2021年11月28日日曜日

紀元前 5 世紀「王の道」を早馬の伝令が駆け抜ける

 紀元前 480 年に、ダレイオス 1 世の子で、ペルシャ王のクセルクセス 1 世がギリシャに遠征するのですけれど、サラミスの海戦で大敗して帰国します。その際に、真っ先に急を告げる騎馬伝令がペルシャに向けて走破したのは「王の道」と呼ばれる公道でした。

◎「王の道」とは、アケメネス朝ペルシャで中央集権を確立したダレイオス 1 世 の時代に整備された、スサからサルディスに至る 2400 km に及ぶ帝国の大幹線です。

 紀元前 5 世紀のギリシャの歴史家ヘロドトスは、「王の道」を駆け抜ける騎馬伝令を〈アンガレイオン〉の名で次のように紹介しています。



ワイド版 岩波文庫 296ヘロドトス 歴史』(下)

〔松平千秋/訳 2008年04月16日 岩波書店/発行〕


 巻八

 サラミスの海戦~クセルクセスの退却

 (p.237)

 九八 クセルクセスは右のように行動すると同時に、現在の苦境を伝える飛脚をペルシアに送った。さておよそこの世に生をうけたもので、このペルシアの飛脚より早く目的地に達しうるものはない。これはペルシア人独自の考案によるものである。全行程に要する日数と同じ数の馬と人員が各所に配置され、一日の行程に馬一頭、人員一人が割当てられているという。雪も雨も炎暑も暗夜も、この飛脚たちが全速で各自分担の区間を疾走し終るのを妨げることはできない。最初の走者が走り終えて託された伝達事項を第二の走者に引き継ぐと、第二走者は第三走者へというふうにして、ちょうどギリシアでヘパイストスの祭礼に行なう松明 [たいまつ] 競争のように、次から次へと中継されて目的地に届くのである。この早馬の飛脚制度のことをペルシア語ではアンガレイオンという。



―― 先月分も含めて、その他資料を参照・引用したページを、以下のサイトで公開しています。


有角神と一角獣の紋章

http://theendoftakechan.web.fc2.com/eII/amrta/horn.html


2021年10月29日金曜日

有角神と一角獣の紋章

◎ インダス文明の出土品について、前回の最後に参照した資料からあらためて抜粋しておきましょう。



『インダスの考古学』

〔近藤英夫/著 2011年01月20日 同成社/発行〕


 第 5 草 文明の精神世界 ―― 支配者の姿

「1 文明期の神々」

 (pp.77-80)

 インダス文明では、メソポタミアとは異なり信仰・宗教に関する文献資料が欠如している。そのために信仰に関する図柄を手がかりとして、文明期の宗教について検討していく。

 印章や銅製護符や土製護符に刻された文明の信仰図柄は、以ドのⅠ~Ⅸに分けることができる。すなわち、


Ⅰ)有角神(頭部にスイギュウの角と植物を生やす)

Ⅱ)半人半獣神(捻れたヤギの角と植物を生やす)

Ⅲ)牛男(有角)

Ⅳ)一角獣

Ⅴ)有角獣(複合獣)

Ⅵ)スイギュウ

Ⅶ)複頭獣

Ⅷ)トラと闘う神

Ⅸ)ボダイジュ


 以ド、個別にその特徴をみていく。


Ⅰ)有角神

 跏跌座像と立像とがある。いずれの場合も大きく湾曲した角をもち、両角の間には植物表現がなされている。湾曲した角はスイギュウの角を模したものと推定される。また、上・下腕いっぱいに腕輪をつけていることも特徴の一つである。

 跏跌座像は、多くは牀(胡坐用の台)の上に乗っている。三面の顔をもつといわれている。頭部には角と植物を生やし、両手を広げて膝にあて牀に座している。人物の周囲には動物が描かれている。

 もっともよく知られているのは、モヘンジョ・ダロ出土の印章に刻された有角神像である(図 24-1 )。〔略〕中央の人物がこれらの動物を従えていると解釈でき、ここからこの人物像は「獣王」の性格を有しているとされ、〝シヴァ神の祖型〟と考えられてもいる。しかし、シヴァ神の成立は文明期よりも 1000 年近くの後であり、ただちに祖型としてよいかどうかは疑問である。この人物像は周囲に動物を配さずに単体で描かれることもある。また、ハラッパー出土の土製護符には、人物像の前でスイギュウを屠っている場面が描かれている。供儀のシーンである。

 立像の場合は、頭部に角と植物を生やした長い後ろ髪の人物がボダイジュの樹の間に立つ姿であらわされる。モヘンジョ・ダロから出土の印章は、儀礼的シーンを描いたものである(図 24-2 )。〔略〕儀礼的シーンではなく、人物像が単体で描かれる場合もある(図 24-3 )。この場合も、樹の間に人物が表現されている。ドーラーヴィーラー出土の印章にもその例がある。



Ⅱ)半人半獣神

 頭部にヤギ科の動物の角と植物を生やし、下半身がトラで上半身は人間である。角は、頭部には角と植物、そして編んだ後ろ髪が表現されており、腕いっぱいに腕輪をつけている。

 〔略〕


 (p.81)

Ⅳ)一角獣(図 27 )

 想像上の有角動物である。印章に刻された全図柄の 60% がこの一角獣である。



Ⅴ)有角獣(複合獣)

 トラ、ゾウなどに角をつけて表現されたものである。これも神格の表現と考える。〔略〕


 (pp.82-83)

Ⅶ)複頭獣

 複数の首部をもつキメラ。〔略〕


Ⅷ)トラと闘う神

 中央に立つ人物が、後ろ足で立つ左右のトラをおさえている図柄である。印章・護符にみられる。人物像には角がみられず、また腕輪もつけていない。モヘンジョ・ダロ出土の印章の図柄では(図 31 )、このシーンのみであるが、ハラッパー出土の土製護符では、足下にゾウが描かれている。

 このモチーフはメソポタミアに起源するとされている。メソポタミアの場合は、両側の獣はライオンであることが多く、インダス的に変容したものと考えられる。



Ⅸ)ボダイジュ

 ボダイジュを中央におき、シンメトリーに動物などを配する図柄がある。ボダイジュと一角獣が組み合わさったものと、ボダイジュが中心で両サイドに人物が配されているものとがある。初期ハラッパー文化期以来の植物信仰の伝統が、文明期に引き継がれたととらえてよい。

 樹木を中央におき、シンメトリーに動物などを配する描き方はメソポタミア起源の生命の樹の描き方に通ずるが、彼我の関係は不明である。


「2 神々のつくり出す世界 ―― 在地の神と外来の神 ――」

 (p.83)

 以上が文明の信仰表現である。基本的には、初期ハラッパー文化期からの角と植物の信仰伝統を引き継いでいるとみてとれる。ただ、初期ハラッパー文化期と違って、文明期には信仰表現が多様化する。おそらくは、Ⅰ)有角神(図 24 )が主神であろうが、それ以外にもさまざまな神が登場する。

 (pp.84-85)

 文明は近隣の、そして遠隔のさまざまな地域と交渉をもつ。その過程で、インダス平原の信仰伝統から逸脱した神もまた文明期に現れる。そしてそれをも含み込んで、文明の神々の世界は展開する。文明期には、初期ハラッパー文化期の伝統から逸脱したものもパンテオンに加わる。

 〔略〕

 Ⅶ)複頭獣であるが、いくつもの首を描く表現は、湾岸式の印章の図柄の表現にある。モヘンジョ・ダロ出土の円形印章では、六つの有角動物の首のみが同心円上に描かれている。この動物は、丸い大きな目をもつことも特徴としてあげられる。こうした図柄の起源は、ペルシャ湾岸のバハレーン島を中心に展開したティルムン(ディルムン)文明の湾岸式印章の図柄に求めることができる。これらから考えて筆者は、湾岸の影響を受けてインダス文明版図内で成立した図柄と推測している。また、三つの首をもつウシ科の動物は、元来湾岸起源の図柄がインダス的に変容したものと考えたい。

 Ⅷ)トラと闘う神も文明圏外に起源が求められる神である。図柄の中央に描かれている人物像は角をもたない点で、インダス文明の基本的な信仰からは異質な神である。パルポラによれば、「中央の人物が左右の猛獣を抑えている」図柄はメソポタミア起源のものであり、中央の人物が猛獣を押さえるという図柄はメソポタミア、イランの諸遺跡に広く分布しているという。猛獣は、メソポタミアの場合はライオンであり、イランでは想像上の動物になる。〔略〕

 初期ハラッパー文化期以来の伝統にもとづく「スイギュウの角と植物」の有角神が在地の神とすれば、「半人半獣神」「複合獣」そして「トラと闘う神」は外来の神である。メソポタミアや湾岸に起源をもつ神が、文明のパンテオンに組み込まれたとしてよい。アフガニスタン、イラン、湾岸、メソポタミア各地域と深くかかわるグループが、文明に存在した証しであるとしたい。



◎ というわけで、

中央の人物が猛獣を押さえるという図柄はメソポタミア、イランの諸遺跡に広く分布しているという

ことと、

猛獣は、メソポタミアの場合はライオンであり、イランでは想像上の動物になる

ということが、あらためて確認できた次第です。


2021年9月1日水曜日

エジプトとインダスと英雄ギルガメシュ

 ◎ ライオンを制圧する伝説のギルガメシュ王を表現したと思われる、有名な図柄がありますが、その絵柄と同じような構図を持つ出土品が、メソポタミア以外で、エジプトとインダスの遺跡からも発見されています。


『五〇〇〇年前の日常』シュメル人たちの物語

〔小林登志子/著 2007年02月22日 新潮社/発行〕

 Ⅳ 商人が往来する世界

エジプト人と戦ったシュメル人

 (pp.162-163)

 古代のシュメル人とエジプト人との交流を示す手掛かりが残っている。たとえば、エジプトでは、先王朝時代(前五五〇〇~前三一〇〇年頃)後期の遺跡からはシュメルの円筒印章が出土しているし、同じ時期に作られた「ジェベル・エル・アラクのナイフ」は一九世紀末にフランスの考古学者 G・ベネディトが中部エジプトのジェベル・エル・アラクで購入し、ルーヴル美術館に収蔵された。フリント(火打石)製ナイフの柄は河馬の牙製で両面に装飾が施されているが、その中にメソポタミアとエジプトとの交流を物語る面白い図柄がある。一方の面には、メソポタミアにおけるウルク文化期(前三五〇〇~前三一〇〇年頃)後期の円筒印章印影図などに見られる王の姿とそっくりの人物が前後にライオンを御している。

 もう一方の面は船戦[ふないくさ]の場面で、二種類の船が見える。

 柄の真ん中よりも少し下に見える船は船首、船尾ともに垂直に持ち上がった形で、この形の船はウルク文化期の円筒印章印影図に見え、シュメルの船である。また、下の方の船はエジプト先王朝時代の土器に描かれている船と同じ形で、エジプトの船である。これはシュメル人とエジプト人が戦った記録で、エジプト人はシュメル人に勝ったことを伝えたかったにちがいない。負け戦は記録に残さないだろう。



 ◎ このナイフは、

『世界美術大全集 第 2 巻』〔 1994 年 4 月 10 日 小学館発行〕

「エジプト美術」(p.344) では、


  ナイフ

  先王朝 ナカーダⅢ期 前 3200 年頃

  伝ジャバル・アル=アラク出土

  フリント 河馬の牙 長さ 25.5 cm

  Knife with relief

  Probably from Jabal al-Arak.


と記録され、また他の文献で、次の記事とともに紹介されています。


『NHK ルーブル美術館 Ⅰ』

文明の曙光 古代エジプト/オリエント

〔高階秀爾/監修 青柳正規/責任編集 昭和60年05月20日 日本放送出版協会/発行〕

 (p.21)

ゲベル・エル・アラクのナイフ

 上エジプトのゲベル・エル・アラクから出土したのでこの名がある。先史時代紀元前 3400 年頃の重要な遺品で、淡褐色の燧石に刻まれた刃は金の薄片で固定されていたが、その跡を残すだけである。象牙製の柄の両面に精巧な浮彫が刻まれている。

 戦闘場面は、坊主頭の民族と、長く編んだ髪を垂らした民族とが、ナイル河の上で戦闘している。人物はすべて裸体で、戦死した兵士の遺体が船の間に横たわっている。坊主頭の民族は、おそらく侵入したアジア人で、他がエジプト人であろう。

 ライオンの面は、中央の突起部の周囲に、家畜がライオンに襲われている場面が展開し、首輪をつけた番犬が見られる。上方の 2 頭のライオンを締めつけているひげの男は、メソポタミアの伝説上の英雄ギルガメシュを想起させる。この浮彫は美術的にも優れているが、先王朝時代すでにエジプトとメソポタミアの交流が平和と軍事の両面で存在したことを物語る。先王朝時代。燧石・象牙製。



 ◎ インダス文明の遺跡からの出土品については、次の資料から抜粋しておきましょう。


世界の考古学 18『インダスの考古学』

〔近藤英夫[こんどう・ひでお]/著 2011年01月20日 同成社/発行〕

 第 5 草 文明の精神世界

1 文明期の神々

 (p.82)

Ⅷ)トラと闘う神

 中央に立つ人物が、後ろ足で立つ左右のトラをおさえている図柄である。印章・護符にみられる。人物像には角がみられず、また腕輪もつけていない。モヘンジョ・ダロ出土の印章の図柄では(図 31 )、このシーンのみであるが、ハラッパー出土の土製護符では、足下にゾウが描かれている。

 このモチーフはメソポタミアに起源するとされている。メソポタミアの場合は、両側の獣はライオンであることが多く、インダス的に変容したものと考えられる。



 ⛞ という次第で、上記引用文中に「人物像には角がみられず」とありますけれども、インダス文明の遺跡から出土する〝角のある人物像〟の図柄は、〈シヴァ神〉と関連づけて考えられることが多いようです。―― 有角神その他の項目、等々については、あらためて参照する予定です。



―― その他の資料を、参照・引用したページを、以下のサイトで公開しています。


須弥山は〈スメール Sumeru 〉

http://theendoftakechan.web.fc2.com/eII/amrta/sumeru.html


2021年8月26日木曜日

アレクサンドロス大王のインド攻略以降の文化交流

アレクサンドロス大王のペルシア進軍から死去まで

紀元前 334 年、アレクサンドロス大王、ペルシア征討のため、小アジアに進軍する。

紀元前 330 年、アケメネス朝ペルシアの滅亡。

紀元前 326 年、アレクサンドロス大王、さらに東方へと侵攻し、西部インドを攻略する。

紀元前 323 年、アレクサンドロス大王、東方遠征からバビロンへの帰還後に、急逝する。


 アレクサンドロス大王がペルシアに向けて進軍したのは、紀元前 4 世紀末のことでした。

 アレクサンドロス大王のインド侵攻後、インド西部はしばし、ギリシア人の軍事的制圧下にあったといわれます。

 ギリシア人のメガステネース(メガステネス)は、紀元前 300 年頃に、大使としてインドに駐在し、帰国後に『インド誌』という記録を残しました。


 また『ミリンダ王の問い』(全 3 巻)〔中村元・早島鏡正/訳 1963~1964 年 平凡社/発行〕の第 3 巻にある早島鏡正氏の解説 (pp.324-325) には、次のように記されています。


『ミリンダ王の問い』という題は、翻訳名であって、Milindapañhā あるいは Milindapañho が原名である。パーリ語で書かれた聖典の一つである。

〔中略〕

『ミリンダ王の問い』は、紀元前二世紀の後半、すなわち紀元前一五〇年ごろに、西北インドを支配したギリシアの王メナンドロス(インド名をミリンダという)と、仏教の経典に精通した学僧ナーガセーナとの間にかわされた対論の書である。



 ◎ さてアレクサンドロス大王によるインド遠征以降のインドに関する記録については、次のような文献が参考になると思われ、ここにその一部を抜粋し、紹介しておきたく思います。


『インド史Ⅱ』(中村元選集〔決定版〕 第 6 巻)

 〔中村元/著 1997年09月10日 春秋社/発行〕


 〔付篇 1 〕 マウリヤ王朝時代研究資料

 四 文献資料

 ㈠ ギリシア・ローマの記録

  ⑵ メガステネースの『インド誌』

 (pp.557-559)

 インドとギリシアとの接触を真に密接にしたのは、アレクサンドロスの遠征であった。ヘレニズムおよびローマ時代のギリシア人がインドについて知っていた主要点はメガステネース Megasthenēs 前三五〇~二九〇年ころ)の言明にもとづくものである。彼はもとは小アジアのイオーニア人であるが、『インド誌』(Indika) と称する四巻の書を著わした。この書はチャンドラグプタ王時代のインドの実情を伝えているものとしてきわめて重要である。

 アレクサンドロス大王は西紀前三二六年にインドに侵入し、西部インドを攻略したが、翌年西方に帰還し、三二三年七月バビロンで客死した。その後、西北インドはしばらくのあいだギリシア人の軍事的制圧下にあった。西紀前三一七年頃にチャンドラグプタ (Candragupta) という一青年が挙兵して、マガダ王となりマウリヤ (Maurya) 王朝を創始したが、彼は西北インドからギリシア人の軍事的勢力を一掃し、インド史上初めてインド全体を統一した。たまたまシリア王セレウコス・ニカトール (Seleukos Nikatōr) がアレクサンドロスの故地回復を志して、三〇五年にインダス河を越えて侵入して来たが、チャンドラグプタはその軍隊を撃破した。両王の講和が成立してのち、セレウコスの大使としてチャンドラグプタ王の宮廷に派遣されたのが、このメガステネースである。彼についてシャントレーヌは論じる。――

 メガステネースはギリシア人であり、イオーニアの純粋のギリシア人の家系の出身である。彼はシリア王セレウコス・ニカトールの使臣としてアラコーシア (Arachōsia) の太守 (Satrapēs) であるシビュルティオス (Sibyrtios) の宮廷に来たり、次にそこから王の大使としてパータリプトラ (Pāṭaliputra) のチャンドラグプタ王の宮廷に派遣された。インドに滞在していた期間は不明であるが、チャンドラグプタ王とセレウコスとの講和は西紀前三〇四年または三〇三年であるから、そののちまもなくインドに派遣され、西紀前二九二年ころにインドを去った。彼はおそらく西紀前三五〇~二九〇年のあいだの人であるから、したがって、後人の記すように、セレウコス・ニカトール(西紀前三五八~二八〇年)とほぼ同時代の人である。

 メガステネースはつねに首都パータリプトラに滞在し、しばしばチャンドラグプタ王と会見したが、また閑暇には視察・調査の小旅行を行なっていた。ただしこの小旅行も、今日のビハール以外の土地には及ばなかったらしい。ガンジス河以東については、彼は何も知っていない。また西方地域については、せいぜい往復の途中通過する際に皮相の観察を行なったにとどまる。デカン地方に関する記述もきわめて乏しい。メガステネースは、さほど広範囲の旅行は行なわなかった、とアリアノスは批評している。


2021年7月22日木曜日

絲綢之路/絹の道/瑠璃の道

 絲綢之路がシルクロード(絹の道)の中国語であることはよく知られています。

 ラピスラズリ(青金石)ともいわれる瑠璃は「吠瑠璃」の略で、サンスクリット語の音写による漢訳語です。

 さて。

 古代のメソポタミアを中心に流通していた宝石ラピスラズリは、現在のアフガニスタン北東部ヒンドゥクシュ山脈北側のバダフシャーン(バダクシャン)地方を原産地とするようです。

 紀元前 3500 年頃には、アフガニスタン産のラピスラズリの交易路は、遠くエジプトにまで達していたとされます。

 またいっぽうで、ヒンドゥクシュ山脈の東側にはシルクロードの天山南路があり、そのキジルでは壁画にラピスラズリが青の顔料としてふんだんに用いられているために、「青の石窟」という別名があるようです。



 ◯ 次の資料でシルクロード以前の「ラピスラズリの路」について、詳しく語られていましたので抜粋して紹介しておきたく思います。



『漢代以前のシルクロード』運ばれた馬とラピスラズリ

〔川又正智/著 2006年10月05日 雄山閣/発行〕


 第Ⅲ章 ラピスラズリの路 ― 遠距離交渉の確認 ―

 a くりかえされる交易 ― 原料獲得の路

 (pp.39-40)

 シルクロードという名は絹を交易品代表として命名したものであり、また、絹馬交易・玉[ぎょく]ロードなどの名称もあり、宝貝・ラピスラズリ・ガラス・琥珀・毛皮なども遠距離交易のテーマとしてかたられることがおおいが、これらは生活上いわゆる贅沢品・奢侈品である。そのなかには産地を限定できるものがある。動植物・鉱物には原産地を特定できるものがあり、人工物には製作技術やデザインから生産地を決定できるものがある。ある地域に産しないものがそこにあれば、他地域から持ちこんだものにちがいなく、交易、すくなくとも何か関係のあった証拠である。

 かんがえてみれば、生物はもともと食料の確保できる地に棲息するもので、いわば自給自足で、これは人類も生物である以上おなじである。ただ、人類はある時から、実用品以外の奢侈品、あるいは実用品でもより良い物を、始めは少量であったかもしれないが段々多量に必要とするようになり、また生活技術の進歩によりそれまで知らなかった実用品を必要とする新時代になることもある。金属や石油はその代表である。その類のものはそれまで生きてきた生活圏にあるとはかぎらないし、さらに地球上の資源存在は均一ではなく偏在しているのだから、これを他地域・遠方から入手する必要にせまられるのである。

 実用品でふるくから到来品であったものは石器材料の石である。石などどこにでもあるようにおもうが、メソポタミア下流のような巨大な沖積地には無い。それに、石器はどの石でもおなじようにできるわけではなく、石器としてのよい石・わるい石がある。たとえば新石器時代の西アジアでは、現在のトルコ中・東部産の黒曜石がひろくイスラエルやイラク南部にまで分布している。とおい所は産地から、1000 km ちかくはある[ローフ 1994 pp.34‐35]。交場の実態は不明である。黒曜石は天然の火山ガラスで、非常に鋭利な刃をつくることができる。化学成分によって産地を同定できることがある。

 石器のひろがりが何故なのかはわかる。形によって機能がちがう。あの形につくればこういう場合に便利なのだ、あの形にするにはこうしてつくるのだ、とおもうだろう。それにはあの石質がよいのだ、ともおもうであろう。石器製作方法や石材はひろがっていく。

 土器の紋様のひろがりは何故であろうか。形や質は機能・つかい勝手と関係があるが、紋様まで他の村とおなじにするのは何故か。単に気に入ったデザインだから流行して行くというのか。土器はこの紋様、と決まっているのか(製作者が村々を巡回して行くとか、婚姻で入り込むとか、の説明がある)。我々はこのデザイン、という他族と区別する集団意識のようなものがあるのか。つまり、流行の範囲のことであるが、これがどう決まるのかは不思議である。


 b 〝遠方〟という意識 ― 他世界との交流

 (p.40)

 東西交渉とかシルクロードという言いかたは、文明圏・生活圏・政治圏などを超える他地域・他世界との交流・交渉ということが第一義なので、単に遠距離ということが問題なのではない。結果として遠距離交易などと言い換えることができるだけである。しかし、人は遠古からそんなに遠方と関係をもつものであろうか、ということは当然基本的な疑問としてある。もとより人類はアフリカに発生しそこから世界各地への拡散と推定されており、現生人類もその系統にはまだ諸説あるようであるが、どの説に立っても遠距離のグレイトジャーニーを成し遂げたにはちがいない。しかしこれは無意識の結果としての遠距離である。本書で問題にするのは、人類の拡散よりはずっと後の時代であり、〝遠方〟という意識がともなっている時代である。そこでまず、遠方・遠距離自体ということはやはり重要な要素であるのでそれをかんがえてみよう。〝距離〟は人間活動の上で、歴史の上で意味のあることである。


 c 宝貝の路

 (p.41)

 最古の遠距離到来奢侈品代表は宝貝(子安貝)であろう。

 (p.42)

石器時代から現代までながく、ひろく移動している物質である。

 ラピスラズリもそうであるが、現代の我々はこのような宝貝等を単なる王侯の贅沢品と解釈しがちであるが、当時は、いわば社会的宝物であったので、王侯個人の贅沢・宝物のみではなかったようである。漢字の貝字は宝貝の象形字である。これが貨・貯・財・寶など現在の意味では経済関係の文字にのこっているのは今いう通貨であったからではなくて、文字以前からもっと別な役割をになっていた名残である。


 d 金属器時代への変化

 (p.43)

 金属器時代になると、先に述べたように、金属は生物としてもともと何らかかわりのあった物質ではない新物質であり、さらに実用品でもあるので、金属は細々としたルートによる入手のみでは足らず、大量かつ継続的に原料を確保する必要が生じてくる。金属の入手は社会や経済の仕組をおおきく変えることになる。

 最近の学界では、初期金属器時代の変化としてメソポタミアのウルクや黄河流域の鄭州二里崗が大勢力化することをとりあげて、ウルクエキスパンション・二里崗インパクトなどと呼ばれる用語がつくられて議論されている。これは金属器時代に入った初期に勢力を持ち、大規模な資源探索部隊を遠征させた状況を代表する都市である。これらの都市こそが、金属のみならずラピスラズリや玉をもとめて遠距離交易を促進したのである。


 e ラピスラズリとは

 (p.44)

 ラピスラズリの古代における産地は、現在のアフガニスターン東北部ヒンドゥークシュ山脈北側バダフシャーン地方、ファイザーバード市南方コクチャ河(アム河の支流)ケラノムンジャン渓谷のサルイサング谷周辺に限定でき、現在も採掘している。


 f ラピスラズリの路

 (p.48)

 ラピスラズリの他に紅玉髄[カーネリアン]・トルコ石・容器をつくる凍石[クロライト]などの石も西アジア一帯を運ばれたものであることが最近わかっている[大津・後藤 1999 ; 後藤 2000]。またこれらは、エジプトからインダスにかけて出土するので、いわゆる古代四大文明のうちインダス・メソポタミア・エジプトはつながりのあることがわかるのである、農牧文化複合がおなじ西アジア型であることとともに。

 (pp.48-49)

 ラピスラズリの路については、関係報告書も見がたい本がおおいが、要点は『ラピスラズリの路』[堀・石田 1986]・『古代オリエント商人の世界』[クレンゲル 1983]にまとめてある。


引用・参考文献

[ローフ 1994 pp.34‐35]

  ローフ、マイケル 1994『図説世界文化地理大百科 古代のメソポタミア』(松谷敏雄監訳)朝倉書店

[大津・後藤 1999 ; 後藤 2000]

  大津忠彦・後藤健 1999『石器と石製容器 石にみる中近東の歴史』中近東文化センター

  後藤健 2000『インダスとメソポタミアの間」『NHK スペシャル 四大文明 インダス』(近藤英夫編)日本放送出版協会

[堀・石田 1986]

  堀晄・石田恵子 1986『ラピスラズリの路』古代オリエント博物館

[クレンゲル 1983]

  クレンゲル 1983「古代オリエント商人の世界」(江上・五味訳)山川出版社



―― その他の関連資料を、参照・引用したページを、以下のサイトで公開しています。


〈シルクロード Silk Road 〉の彼方より

http://theendoftakechan.web.fc2.com/eII/amrta/silkroad.html


2021年6月17日木曜日

薬師十二神将のサンスクリット語

 薬師如来の眷属である〝十二神将〟とは、12 の夜叉(薬叉)の大将のことでした。

 前回、中村元著『佛教語大辞典 縮刷版』を参照し、読み仮名を列記しましたけれども、今回はそれぞれのサンスクリット語を転記して、もとの意味をできる範囲で調べてみました。


使用した主な辞書は次のとおりです。


『佛教語大辞典』 縮刷版

中村元[なかむら・はじめ]/著

昭和56年05月20日 東京書籍/発行


『漢訳対照 梵和大辞典』 増補改訂版

財団法人鈴木学術財団/編

財団法人鈴木学術財団/刊

昭和54年08月20日 講談社/発売


Prin. Vaman Shivaram Apte,

THE PRACTICAL SANSKRIT-ENGLISH DICTIONARY

(Revised & Enlarged Edition)

V. S. アプテ『梵英辞典』(改訂増補版)

昭和53年04月15日 複製第1刷 臨川書店/発行


▣ 宮毘羅大將(くびらだいしょう)

kuṃbhīro nāma mahā-yakṣa-senāpatiḥ

kumbhīra 鰐魚(蛟・蛟龍) ⇨ 【漢訳】金毘羅

 कुम् भीरः ⇒ A shark, Crocodile

nāma ⇨ 【漢訳】雖已見、或見

 नाम ⇒ Named, called, by name

nāman ⇨ 【漢訳】名、名号

 नामन्  ⇒ A name, appellation, personal name

mahā (mahat) ⇨ 【漢訳】大、広大

 महा ⇒ The substitute महत्

yakṣa 超自然的存在 ⇨ 【漢訳】鬼神、夜叉、薬叉

 यक्षः ⇒

 N. of a class of demigods who are described as attendants of Kubera

senā-patiḥ 将軍 ⇨ 【漢訳】大将

 सेनापतिः ⇒ a general


▣ 伐折羅大將(ばざらだいしょう)

Vajro nāma mahāyakṣasenāpatiḥ

vajra 雷電;金剛石 ⇨ 【漢訳】金剛、金剛杵

 वज्र ⇒ adamantine, A thunderbolt, the weapon od Indra


▣ 迷企羅大將(めいきらだいしょう)

Mekhilo nāma mahā-yakṣa-senāpatiḥ

mekhalā 腰帯、帯[取り巻くまたは囲むものの譬喩にもちいる] ⇨ 【漢訳】帯、腰帯、宝帯

 मेखला ⇒ A belt, girdle, waist-band, zone in general


▣ 安底羅大將(あんちらだいしょう)

Antiro nāma mahāyakṣa-senāpatiḥ

anti 反対して、前に;近く

 अन्ति ⇒ Near, before, in the presence of

antika 近き ⇨ 【漢訳】近、所、処

 अन्तिक ⇒ Near, proximate

antima 最後の、最終の ⇨ 【漢訳】最後

 अन्तिम ⇒ Immediately following ; Last, final, ultimate


▣ 頞儞羅大將(あにらたいしょう)

anilonāma mahāyakṣa-senāpatiḥ

anila 風、Vāyu 神;生気 ⇨ 【漢訳】風

 अनिलः ⇒ Wind ; The god of wind


▣ 珊底羅大將(さんちらだいしょう)

Saṃthilo nāma mahāyakṣa-senāpati


▣ 因達羅大將(いんだらだいしょう)

indālo nāma mahāyakṣa-senāpatiḥ


▣ 波夷羅大將(はいらだいしょう)

Pāyilo nāma mahā-yakṣa-senāpatiḥ


▣ 摩虎羅大將(まごらだいしょう)

mahālo nāma mahāyakṣa-senāpati


▣ 眞達羅大將(しんだらだいしょう)

cindālo nāma mahāyakṣa-senāpatiḥ


▣ 招杜羅大將(しょうどらだいしょう)

caundhulo nāma mahāyakṣa-senāpatiḥ


▣ 毘羯羅大將(びぎゃらだいしょう)

Vikālo nāma mahāyakṣa-senāpatiḥ

vikāla 夕方 ⇨ 【漢訳】夜、暮、日暮、非時

 विकालः, -विकालकः ⇒

 1 Evening, evening twilight, the close of day.

 -2 Improper time, unseasonable hour



―― これまでに調べたものを含めて、それなりにまとめたページを、以下のサイトで公開しています。


Sanskrit सन्स्क्रित्

http://theendoftakechan.web.fc2.com/eII/amrta/sanskrit/index.html


2021年6月5日土曜日

夜叉(薬叉)大将と八部衆

 薬師如来の眷属である〝十二神将〟とは、12 の夜叉(薬叉)の大将のことです。〈夜叉(ヤシャ)〉は「仏説薬師如来本願経」などにある表記で、また〈薬叉(ヤクシャ)〉は「薬師琉璃光如来本願功徳経」などの表記で、いずれも〝超自然的存在〟を意味するサンスクリット語の音写文字となります。

 サンスクリット語では、


यक्ष yakṣa


なので、これをカタカナで書くと〈ヤクシャ〉に近い発音になるようです。

 漢訳された仏教経典には、〝十二神将〟は、次のように名称が列記されています。


『大正新脩大藏經』第十四卷


「佛說藥師如來本願經」隋天竺三藏達摩笈多譯

 (p.404)

宮毘羅大將  跋折羅大將

迷佉羅大將  安捺羅大將

安怛羅大將  摩涅羅大將

因陀羅大將  波異羅大將

摩呼羅大將  眞達羅大將

招度羅大將  鼻羯羅大將


「藥師琉璃光如來本願功德經」大唐三藏法師玄奘奉 詔譯

 (p.408)

宮毘羅大將  伐折羅大將

迷企羅大將  安底羅大將

頞儞羅大將  珊底羅大將

因達羅大將  波夷羅大將

摩虎羅大將  眞達羅大將

招杜羅大將  毘羯羅大將



 かくして翻訳者によって漢字の選び方に流儀があり、またこれらの漢字の読み方にも複数の流派があるようです。

 今回、中村元著『佛教語大辞典 縮刷版』の記述にしたがって読めば、


宮毘羅大將(くびらだいしょう)

伐折羅大將(ばざらだいしょう)

迷企羅大將(めいきらだいしょう)

安底羅大將(あんちらだいしょう)

頞儞羅大將(あにらたいしょう)

珊底羅大將(さんちらだいしょう)

因達羅大將(いんだらだいしょう)

波夷羅大將(はいらだいしょう)

摩虎羅大將(まごらだいしょう)

眞達羅大將(しんだらだいしょう)

招杜羅大將(しょうどらだいしょう)

毘羯羅大將(びぎゃらだいしょう)


と、なります。

 さて、眷属(けんぞく)には「つき従うもの」という意味がありますが、これら〝十二神将〟は仏法僧に帰依することを宣言するだけじゃおさまらず、仏法の修行僧を守護する役目を負うことまで、この経典中で宣誓しています。

 ところで先だっては、〈阿修羅(アスラ)〉について調べておったのですけれども、その〈阿修羅〉と今回の〈夜叉〉は、ともに〝八部衆〟の一員に名を連ねているのでした。

 〝八部衆〟は「天・龍」にはじまる鬼神の名称で、〝天龍八部衆〟とも称されます。『広辞苑』には次のように書かれていました。


てんりゅうはちぶしゅう【天竜八部衆】

仏法を守護するとされる八種の異類。天・竜・夜叉・乾闥婆(ケンダツバ)・阿修羅・迦楼羅(カルラ)・緊那羅(キンナラ)・摩睺羅迦(マゴラガ)のこと。もと古代インドの神々で鬼竜の類。八部。八部衆。竜神八部。


 でもって〝八部衆〟のメンバーについては、仏教辞典から抜粋してみました。


『岩波 仏教辞典』 第二版

〔中村元福永光司田村芳朗今野達末木文美士/編 2002年10月30日 第2版第1刷 岩波書店/発行〕


 天 てん

 (p.733)

 サンスクリット語 deva の訳で、神を意味する。神の概念は仏教の救済論には本来不必要であるが、バラモン(婆羅門)文化の影響下に仏教にとりいれられた。バラモン教(婆羅門教)においては『リグ‐ヴェーダ』以来 33 神、あるいは 3339 神ともいわれる多数の神が信仰されたが、その多くは自然現象が神格化されたものである。deva(本来、輝くもの、の意)は、ギリシア語 zeus やラテン語 deus と語源を同じくし、したがってバラモン教の神の概念はギリシア神話やローマ神話のそれと共通するところがある。


 竜 りゅう [s: nāga]

 (pp.1044-1045)

 〈那伽 なが〉と音写。蛇に似た形の一種の鬼神 きしん。天竜八部衆の一つ。インド神話におけるナーガは、蛇(特にコブラ)を神格化したもので、大海あるいは地底の世界に住むとされる人面蛇身の半神。彼等の長である〈竜王〉(nāga-rāja) は巨大で猛毒をもつものとして恐れられた半面、降雨を招き大地に豊穣をもたらす恩恵の授与者として信仰を集めた。特にインドの原住民部族の間では古くからナーガ信仰が盛んであった。

 ナーガは仏教でも初期聖典以来知られ、特に仏伝 ぶつでん 文学には仏陀 ぶっだ を豪雨より護った竜王の話などが見られて、早くから仏教彫刻などの題材ともされた。後にはインド神話の上で天敵とされていたガルダ鳥(迦楼羅 かるら・金翅鳥 こんじちょう)とともに八部衆に組み入れられ、また仏法の聴聞者として〈八大竜王〉なども立てられた。中国では〈竜〉と漢訳された。中国の竜は、鳳・麟・亀とともに四霊の一つで神聖視された。角、四足、長いひげのある鱗虫の長で、雲を起し雨を降らせ、春分に天に昇り秋分に淵に隠れるといわれる。そこで仏教の竜も中国的な竜のイメージで思い浮かベられるなど、大きく変容した。わが国の竜神 りゅうじん 信仰は中国の竜と日本の蛇=水神との習合であるが、雨乞 あまごい の神、豊漁の神、海の神として信仰された。


 夜叉 やしゃ

 (p.1015)

 サンスクリット語 yakṣa に相当する音写。ヤクシャ。〈薬叉 やくしゃ〉と音写されることもある。主として森林に住む神霊である。鬼神として恐しい半面、人に大なる恩恵をもたらすともされた。ヤクシャは樹木と関係が深く、しばしば聖樹と共に図像化されている。女性のヤクシャ(ヤクシー、ヤクシニー)の像も数多く残っている。水との縁も深く、「水を崇拝する (yakṣ-) 」といったので yakṣa と名づけられたという語源解釈も存する。仏教に取り入れられて、八部衆の一つとなった。なお、〈夜叉〉は特定の神格ではなく、北方守護の毘沙門天 びしゃもんてん の眷属である鬼神の総称。またわが国では古来、夜叉に帰依して新生児の無事を祈願し、名をもらい受ける習俗があり、その名の代表的なものが女子名の〈あぐり〉である。


 乾闥婆 けんだつば

 (p.291)

 サンスクリット語 gandharva の音写。〈香神 こうじん〉〈食香 じきこう〉などと漢訳し、また〈犍達婆〉〈健闥縛〉〈乾沓和 けんとうわ〉などとも音写する。1) 天上の音楽師、楽神ガンダルヴァ。2) 中有 ちゅうう の身体。

 インド神話におけるガンダルヴァは、古くは神々の飲料であるソーマ酒を守り、医薬に通暁した空中の半神とされ、また特に女性に対して神秘的な力を及ぼす霊的存在とも考えられていたが、後には天女アプサラスを伴侶として、インドラ(帝釈天 たいしゃくてん)に仕える天上の楽師として知られるようになった。仏教では、この楽師としての半神ガンダルヴァが、歌神の緊那羅 きんなら とともに天竜八部衆の一つに数えられる一方で、また女性の懐妊・出産などにかかわるその神秘的性格のゆえか、輪廻転生 りんねてんしょう に不可欠な霊的存在とも見なされ、肉体が滅びてのちに新たな肉体を獲得するまでの一種の霊魂、すなわち微細な五蘊 ごうん からなる〈中有の身体〉を意味するという特殊な用法も生んだ。胎児や幼児を悪鬼から守るといわれる密教の(栴檀 せんだん)乾闥婆神王 けんだつばしんのう は、人間の再生に不可欠なこの中有の身体としてのガンダルヴァが神格化されたものであろう。

 なお、インドの古典文学において〈ガンダルヴァの都〉(gandharva-nagara) は蜃気楼 しんきろう を意味し、実在しない虚妄なもののたとえに用いられるが、この表現は仏典でも好んで使用された。〈乾闥婆城〉〈尋香城 じんこうじょう〉などと漢訳される。


 阿修羅 あしゅら

 (p.10)

 サンスクリット語 asura の音写。略して〈修羅 しゅら〉。〈阿素羅 あそら〉〈阿須倫 あしゅりん〉などとも音写し、また〈非天 ひてん〉〈無酒神 むしゅしん〉(いずれも通俗的な語源解釈に基づく)などの漢訳語もある。血気さかんで、闘争を好む鬼神の一種。原語の asura は古代イラン語の ahura に対応し、元来は ahura と同じく〈善神〉を意味していた。しかしのちインドラ神(帝釈天 たいしゃくてん)などの台頭とともに彼等の敵とみなされるようになり、常に彼等に戦いを挑む悪魔・鬼神の類へと追いやられた。原語を〈神 (sura) ならざる(否定辞 a )もの〉と解する通俗的な語源解釈(漢訳:非天)も、恐らくその地位の格下げと悪神のイメージの定着に一役買ったと思われる。

 仏教の輪廻転生 りんねてんしょう 説のうち、五趣(五道)説では独立して立てられないが、六道説では阿修羅の生存状態、もしくはその住む世界が〈(阿)修羅道〉として、三善道の一つに加えられている。仏教ではまた、天竜八部衆(八部衆)にも組み入れられて、仏法の守護神の地位も与えられた。また密教の胎蔵界曼荼羅 たいぞうかいまんだら では、外金剛部院にその姿を見ることもできる。図像学的には三面六臂 さんめんろっぴ で表されることが多く、興福寺の阿修羅像(天平時代)はその代表例である。

 戦闘を好む阿修羅神は、古来仏教説話などを通じてわが国にも広く知られ、悲惨な闘争の繰り広げられる場所や状況を〈修羅場 しゅらば・しゅらじょう〉、戦闘を筋とする能楽の脚本を〈修羅物 しゅらもの〉、また争いの止まない世間を〈修羅の巷 ちまた〉と呼ぶなど、多くの比喩表現も生んだ。なお、阿修羅の好戦を象徴する阿修羅王と帝釈天の戦闘は『俱舎論 くしゃろん』や正法念処経の所説に由来するもので、そのとき帝釈天宮に攻め上った阿修羅王が日月をつかみ、手で覆うことから日蝕・月蝕が発生するとも説かれる。


 迦楼羅 かるら

 (p.165)

 サンスクリット語 garuḍa に相当する音写。ガルダ。〈金翅鳥 こんじちょう〉と訳される。伝説上の巨鳥。ガルダは竜(蛇)の一族の奴隷となった母を救うために、神々と争って不死の飲料であるアムリタ(甘露 かんろ)を手に入れ、母を解放した。竜を憎んで食べるとされる。ヴィシュヌ神と親交を結び、その乗物となったという。仏教にも取り入れられて、八部衆の一つとされる。『リグ‐ヴェーダ』において、神酒ソーマを地上にもたらした鷲(スパルナ)と同一視される。


 緊那羅 きんなら

 (pp.235-236)

 サンスクリット語 kiṃnara の音写。〈人非人 にんぴにん〉〈疑神〉の漢訳語もある。歌神。天界の楽師で、特に美しい歌声をもつことで知られる。もとインドの物語文学では、ヒマラヤ山のクベーラ神の世界の住人で、歌舞音曲に秀でた半人半獣(馬首人身)の生き物として知られたが、仏教では乾闥婆 けんだつば とともに天竜八部衆に組み入れられ、仏法を守護する神となった。人非人(人とも人でないともいえないもの)や疑神の漢訳語は、この語の通俗的な語源解釈(人間 (nara) だろうか?)に基づいている。密教の胎蔵界曼荼羅 たいぞうかいまんだら では外金剛部院の北方にその姿が見える。なおわが国では、香山 こうせん の大樹 だいじゅ 緊那羅が仏前で 8 万 4 千の音楽を奏し、摩訶迦葉 まかかしょう がその妙音に威儀を忘れて立ち踊ったという故事(大樹緊那羅王所間経 1、『法華文句』2)で著名。


 摩睺羅迦 まごらが

 (p.954)

 サンスクリット語 mahoraga に相当する音写。大蛇の意。蛇神。仏教に取り入れられて、仏法を守護する 8 種の半神的存在(八部衆 はちぶしゅう または天竜八部)の一つに数えられる。密教の胎蔵界曼荼羅 たいぞうかいまんだら では外金剛部院の北方に姿が見える。


 ようするに、おおよそ〈阿修羅〉を「鬼神」の代表格にみるとして、〈夜叉〉には「自然の精霊・森の鬼神」などのイメージがあり、天女アプサラスの伴侶でもある〈乾闥婆〉は「音楽師・音楽の神」で、〈迦楼羅〉は「不死の飲料であるアムリタ」に関係のある「伝説上の巨鳥」、《人非人》とも漢訳される〈緊那羅〉は「美しい歌声」の「天界の楽師」、〈摩睺羅迦〉は「大蛇・蛇神」ということになります。


―― その他の原典等を含めて、参照・引用したページを、以下のサイトで公開しています。


夜叉十二大将と天龍八部衆

http://theendoftakechan.web.fc2.com/eII/amrta/yaksha.html