであるあるいは王は多くの耳と多くの目を持っているという、記述もあるわけです。


  というわけで、以上の参考文献の内容に、若干の考察を加えて、今回の最後に判明したのは、ヘロドトスが述べているが、ペルシアの勢力は、「王の眼」とか「王の耳」として知られる者もいた巧妙な諜報部員制度に大いに依存していたという、ニール・フォーサイス氏の記述は、何らかの誤解を招いているようにも思われるということなのです。


―― その他の資料を参照・引用したページを、以下のサイトで公開しています。


ヨブ記のサタンとキュロス王の目と耳

http://theendoftakechan.web.fc2.com/eII/amrta/iob.html


2022年3月11日金曜日

旧約聖書の救世主キュロス王

 前回(2021年12月25日土曜日)には「ミトラス教と冬至の救世主伝説とマギ」として、次のように書きましたが……。


――――

 その昔、ローマ帝国では、

274 年に、アウレリアヌス帝が太陽神の宗教を国教化し、

12 月 25 日「不敗なる者の生誕の日」(Dies Natalis Invicti) が国の祭日とされて、

これが、クリスマスの起源となりました。


 そして紛れもなく、クリスマスの日付設定には、ミトラス教の太陽神の誕生日が用いられているということなのです。


 ◎ ここでマギの立場を考慮するなら、救世主として、ミトラ神を想定していたようでもあります。

――――


 とかいうわけで。

 救世主伝説はどうやら、キリスト教よりも先に、ミトラス教で盛んだったようです。


 ⛞ また以前にも触れたことがあるのですけれども、そもそも、旧約聖書時代の(ユダヤ教の)救世主伝説というのは、ペルシャの王から始まったようなのです。



『聖書 新共同訳』

 旧約聖書「イザヤ書」

45. 1

 (p.1135)

 主が油を注がれた人キュロスについて

 主はこう言われる。



『新共同訳 旧約聖書注解Ⅱ』

〔1994年11月20日 日本基督教団出版局/発行〕

 「イザヤ書」 注 解

 四四・二四-四五・一三 キュロスによる解放

 (p.337)

このうち特にキュロスに対して四五・一では改めて《油を注がれた人〔マーシーアハ〕》という呼称が与えられ、その戦勝が約束される。マーシーアハは新約聖書ではメシアースと音訳され(新共同訳は《メシア》)、キリストを指す(ヨハ一・四一、四・二五)が、旧約聖書では終末論的救済者を表すことはない。むしろ現実の王(サム上二・一〇、一二・三、五、詩一八・五一など)、祭司(レビ四・三、五、一六など)、預言者(詩一〇五・一五)などの称号である。



『歴史学事典』【第 11 巻 宗教と学問】

〔平成16年02月15日 弘文堂/発行〕

 (P. 635)

メシア

[ヘブライ] māšîaḥ [希] Christōs

 メシアとは、ヘブライ語聖書(旧約聖書)で頻出するヘブライ語「マシーアハ」に由来する言葉で「油注がれた(人あるいは物)」を意味する。七十人訳ギリシャ語聖書では「クリストス」となる。また、ヘブライ語の音表記をそのままギリシャ語に用いた例として、新約聖書の『ヨハネ福音書』で、最初の弟子がイエスをメシアと呼ぶ記述がある (1 : 41)。この語の元来の意味は、古代イスラエルにおいて、何らかの人や物を神聖なものとして公共の目的のために聖別する儀礼において、その人や物にオリーブ油を注いだことを指す。



―― その他の資料を参照・引用したページを、以下のサイトで公開しています。


旧約聖書の《メシア》キュロス王

http://theendoftakechan.web.fc2.com/eII/amrta/messias.html


2021年12月25日土曜日

ミトラス教と冬至の救世主伝説とマギ

 その昔、ローマ帝国では、

274 年に、アウレリアヌス帝が太陽神の宗教を国教化し、

12 月 25 日「不敗なる者の生誕の日」(Dies Natalis Invicti) が国の祭日とされて、

これが、クリスマスの起源となりました。


 当時のローマ周辺で、太陽神の宗教であるミトラス教が盛んだったのです。が、

その後、コンスタンティヌス帝は政治的な理由で、キリスト教徒を弾圧するのはやめて、

313 年に「ミラノ勅令」によりキリスト教信仰の自由を保証。

325 年に「ニカイア公会議」を招集。


 そしてついに「ニカイア公会議」の結果を得て、

354 年には、ミトラス太陽神誕生の日と伝承される冬至が、キリストの誕生日として制度化されたようです。


12 月 25 日は「不滅の太陽の生誕日」(Natalis Solis Invicti) とも、いわれています。


 やがてローマ帝国を再統一したテオドシウス帝が、キリスト教をローマの国教にしたのは、392 年のことでした。


 ◯ ここに登場する〈ミトラス神 (Mithras) とは、

ゾロアスター教では〈ミスラ (Mithra) とも〈ミフル (Mihr) ともいわれ、

インドの『リグ・ヴェーダ』では〈ミトラ (Mitra) と、呼ばれる神のことになります。


 そしてローマの「ミトラス教(ミトラ教)」は、『プルタルコス英雄伝』に最初の記述があります。

―― 引用します。



ちくま学芸文庫

『プルタルコス英雄伝』

〔プルタルコス/著 村川堅太郎/編 1996年10月09日 筑摩書房/発行〕


ポンペイウス 〔吉村忠典/訳〕

 (p.94)

また彼らはオリュンポス(1)で異国風の犠牲式をとり行ない、さまざまな密教の祭祀をも行なったが、なかんずくミトラ教は、彼らが最初に輸入したもので、今の世にまで伝えられている。

 (1) 有名なオリュンピアでもオリュンポス山でもなく、小アジア南岸のリュキア地方にある小邑。



 ◎ この記述の前後に「ミトリダテス戦争」と呼ばれる戦争の様子が描かれており、それは紀元前 1 世紀のこととされています。



中公新書 2523

『古代オリエントの神々』

〔小林登志子/著 2019年01月25日 中央公論新社/発行〕


 第一章「 4 ミトラス神 ―― 変容した太陽神」

 (pp.86-87)

 前一世紀前半には、アナトリアの地中海岸、特にその東部に位置したキリキア地方には海賊たちの拠点があった。多くの海賊たちの出自はヘレニズム諸王国の軍人たちであって、彼らが仕えた王国は紀元後一世紀までにはローマ帝国領に組み込まれてしまい、軍隊は散り散りになってしまう。敗残兵たちの中には身分の高い、教養のある者もいたが、アナトリア高原の盗賊や地中海東部の海賊となりはて、ローマ軍と戦った。

 中でも、ポントス王国(前三世紀前半~前六四年)のミトリダテス六世(在位前一二〇~前六三年)はローマのアジア侵攻に抵抗し、しぶとく戦った。この戦いはミトリダテス戦争(前八八~前八五、前八三~前八二、前七四~前六四年)と呼ばれ、三次にわたる長期戦だった。一時は挽回したものの、ポンペイウスの前に敗退し、ミトリダテスは自殺した。



 さて、新約聖書の「マタイによる福音書」で星に導かれてエルサレムにやってくる

占星術の学者たち》というのは、ラテン語聖書では《 Magi 》と書かれていて、

原典のギリシャ語聖書では、《 μάγοι 》と記述されています。



『聖書 新共同訳』

 新約聖書「マタイによる福音書

2. 1-2

 (p.2)

 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」



『ギリシア語 新約聖書釈義事典 Ⅱ』

〔新井献 H.J. マルクス /監修 1994年05月10日 教文館/発行〕

 (p.433)

μάγος, ~ου, ὁ [magos] 魔術師、占い師、占星術師、博士

 新約に 6 回見られる。マタイの幼な子[イエス]の物語( 2:1, 7, 16[ 2 回])によれば、「占星術の学者たち/賢者たちが東の方から (μάγοι ἀπὸ ἀνατολῶν) 」( 1 節)、生れたばかりの幼な子を拝むためにエルサレムに来る( 2 節)。

 μάγοι は、ペルシアの宗教の中で祭司の職に就き(ヘロドトス Ⅰ 101 )、天文学ないしは占星術に携っていたメディアの一部族の名前に溯る。



NESTLE-ALAND “ NOVUM TESTAMENTUM LATINE ”

EVANGELIUM

SECUNDUM MATTHAEUM 2, 1–2

 (P. 3)

 Cum autem natus esset Iesus in Bethlehem Iudaeae in diebus Herodis regis, ecce Magi ab oriente venerunt Hierosolymam 2 dicentes: «Ubi est, qui natus est, rex Iudaeorum? Vidimus enim stellam eius in oriente et venimus adorare eum».




 ◎ ここでマギの立場を考慮するなら、救世主として、ミトラ神を想定していたようでもあります。

 そして紛れもなく、クリスマスの日付設定には、ミトラス教の太陽神の誕生日が用いられているということなのです。



―― その他の資料を参照・引用したページを、以下のサイトで公開しています。


ミスラとミトラとミトラス教

http://theendoftakechan.web.fc2.com/eII/amrta/mithra.html


2021年11月28日日曜日

紀元前 5 世紀「王の道」を早馬の伝令が駆け抜ける

 紀元前 480 年に、ダレイオス 1 世の子で、ペルシャ王のクセルクセス 1 世がギリシャに遠征するのですけれど、サラミスの海戦で大敗して帰国します。その際に、真っ先に急を告げる騎馬伝令がペルシャに向けて走破したのは「王の道」と呼ばれる公道でした。

◎「王の道」とは、アケメネス朝ペルシャで中央集権を確立したダレイオス 1 世 の時代に整備された、スサからサルディスに至る 2400 km に及ぶ帝国の大幹線です。

 紀元前 5 世紀のギリシャの歴史家ヘロドトスは、「王の道」を駆け抜ける騎馬伝令を〈アンガレイオン〉の名で次のように紹介しています。



ワイド版 岩波文庫 296ヘロドトス 歴史』(下)

〔松平千秋/訳 2008年04月16日 岩波書店/発行〕


 巻八

 サラミスの海戦~クセルクセスの退却

 (p.237)

 九八 クセルクセスは右のように行動すると同時に、現在の苦境を伝える飛脚をペルシアに送った。さておよそこの世に生をうけたもので、このペルシアの飛脚より早く目的地に達しうるものはない。これはペルシア人独自の考案によるものである。全行程に要する日数と同じ数の馬と人員が各所に配置され、一日の行程に馬一頭、人員一人が割当てられているという。雪も雨も炎暑も暗夜も、この飛脚たちが全速で各自分担の区間を疾走し終るのを妨げることはできない。最初の走者が走り終えて託された伝達事項を第二の走者に引き継ぐと、第二走者は第三走者へというふうにして、ちょうどギリシアでヘパイストスの祭礼に行なう松明 [たいまつ] 競争のように、次から次へと中継されて目的地に届くのである。この早馬の飛脚制度のことをペルシア語ではアンガレイオンという。



―― 先月分も含めて、その他資料を参照・引用したページを、以下のサイトで公開しています。


有角神と一角獣の紋章

http://theendoftakechan.web.fc2.com/eII/amrta/horn.html


2021年10月29日金曜日

有角神と一角獣の紋章

◎ インダス文明の出土品について、前回の最後に参照した資料からあらためて抜粋しておきましょう。



『インダスの考古学』

〔近藤英夫/著 2011年01月20日 同成社/発行〕


 第 5 草 文明の精神世界 ―― 支配者の姿

「1 文明期の神々」

 (pp.77-80)

 インダス文明では、メソポタミアとは異なり信仰・宗教に関する文献資料が欠如している。そのために信仰に関する図柄を手がかりとして、文明期の宗教について検討していく。

 印章や銅製護符や土製護符に刻された文明の信仰図柄は、以ドのⅠ~Ⅸに分けることができる。すなわち、


Ⅰ)有角神(頭部にスイギュウの角と植物を生やす)

Ⅱ)半人半獣神(捻れたヤギの角と植物を生やす)

Ⅲ)牛男(有角)

Ⅳ)一角獣

Ⅴ)有角獣(複合獣)

Ⅵ)スイギュウ

Ⅶ)複頭獣

Ⅷ)トラと闘う神

Ⅸ)ボダイジュ


 以ド、個別にその特徴をみていく。


Ⅰ)有角神

 跏跌座像と立像とがある。いずれの場合も大きく湾曲した角をもち、両角の間には植物表現がなされている。湾曲した角はスイギュウの角を模したものと推定される。また、上・下腕いっぱいに腕輪をつけていることも特徴の一つである。

 跏跌座像は、多くは牀(胡坐用の台)の上に乗っている。三面の顔をもつといわれている。頭部には角と植物を生やし、両手を広げて膝にあて牀に座している。人物の周囲には動物が描かれている。

 もっともよく知られているのは、モヘンジョ・ダロ出土の印章に刻された有角神像である(図 24-1 )。〔略〕中央の人物がこれらの動物を従えていると解釈でき、ここからこの人物像は「獣王」の性格を有しているとされ、〝シヴァ神の祖型〟と考えられてもいる。しかし、シヴァ神の成立は文明期よりも 1000 年近くの後であり、ただちに祖型としてよいかどうかは疑問である。この人物像は周囲に動物を配さずに単体で描かれることもある。また、ハラッパー出土の土製護符には、人物像の前でスイギュウを屠っている場面が描かれている。供儀のシーンである。

 立像の場合は、頭部に角と植物を生やした長い後ろ髪の人物がボダイジュの樹の間に立つ姿であらわされる。モヘンジョ・ダロから出土の印章は、儀礼的シーンを描いたものである(図 24-2 )。〔略〕儀礼的シーンではなく、人物像が単体で描かれる場合もある(図 24-3 )。この場合も、樹の間に人物が表現されている。ドーラーヴィーラー出土の印章にもその例がある。



Ⅱ)半人半獣神

 頭部にヤギ科の動物の角と植物を生やし、下半身がトラで上半身は人間である。角は、頭部には角と植物、そして編んだ後ろ髪が表現されており、腕いっぱいに腕輪をつけている。

 〔略〕


 (p.81)

Ⅳ)一角獣(図 27 )

 想像上の有角動物である。印章に刻された全図柄の 60% がこの一角獣である。



Ⅴ)有角獣(複合獣)

 トラ、ゾウなどに角をつけて表現されたものである。これも神格の表現と考える。〔略〕


 (pp.82-83)

Ⅶ)複頭獣

 複数の首部をもつキメラ。〔略〕


Ⅷ)トラと闘う神

 中央に立つ人物が、後ろ足で立つ左右のトラをおさえている図柄である。印章・護符にみられる。人物像には角がみられず、また腕輪もつけていない。モヘンジョ・ダロ出土の印章の図柄では(図 31 )、このシーンのみであるが、ハラッパー出土の土製護符では、足下にゾウが描かれている。

 このモチーフはメソポタミアに起源するとされている。メソポタミアの場合は、両側の獣はライオンであることが多く、インダス的に変容したものと考えられる。



Ⅸ)ボダイジュ

 ボダイジュを中央におき、シンメトリーに動物などを配する図柄がある。ボダイジュと一角獣が組み合わさったものと、ボダイジュが中心で両サイドに人物が配されているものとがある。初期ハラッパー文化期以来の植物信仰の伝統が、文明期に引き継がれたととらえてよい。

 樹木を中央におき、シンメトリーに動物などを配する描き方はメソポタミア起源の生命の樹の描き方に通ずるが、彼我の関係は不明である。


「2 神々のつくり出す世界 ―― 在地の神と外来の神 ――」

 (p.83)

 以上が文明の信仰表現である。基本的には、初期ハラッパー文化期からの角と植物の信仰伝統を引き継いでいるとみてとれる。ただ、初期ハラッパー文化期と違って、文明期には信仰表現が多様化する。おそらくは、Ⅰ)有角神(図 24 )が主神であろうが、それ以外にもさまざまな神が登場する。

 (pp.84-85)

 文明は近隣の、そして遠隔のさまざまな地域と交渉をもつ。その過程で、インダス平原の信仰伝統から逸脱した神もまた文明期に現れる。そしてそれをも含み込んで、文明の神々の世界は展開する。文明期には、初期ハラッパー文化期の伝統から逸脱したものもパンテオンに加わる。

 〔略〕

 Ⅶ)複頭獣であるが、いくつもの首を描く表現は、湾岸式の印章の図柄の表現にある。モヘンジョ・ダロ出土の円形印章では、六つの有角動物の首のみが同心円上に描かれている。この動物は、丸い大きな目をもつことも特徴としてあげられる。こうした図柄の起源は、ペルシャ湾岸のバハレーン島を中心に展開したティルムン(ディルムン)文明の湾岸式印章の図柄に求めることができる。これらから考えて筆者は、湾岸の影響を受けてインダス文明版図内で成立した図柄と推測している。また、三つの首をもつウシ科の動物は、元来湾岸起源の図柄がインダス的に変容したものと考えたい。

 Ⅷ)トラと闘う神も文明圏外に起源が求められる神である。図柄の中央に描かれている人物像は角をもたない点で、インダス文明の基本的な信仰からは異質な神である。パルポラによれば、「中央の人物が左右の猛獣を抑えている」図柄はメソポタミア起源のものであり、中央の人物が猛獣を押さえるという図柄はメソポタミア、イランの諸遺跡に広く分布しているという。猛獣は、メソポタミアの場合はライオンであり、イランでは想像上の動物になる。〔略〕

 初期ハラッパー文化期以来の伝統にもとづく「スイギュウの角と植物」の有角神が在地の神とすれば、「半人半獣神」「複合獣」そして「トラと闘う神」は外来の神である。メソポタミアや湾岸に起源をもつ神が、文明のパンテオンに組み込まれたとしてよい。アフガニスタン、イラン、湾岸、メソポタミア各地域と深くかかわるグループが、文明に存在した証しであるとしたい。



◎ というわけで、

中央の人物が猛獣を押さえるという図柄はメソポタミア、イランの諸遺跡に広く分布しているという

ことと、

猛獣は、メソポタミアの場合はライオンであり、イランでは想像上の動物になる

ということが、あらためて確認できた次第です。


2021年9月1日水曜日

エジプトとインダスと英雄ギルガメシュ

 ◎ ライオンを制圧する伝説のギルガメシュ王を表現したと思われる、有名な図柄がありますが、その絵柄と同じような構図を持つ出土品が、メソポタミア以外で、エジプトとインダスの遺跡からも発見されています。


『五〇〇〇年前の日常』シュメル人たちの物語

〔小林登志子/著 2007年02月22日 新潮社/発行〕

 Ⅳ 商人が往来する世界

エジプト人と戦ったシュメル人

 (pp.162-163)

 古代のシュメル人とエジプト人との交流を示す手掛かりが残っている。たとえば、エジプトでは、先王朝時代(前五五〇〇~前三一〇〇年頃)後期の遺跡からはシュメルの円筒印章が出土しているし、同じ時期に作られた「ジェベル・エル・アラクのナイフ」は一九世紀末にフランスの考古学者 G・ベネディトが中部エジプトのジェベル・エル・アラクで購入し、ルーヴル美術館に収蔵された。フリント(火打石)製ナイフの柄は河馬の牙製で両面に装飾が施されているが、その中にメソポタミアとエジプトとの交流を物語る面白い図柄がある。一方の面には、メソポタミアにおけるウルク文化期(前三五〇〇~前三一〇〇年頃)後期の円筒印章印影図などに見られる王の姿とそっくりの人物が前後にライオンを御している。

 もう一方の面は船戦[ふないくさ]の場面で、二種類の船が見える。

 柄の真ん中よりも少し下に見える船は船首、船尾ともに垂直に持ち上がった形で、この形の船はウルク文化期の円筒印章印影図に見え、シュメルの船である。また、下の方の船はエジプト先王朝時代の土器に描かれている船と同じ形で、エジプトの船である。これはシュメル人とエジプト人が戦った記録で、エジプト人はシュメル人に勝ったことを伝えたかったにちがいない。負け戦は記録に残さないだろう。



 ◎ このナイフは、

『世界美術大全集 第 2 巻』〔 1994 年 4 月 10 日 小学館発行〕

「エジプト美術」(p.344) では、


  ナイフ

  先王朝 ナカーダⅢ期 前 3200 年頃

  伝ジャバル・アル=アラク出土

  フリント 河馬の牙 長さ 25.5 cm

  Knife with relief

  Probably from Jabal al-Arak.


と記録され、また他の文献で、次の記事とともに紹介されています。


『NHK ルーブル美術館 Ⅰ』

文明の曙光 古代エジプト/オリエント

〔高階秀爾/監修 青柳正規/責任編集 昭和60年05月20日 日本放送出版協会/発行〕

 (p.21)

ゲベル・エル・アラクのナイフ

 上エジプトのゲベル・エル・アラクから出土したのでこの名がある。先史時代紀元前 3400 年頃の重要な遺品で、淡褐色の燧石に刻まれた刃は金の薄片で固定されていたが、その跡を残すだけである。象牙製の柄の両面に精巧な浮彫が刻まれている。

 戦闘場面は、坊主頭の民族と、長く編んだ髪を垂らした民族とが、ナイル河の上で戦闘している。人物はすべて裸体で、戦死した兵士の遺体が船の間に横たわっている。坊主頭の民族は、おそらく侵入したアジア人で、他がエジプト人であろう。

 ライオンの面は、中央の突起部の周囲に、家畜がライオンに襲われている場面が展開し、首輪をつけた番犬が見られる。上方の 2 頭のライオンを締めつけているひげの男は、メソポタミアの伝説上の英雄ギルガメシュを想起させる。この浮彫は美術的にも優れているが、先王朝時代すでにエジプトとメソポタミアの交流が平和と軍事の両面で存在したことを物語る。先王朝時代。燧石・象牙製。



 ◎ インダス文明の遺跡からの出土品については、次の資料から抜粋しておきましょう。


世界の考古学 18『インダスの考古学』

〔近藤英夫[こんどう・ひでお]/著 2011年01月20日 同成社/発行〕

 第 5 草 文明の精神世界

1 文明期の神々

 (p.82)

Ⅷ)トラと闘う神

 中央に立つ人物が、後ろ足で立つ左右のトラをおさえている図柄である。印章・護符にみられる。人物像には角がみられず、また腕輪もつけていない。モヘンジョ・ダロ出土の印章の図柄では(図 31 )、このシーンのみであるが、ハラッパー出土の土製護符では、足下にゾウが描かれている。

 このモチーフはメソポタミアに起源するとされている。メソポタミアの場合は、両側の獣はライオンであることが多く、インダス的に変容したものと考えられる。



 ⛞ という次第で、上記引用文中に「人物像には角がみられず」とありますけれども、インダス文明の遺跡から出土する〝角のある人物像〟の図柄は、〈シヴァ神〉と関連づけて考えられることが多いようです。―― 有角神その他の項目、等々については、あらためて参照する予定です。



―― その他の資料を、参照・引用したページを、以下のサイトで公開しています。


須弥山は〈スメール Sumeru 〉

http://theendoftakechan.web.fc2.com/eII/amrta/sumeru.html


2021年8月26日木曜日

アレクサンドロス大王のインド攻略以降の文化交流

アレクサンドロス大王のペルシア進軍から死去まで

紀元前 334 年、アレクサンドロス大王、ペルシア征討のため、小アジアに進軍する。

紀元前 330 年、アケメネス朝ペルシアの滅亡。

紀元前 326 年、アレクサンドロス大王、さらに東方へと侵攻し、西部インドを攻略する。

紀元前 323 年、アレクサンドロス大王、東方遠征からバビロンへの帰還後に、急逝する。


 アレクサンドロス大王がペルシアに向けて進軍したのは、紀元前 4 世紀末のことでした。

 アレクサンドロス大王のインド侵攻後、インド西部はしばし、ギリシア人の軍事的制圧下にあったといわれます。

 ギリシア人のメガステネース(メガステネス)は、紀元前 300 年頃に、大使としてインドに駐在し、帰国後に『インド誌』という記録を残しました。


 また『ミリンダ王の問い』(全 3 巻)〔中村元・早島鏡正/訳 1963~1964 年 平凡社/発行〕の第 3 巻にある早島鏡正氏の解説 (pp.324-325) には、次のように記されています。


『ミリンダ王の問い』という題は、翻訳名であって、Milindapañhā あるいは Milindapañho が原名である。パーリ語で書かれた聖典の一つである。

〔中略〕

『ミリンダ王の問い』は、紀元前二世紀の後半、すなわち紀元前一五〇年ごろに、西北インドを支配したギリシアの王メナンドロス(インド名をミリンダという)と、仏教の経典に精通した学僧ナーガセーナとの間にかわされた対論の書である。



 ◎ さてアレクサンドロス大王によるインド遠征以降のインドに関する記録については、次のような文献が参考になると思われ、ここにその一部を抜粋し、紹介しておきたく思います。


『インド史Ⅱ』(中村元選集〔決定版〕 第 6 巻)

 〔中村元/著 1997年09月10日 春秋社/発行〕


 〔付篇 1 〕 マウリヤ王朝時代研究資料

 四 文献資料

 ㈠ ギリシア・ローマの記録

  ⑵ メガステネースの『インド誌』

 (pp.557-559)

 インドとギリシアとの接触を真に密接にしたのは、アレクサンドロスの遠征であった。ヘレニズムおよびローマ時代のギリシア人がインドについて知っていた主要点はメガステネース Megasthenēs 前三五〇~二九〇年ころ)の言明にもとづくものである。彼はもとは小アジアのイオーニア人であるが、『インド誌』(Indika) と称する四巻の書を著わした。この書はチャンドラグプタ王時代のインドの実情を伝えているものとしてきわめて重要である。

 アレクサンドロス大王は西紀前三二六年にインドに侵入し、西部インドを攻略したが、翌年西方に帰還し、三二三年七月バビロンで客死した。その後、西北インドはしばらくのあいだギリシア人の軍事的制圧下にあった。西紀前三一七年頃にチャンドラグプタ (Candragupta) という一青年が挙兵して、マガダ王となりマウリヤ (Maurya) 王朝を創始したが、彼は西北インドからギリシア人の軍事的勢力を一掃し、インド史上初めてインド全体を統一した。たまたまシリア王セレウコス・ニカトール (Seleukos Nikatōr) がアレクサンドロスの故地回復を志して、三〇五年にインダス河を越えて侵入して来たが、チャンドラグプタはその軍隊を撃破した。両王の講和が成立してのち、セレウコスの大使としてチャンドラグプタ王の宮廷に派遣されたのが、このメガステネースである。彼についてシャントレーヌは論じる。――

 メガステネースはギリシア人であり、イオーニアの純粋のギリシア人の家系の出身である。彼はシリア王セレウコス・ニカトールの使臣としてアラコーシア (Arachōsia) の太守 (Satrapēs) であるシビュルティオス (Sibyrtios) の宮廷に来たり、次にそこから王の大使としてパータリプトラ (Pāṭaliputra) のチャンドラグプタ王の宮廷に派遣された。インドに滞在していた期間は不明であるが、チャンドラグプタ王とセレウコスとの講和は西紀前三〇四年または三〇三年であるから、そののちまもなくインドに派遣され、西紀前二九二年ころにインドを去った。彼はおそらく西紀前三五〇~二九〇年のあいだの人であるから、したがって、後人の記すように、セレウコス・ニカトール(西紀前三五八~二八〇年)とほぼ同時代の人である。

 メガステネースはつねに首都パータリプトラに滞在し、しばしばチャンドラグプタ王と会見したが、また閑暇には視察・調査の小旅行を行なっていた。ただしこの小旅行も、今日のビハール以外の土地には及ばなかったらしい。ガンジス河以東については、彼は何も知っていない。また西方地域については、せいぜい往復の途中通過する際に皮相の観察を行なったにとどまる。デカン地方に関する記述もきわめて乏しい。メガステネースは、さほど広範囲の旅行は行なわなかった、とアリアノスは批評している。