◎ インダス文明の出土品について、前回の最後に参照した資料からあらためて抜粋しておきましょう。
『インダスの考古学』
〔近藤英夫/著 2011年01月20日 同成社/発行〕
第 5 草 文明の精神世界 ―― 支配者の姿
「1 文明期の神々」
(pp.77-80)
インダス文明では、メソポタミアとは異なり信仰・宗教に関する文献資料が欠如している。そのために信仰に関する図柄を手がかりとして、文明期の宗教について検討していく。
印章や銅製護符や土製護符に刻された文明の信仰図柄は、以ドのⅠ~Ⅸに分けることができる。すなわち、
Ⅰ)有角神(頭部にスイギュウの角と植物を生やす)
Ⅱ)半人半獣神(捻れたヤギの角と植物を生やす)
Ⅲ)牛男(有角)
Ⅳ)一角獣
Ⅴ)有角獣(複合獣)
Ⅵ)スイギュウ
Ⅶ)複頭獣
Ⅷ)トラと闘う神
Ⅸ)ボダイジュ
以ド、個別にその特徴をみていく。
Ⅰ)有角神
跏跌座像と立像とがある。いずれの場合も大きく湾曲した角をもち、両角の間には植物表現がなされている。湾曲した角はスイギュウの角を模したものと推定される。また、上・下腕いっぱいに腕輪をつけていることも特徴の一つである。
跏跌座像は、多くは牀(胡坐用の台)の上に乗っている。三面の顔をもつといわれている。頭部には角と植物を生やし、両手を広げて膝にあて牀に座している。人物の周囲には動物が描かれている。
もっともよく知られているのは、モヘンジョ・ダロ出土の印章に刻された有角神像である(図 24-1 )。〔略〕中央の人物がこれらの動物を従えていると解釈でき、ここからこの人物像は「獣王」の性格を有しているとされ、〝シヴァ神の祖型〟と考えられてもいる。しかし、シヴァ神の成立は文明期よりも 1000 年近くの後であり、ただちに祖型としてよいかどうかは疑問である。この人物像は周囲に動物を配さずに単体で描かれることもある。また、ハラッパー出土の土製護符には、人物像の前でスイギュウを屠っている場面が描かれている。供儀のシーンである。
立像の場合は、頭部に角と植物を生やした長い後ろ髪の人物がボダイジュの樹の間に立つ姿であらわされる。モヘンジョ・ダロから出土の印章は、儀礼的シーンを描いたものである(図 24-2 )。〔略〕儀礼的シーンではなく、人物像が単体で描かれる場合もある(図 24-3 )。この場合も、樹の間に人物が表現されている。ドーラーヴィーラー出土の印章にもその例がある。
Ⅱ)半人半獣神
頭部にヤギ科の動物の角と植物を生やし、下半身がトラで上半身は人間である。角は、頭部には角と植物、そして編んだ後ろ髪が表現されており、腕いっぱいに腕輪をつけている。
〔略〕
(p.81)
Ⅳ)一角獣(図 27 )
想像上の有角動物である。印章に刻された全図柄の 60% がこの一角獣である。
Ⅴ)有角獣(複合獣)
トラ、ゾウなどに角をつけて表現されたものである。これも神格の表現と考える。〔略〕
(pp.82-83)
Ⅶ)複頭獣
複数の首部をもつキメラ。〔略〕
Ⅷ)トラと闘う神
中央に立つ人物が、後ろ足で立つ左右のトラをおさえている図柄である。印章・護符にみられる。人物像には角がみられず、また腕輪もつけていない。モヘンジョ・ダロ出土の印章の図柄では(図 31 )、このシーンのみであるが、ハラッパー出土の土製護符では、足下にゾウが描かれている。
このモチーフはメソポタミアに起源するとされている。メソポタミアの場合は、両側の獣はライオンであることが多く、インダス的に変容したものと考えられる。
Ⅸ)ボダイジュ
ボダイジュを中央におき、シンメトリーに動物などを配する図柄がある。ボダイジュと一角獣が組み合わさったものと、ボダイジュが中心で両サイドに人物が配されているものとがある。初期ハラッパー文化期以来の植物信仰の伝統が、文明期に引き継がれたととらえてよい。
樹木を中央におき、シンメトリーに動物などを配する描き方はメソポタミア起源の生命の樹の描き方に通ずるが、彼我の関係は不明である。
「2 神々のつくり出す世界 ―― 在地の神と外来の神 ――」
(p.83)
以上が文明の信仰表現である。基本的には、初期ハラッパー文化期からの角と植物の信仰伝統を引き継いでいるとみてとれる。ただ、初期ハラッパー文化期と違って、文明期には信仰表現が多様化する。おそらくは、Ⅰ)有角神(図 24 )が主神であろうが、それ以外にもさまざまな神が登場する。
(pp.84-85)
文明は近隣の、そして遠隔のさまざまな地域と交渉をもつ。その過程で、インダス平原の信仰伝統から逸脱した神もまた文明期に現れる。そしてそれをも含み込んで、文明の神々の世界は展開する。文明期には、初期ハラッパー文化期の伝統から逸脱したものもパンテオンに加わる。
〔略〕
Ⅶ)複頭獣であるが、いくつもの首を描く表現は、湾岸式の印章の図柄の表現にある。モヘンジョ・ダロ出土の円形印章では、六つの有角動物の首のみが同心円上に描かれている。この動物は、丸い大きな目をもつことも特徴としてあげられる。こうした図柄の起源は、ペルシャ湾岸のバハレーン島を中心に展開したティルムン(ディルムン)文明の湾岸式印章の図柄に求めることができる。これらから考えて筆者は、湾岸の影響を受けてインダス文明版図内で成立した図柄と推測している。また、三つの首をもつウシ科の動物は、元来湾岸起源の図柄がインダス的に変容したものと考えたい。
Ⅷ)トラと闘う神も文明圏外に起源が求められる神である。図柄の中央に描かれている人物像は角をもたない点で、インダス文明の基本的な信仰からは異質な神である。パルポラによれば、「中央の人物が左右の猛獣を抑えている」図柄はメソポタミア起源のものであり、中央の人物が猛獣を押さえるという図柄はメソポタミア、イランの諸遺跡に広く分布しているという。猛獣は、メソポタミアの場合はライオンであり、イランでは想像上の動物になる。〔略〕
初期ハラッパー文化期以来の伝統にもとづく「スイギュウの角と植物」の有角神が在地の神とすれば、「半人半獣神」「複合獣」そして「トラと闘う神」は外来の神である。メソポタミアや湾岸に起源をもつ神が、文明のパンテオンに組み込まれたとしてよい。アフガニスタン、イラン、湾岸、メソポタミア各地域と深くかかわるグループが、文明に存在した証しであるとしたい。
◎ というわけで、
「中央の人物が猛獣を押さえるという図柄はメソポタミア、イランの諸遺跡に広く分布しているという」
ことと、
「猛獣は、メソポタミアの場合はライオンであり、イランでは想像上の動物になる」
ということが、あらためて確認できた次第です。